30 / 195
第三章 海底皇国へ
11 鯨の歌
しおりを挟む
「まあ、『百聞は一見に如かず』と言うし。すぐに理由はお分かりになろう。そら、ご覧あれ。そう言ううちにも、もう海だ」
「え? わっ!」
言って玻璃が指さした先には、もう水面が間近に迫っていた。
と思ったら、機体はあっという間に水の中に突っ込んだ。周囲をうわっと大量の水の泡が包み込む。親善使節の面々も「わっ」と驚いた声をあげた。
今や飛行艇は水中を猛スピードで進む水中艇に変貌して、ぐいぐいと海底を目指していた。
「あっ。魚……!」
ユーリは目を輝かせた。
飛行艇の脇を、たくさんの魚の群れが泳いでいるのだ。魚群は大きな塊となり、ぐうっと巨大な球状になったかと思うと、急にひょいとうねって蜷局を巻く蛇のようになったり、魚のような形になったりしている。
いつまで見ていても見飽きないような、おびただしい変化だった。
ユーリは感嘆の声をあげた。
「すごい数ですね。なんの魚ですか?」
「鰯だな。ああして大きな群れで泳ぎ、全体で巨大な魚のふりをして外敵から身を守る」
「へええ……」
「大方、いまこの飛行艇がそばを通ったので、警戒しているのだろうよ」
「ふうん。賢いものですね……」
本気で感心していたら、玻璃は満足そうにユーリを見やって、なんとなく優しい目になった。
「すべては生き残るためだからな。あらゆる生き物はそのために、それぞれの賢さを身に着けている。それに、海の世界は広い。まだまだ、我ら人間のあずかり知らない知恵を潜めているのではないかと思うぞ」
「なるほど……。あっ、あれは? 玻璃どの」
ユーリはまた別の方向を指さした。はるか向こうに、先ほどのよりもずっと大きな魚影がぼんやりと見えてきたのだ。
目を皿のようにして腰を浮かせたユーリに、玻璃が自然な仕草で顔を近づけてきた。
「ああ、鯨の親子だな。この季節には、ああしてこのあたりを回遊している。子育てをしながら、餌の豊かな海域を巡るのさ。あれは毎年見る雌だ」
「へええ……」
雄大な体を水にあそばせて、目の覚めるような巨体が悠々と水の中を泳いでいるところはまことに壮観だった。そのすぐそばを、親の三分の一ほどの大きさの子どもがついて泳いでいる。
甘えん坊なのだろうか。すぐそばにぴたりと寄り添って、決して離れようとしない。
「わあ……」
ユーリはもう我慢できずに立ち上がっていた。そのまま壁際まで駆け寄る。玻璃がすぐにあとに続いた。
「あれ、まだ赤ちゃんだ。そうですよね?」
「ああ」
「ふふっ。甘えてる……。可愛いですねえ」
「うん。良かった」
玻璃がにこりと笑ってユーリを見た。今はすぐ隣に立っている。
「そなたに見せてやりたかった」
「え……」
それは、深い声だった。なんとなく、心からの優しさが滲むような。
ユーリは思わず彼を見た。
今やユーリは、彼の吐息が掛かるほどに玻璃にぴたりと体を寄せて立っている。玻璃はいつのまにか、ごく自然な仕草でユーリの腰を抱きよせていた。
「この海は、まだ十分に豊かなのだ。我らには、まだ時間が残されている──」
「えっ……?」
なんだろう。
なんだか意味深な言葉に聞こえた。
と、玻璃がさりげなく片手を上げた。すると、急に周囲に不思議な音が広がった。
きゅうん、とか、ぎぎい、とかいう奇妙な音声が室内にこだましている。うおおん、という鍾乳洞にでも響くような音も含まれていた。
親善使節の皆も、不思議そうに周囲を見回している。
「あのう。これは?」
「人間の耳にも聞きやすく調整した、鯨の声だ。かれらはこういった方法で互いに連絡をとりあっている。相当に離れた仲間とも、こうして交信しているらしいぞ」
「へえ……」
同様の説明が、海底皇国側の文官らしい男から使節の皆にもなされている。
ユーリは目を閉じ、じっと耳を澄ませてみた。
聞いていると、高低差がありながら、とても心地のいい響きに思えた。
「今のは子どもが、母親に乳をねだっている声だな」
「えっ。そうなのですか」
「ああ。おっしゃる通り、かなり甘えん坊のようだ」
ユーリは思わずくすっと笑った。
「優しい母親なのですね。子ども、やっぱり可愛いなあ」
「ああ」
玻璃がユーリの腰を抱く手に、また少し力を加えたようだった。
「しかし、ひとつだけ異論があるな」
「は? なんでしょう」
「あれよりも──」
ちらりと鯨の親子を目で示している。
「そなたの方が、よほど可愛い」
「え──」
腰をさらに抱き寄せられて、ユーリの胸はとくんと跳ねた。
上からちゅ、と軽く音をたてて、こめかみあたりに唇が触れてくる。
「なっ……なな、なにを!」
慌てて玻璃の胸を押し戻す。
「やめてください! みっ、皆が見ておりますので」
「ご案じ召さるな。彼らに我らは見えておらぬ」
「えっ?」
目をぱちくりさせて見返すと、玻璃はやっぱり優しげな眼差しで笑っていた。
「皆、気づいてはおらぬだろうが。あちらとこちらの間に、見えない帳が下ろしてある。そこに、座ったままの我らの映像が映し出されているのだ。ここにいる我らの姿は彼らには見えておらぬ。無論、音も遮断してある」
「え、……ええ?」
改めて親善使節団の皆を見やると、確かに彼らは誰ひとりこちらを見ていなかった。そもそも、驚嘆すべき外の景色を息を呑んで見つめている者がほとんどだ。中にはちらりと背後を見る者もいたけれども、その視線はこちらではなく、先ほどユーリたちが座っていたソファの方に注がれている。
なるほど、玻璃の言葉は嘘ではないらしい。
「……そ、そんなこともできるのですか」
色々とずるい気がする。
ロマンが退席したのをいいことに、わりと好き放題ではないか、この皇子。
ちょっと下から睨み上げたら、玻璃はふはは、と笑って見下ろしてきた。
「そういうお顔も、なかなか可愛い」
わけのわからぬことを言い、再び腕に力を込めてユーリの腰を抱きよせる。
今度は彼の唇が自分のそこを目指してきているのがはっきり分かって、ユーリは慌てた。
「ちょ……ちょっと!」
「お嫌か?」
「そ、そういうことではなくっ……むぐっ?」
焦ってじたばたしているうちに、難なく唇を塞がれた。
最初はついばむような軽い口づけ。だがすぐに、あの時のような噛みつくようなものに変わっていく。
「んっ……んううっ」
やがて熱く舌を絡められて、あっさりと足の力が抜けそうになった。
「え? わっ!」
言って玻璃が指さした先には、もう水面が間近に迫っていた。
と思ったら、機体はあっという間に水の中に突っ込んだ。周囲をうわっと大量の水の泡が包み込む。親善使節の面々も「わっ」と驚いた声をあげた。
今や飛行艇は水中を猛スピードで進む水中艇に変貌して、ぐいぐいと海底を目指していた。
「あっ。魚……!」
ユーリは目を輝かせた。
飛行艇の脇を、たくさんの魚の群れが泳いでいるのだ。魚群は大きな塊となり、ぐうっと巨大な球状になったかと思うと、急にひょいとうねって蜷局を巻く蛇のようになったり、魚のような形になったりしている。
いつまで見ていても見飽きないような、おびただしい変化だった。
ユーリは感嘆の声をあげた。
「すごい数ですね。なんの魚ですか?」
「鰯だな。ああして大きな群れで泳ぎ、全体で巨大な魚のふりをして外敵から身を守る」
「へええ……」
「大方、いまこの飛行艇がそばを通ったので、警戒しているのだろうよ」
「ふうん。賢いものですね……」
本気で感心していたら、玻璃は満足そうにユーリを見やって、なんとなく優しい目になった。
「すべては生き残るためだからな。あらゆる生き物はそのために、それぞれの賢さを身に着けている。それに、海の世界は広い。まだまだ、我ら人間のあずかり知らない知恵を潜めているのではないかと思うぞ」
「なるほど……。あっ、あれは? 玻璃どの」
ユーリはまた別の方向を指さした。はるか向こうに、先ほどのよりもずっと大きな魚影がぼんやりと見えてきたのだ。
目を皿のようにして腰を浮かせたユーリに、玻璃が自然な仕草で顔を近づけてきた。
「ああ、鯨の親子だな。この季節には、ああしてこのあたりを回遊している。子育てをしながら、餌の豊かな海域を巡るのさ。あれは毎年見る雌だ」
「へええ……」
雄大な体を水にあそばせて、目の覚めるような巨体が悠々と水の中を泳いでいるところはまことに壮観だった。そのすぐそばを、親の三分の一ほどの大きさの子どもがついて泳いでいる。
甘えん坊なのだろうか。すぐそばにぴたりと寄り添って、決して離れようとしない。
「わあ……」
ユーリはもう我慢できずに立ち上がっていた。そのまま壁際まで駆け寄る。玻璃がすぐにあとに続いた。
「あれ、まだ赤ちゃんだ。そうですよね?」
「ああ」
「ふふっ。甘えてる……。可愛いですねえ」
「うん。良かった」
玻璃がにこりと笑ってユーリを見た。今はすぐ隣に立っている。
「そなたに見せてやりたかった」
「え……」
それは、深い声だった。なんとなく、心からの優しさが滲むような。
ユーリは思わず彼を見た。
今やユーリは、彼の吐息が掛かるほどに玻璃にぴたりと体を寄せて立っている。玻璃はいつのまにか、ごく自然な仕草でユーリの腰を抱きよせていた。
「この海は、まだ十分に豊かなのだ。我らには、まだ時間が残されている──」
「えっ……?」
なんだろう。
なんだか意味深な言葉に聞こえた。
と、玻璃がさりげなく片手を上げた。すると、急に周囲に不思議な音が広がった。
きゅうん、とか、ぎぎい、とかいう奇妙な音声が室内にこだましている。うおおん、という鍾乳洞にでも響くような音も含まれていた。
親善使節の皆も、不思議そうに周囲を見回している。
「あのう。これは?」
「人間の耳にも聞きやすく調整した、鯨の声だ。かれらはこういった方法で互いに連絡をとりあっている。相当に離れた仲間とも、こうして交信しているらしいぞ」
「へえ……」
同様の説明が、海底皇国側の文官らしい男から使節の皆にもなされている。
ユーリは目を閉じ、じっと耳を澄ませてみた。
聞いていると、高低差がありながら、とても心地のいい響きに思えた。
「今のは子どもが、母親に乳をねだっている声だな」
「えっ。そうなのですか」
「ああ。おっしゃる通り、かなり甘えん坊のようだ」
ユーリは思わずくすっと笑った。
「優しい母親なのですね。子ども、やっぱり可愛いなあ」
「ああ」
玻璃がユーリの腰を抱く手に、また少し力を加えたようだった。
「しかし、ひとつだけ異論があるな」
「は? なんでしょう」
「あれよりも──」
ちらりと鯨の親子を目で示している。
「そなたの方が、よほど可愛い」
「え──」
腰をさらに抱き寄せられて、ユーリの胸はとくんと跳ねた。
上からちゅ、と軽く音をたてて、こめかみあたりに唇が触れてくる。
「なっ……なな、なにを!」
慌てて玻璃の胸を押し戻す。
「やめてください! みっ、皆が見ておりますので」
「ご案じ召さるな。彼らに我らは見えておらぬ」
「えっ?」
目をぱちくりさせて見返すと、玻璃はやっぱり優しげな眼差しで笑っていた。
「皆、気づいてはおらぬだろうが。あちらとこちらの間に、見えない帳が下ろしてある。そこに、座ったままの我らの映像が映し出されているのだ。ここにいる我らの姿は彼らには見えておらぬ。無論、音も遮断してある」
「え、……ええ?」
改めて親善使節団の皆を見やると、確かに彼らは誰ひとりこちらを見ていなかった。そもそも、驚嘆すべき外の景色を息を呑んで見つめている者がほとんどだ。中にはちらりと背後を見る者もいたけれども、その視線はこちらではなく、先ほどユーリたちが座っていたソファの方に注がれている。
なるほど、玻璃の言葉は嘘ではないらしい。
「……そ、そんなこともできるのですか」
色々とずるい気がする。
ロマンが退席したのをいいことに、わりと好き放題ではないか、この皇子。
ちょっと下から睨み上げたら、玻璃はふはは、と笑って見下ろしてきた。
「そういうお顔も、なかなか可愛い」
わけのわからぬことを言い、再び腕に力を込めてユーリの腰を抱きよせる。
今度は彼の唇が自分のそこを目指してきているのがはっきり分かって、ユーリは慌てた。
「ちょ……ちょっと!」
「お嫌か?」
「そ、そういうことではなくっ……むぐっ?」
焦ってじたばたしているうちに、難なく唇を塞がれた。
最初はついばむような軽い口づけ。だがすぐに、あの時のような噛みつくようなものに変わっていく。
「んっ……んううっ」
やがて熱く舌を絡められて、あっさりと足の力が抜けそうになった。
0
お気に入りに追加
104
あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる