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第四章 親善交流
2 疑問
しおりを挟むエイの形をした飛行艇──いまやそれは「水中艇」とでも呼ぶべき機能を発揮していたが──は、ほどなく海底皇国の建物群のひとつに入った。
巨大な皿のような形の珊瑚に似た施設の側面に、ぽかりと楕円形の口がひらき、するすると誘導されるように吸い込まれて行く。
「ああ、ユーリ殿下。初めに言っておくが、ご心配は無用だぞ」
「え?」
「徹頭徹尾、空気のある区域だけをご案内する予定だ。くれぐれも、我らが案内する場所以外に勝手に立ち入らないでいただきたい。そなたの命の保証をするためにもな」
「は……はい」
飛行艇の広間で玻璃と隣り合わせにソファに座り、ユーリはこくりと喉を鳴らした。
よく考えてみれば、これは非常な恐怖を覚えてしかるべき場面だ。こちら側からアルネリオに向かった瑠璃殿下が味わうはずもない恐怖。水の中で溺れ、死にかかった経験のあるユーリにとっては、普通の者よりもはるかに大きな恐怖のはずだったが。
(……不思議だな)
今は不思議と、その恐ろしさを感じない。
もしもこの施設内で空気ではなく、海水に満たされている区域に間違って入ってしまったら。自分はその数瞬後には命を喪うしかないというのに。
ユーリの瞳の色が翳ったのを悟ったように、玻璃の声がさらに優しくなった。
「ご案じ召さるな。行きたい場所は、どこへなりとご案内申し上げる。こちらには、水中で呼吸できるような装備も十分用意してあるゆえな。側の者に、いつでも申し付けてくれればよい」
「は、はい……」
そうこうするうちにも、周囲の景色はどんどん変わっていく。
飛行艇が発着するらしい大きな広間のような場所につくと、低い振動音を立てて《エイ》は止まった。飛行艇をすっぽりと覆っていた海水が、勢いよく排出されて水面を提げていく。
玻璃はにっこりと微笑んでユーリの手を取り、立ち上がった。
「さあ、参ろう。まずは父に紹介する」
「はい」
たしかお父上の群青陛下は、水の中でお暮らしのはず。その陛下と自分がどのように顔合わせをするものだか、ユーリにはさっぱり見当もつかなかった。
だが、玻璃は平然とユーリを誘い、悠々と歩を進めていくだけだ。
ロマンと黒鳶はふたりの少し後ろから並んでついてきている。あの大きな荷物を背負い、ロマンも先ほどからきょろきょろしっぱなしのようだった。
やがて乗ったときに使った階をおり、一同は遂に海底皇国「滄海」の地を踏んだ。
「ドック」とか呼ばれる飛行艇の発着場は、だだっ広い空間になっていた。最初は大きいと思った《エイ》だったが、ここには同じものがあちこちに何機も停められている。それらをすべて擁する空間だ。それだけで、大きな街ひとつ分はあるのではないかという広さだった。
あちらこちらで人々が働いている姿が見える。ここで働く人々は、どうやらほとんど「足つき」であるようだった。だが、飛行艇を今も半分ほど浸している海水の中では、尾鰭のある人が何人か、何かの機器を手にして泳ぎ回っているのが見えた。機体の状態を調べ、記録しているようである。
作業員には、男もいれば、女もいる。みな最初に玻璃皇子に深々と礼をしたあとは、こちらを見ることもなくきびきびと働いている。みな、厳しい顔ながらも生き生きとして、仕事を楽しんでいるように見えた。
ユーリはふと不思議に思って玻璃の腕を少し引いた。
「玻璃殿下。お訊ねしてもよろしいですか」
「もちろんだ。なんでも遠慮なくお訊ねあれ」
「ありがとうございます。こちらで働いている人々ですが、どういった出自の者たちなのでしょう」
玻璃の目に、ふと不思議な光が宿ったようだった。
「出自……つまり、身分のことだろうか」
「ええ。まあ、そういうことですが」
「いわゆる身分ということで言えば、こちらにもそちら同様、身分差が存在している」
玻璃は親善使節の一同とともに広間から続く通路へ入っていきながら、道々説明してくれた。
海底皇国には身分差がある。ただしそれは、帝国アルネリオにあるような貴族階級、平民階級といった身分の違いとは少し違う。
もちろん、玻璃をはじめとする王族とその傍に仕える貴族に類するものたちはいるが、それが資本を独占して平民階級の収入を圧迫する……といった政治体制はとっていない。
税の徴収はあるけれども、それが庶民の生活を圧迫しすぎ、かれらが困窮するところまでにはなっていないのだという。
「またこの国では、たとえ平民に生まれても、学問への道は閉ざされていない。やる気と能力のある者には、相当の就学援助が行われるしくみがある」
「援助……」
「要は、学校施設と教師、講師連中の給金を国が代わりに支払うしくみだな。親が貧しいがゆえ、また何かの理由で親が子を育てられない場合でも、子供が自分で生きていく術を見つけられるように、こまやかに援助している」
「すべての子供に? そんなことが可能なのですか」
驚いたユーリを見下ろして、玻璃はにかりと笑った。
「可能にしたのよ。先人がな」
かつて海底皇国の前身だった陸の国は、資本をもとに政治体制を考えるしくみで動いていた。だがそれはひどい貧富の差を生んで、とりわけ貧しい人々を厳しく締め上げることになった。貧しい家に生まれた子供が裕福な側へのしあがることは、不可能ではないまでも、非常に困難だと言えた。すべての足掛かりとなるはずの教育が、十分に受けられなかったからである。
そこに至るまでにも、国全体の収入を平等に国民に分け与えようというしくみを考えた国もある。だがそれも、様々な理由で頓挫した。
「人はいまだに、完全なる政治体制がいかなるものかという命題の答えにたどり着いていないと思う。だがまあ、わが国はある程度、うまくやれている方かと思う」
言って玻璃は、通路脇を頭を下げて通り過ぎた仕事中らしい男女をユーリに示した。
「能力があり、仕事ができる者であれば、生まれによらず性別によらず、十分に能力を生かして働いてもらう。しかし、能力があるかなきかは、ともかく教育してみなくてはわからぬこと。だから子供に教育の機会を存分に与えることは必須なのだ。そうすることこそ、本当に国が富む礎となる。これは父、群青も常々申していることだ」
「な、なるほど……」
正直、すごいと思った。
ユーリは皇帝たる父をもちろん心から尊敬している。しかし父エラストから、ここまでの思想をお聞きしたことはかつてない。
平民は平民だ。農奴は農奴。彼らは自分たちよりもはるかに貧しくて、当然十分な教育は受けられず、いまだに文字を読めない者も多い。かれらが実入りのいい仕事に就くことはむずかしく、だから貧しさから脱することも困難なのだ。
それが当然なのだと思っていた。
……なぜなら、我らは選ばれた一族だから。
(しかし……しかし)
ユーリはなんとなく、誰かに頭を殴られたような気になって立ち止まった。
ときにはアルネリオも、国庫を開いて貧しい人々に施しをすることがある。だがそれは偏に、父エラストの過分の大いなる慈愛によるものだと思ってきた。臣下たちからも臣民からも、そう讃えられてきてもいた。
しかし。
(ほんとうに、そうなのか……?)
ユーリの胸に、ここへきてもやもやと、今まで思いもかけなかった疑問の渦が頭をもたげてきていた。
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