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第二章 陸の国と海の国
8 間諜
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と、あとほんの指一本分というところで玻璃皇子の唇が止まった。
「やはり嫌か? 斯様に性急な求愛は」
「いや、その……そういうこと以前にですね!」
ユーリはもう、必死で男の分厚い胸を押し戻しながら叫んだ。
「そっ、そもそも貴方さまは、いったい何がどうしてこんな私なんかをお望みなのです? 同じ男とは申せ、我が兄上がたならまだしも──」
「兄上がた? ……ああ、あの方々も確かに素晴らしき美丈夫ではあられるようだな。それぞれに大した才もおありのようだし。だがまあ、あいにくと俺の好みではない。それが?」
「でっ、ですから──」
そこでやっと、男はユーリの体から手を離してソファに戻った。「ふむ」と、なにやら顎に手を当てて考える様子である。
「つまりそなたは、俺がそなたのことをあまりよく知らぬと、そう言いたいわけだな? そんな程度で『好き』だの『妻になってくれ』だのと、軽々なことを申すなと」
「う……。ま、まあ、そういうことです」
高鳴る胸の動悸を抑えつつ、ユーリはやっとそう返した。
この男、何をしれっと言っているのか。客観的に見れば、どう考えたってこんなのはおかしいのだ。おかしすぎる。そして無礼だ。
いや、不思議と腹は立たないし、そこがまた不思議なのだが。
「わたくしはご覧の通り、見た目も才もさほどのことはない男です。兄上がたに比べれば、もはや凡夫に等しき者にございましょう。それを──」
「ふむ? そなたは自分をそのように評しているのか」
「評していると申しますか……。なにぶん事実にございますので」
ふと悲しい気持ちになって目線を落とす。
こんなこと、わざわざ自分で言わせないで貰いたかった。男は、そこで明らかに曇ったであろうユーリの表情を子細に観察するような目をしている。
「つまり、こういうことか。俺が兄上がたに求愛するのなら構わぬと?」
「そっ、そうは申しておりませぬが!」
そもそも、男が男に求愛することそのものがこの国では異様なのだ。まして相手はこの国の皇太子と第二皇位継承者。その高貴なお二人が、なにが悲しくて海の皇国の皇太子に嫁がねばならんのだ!
「ふむ。だがまあ、俺はすでにそなたを相当知っているのだがな。恐らくそなたが思うよりもずっと」
「はあ? どういうことでございます」
「あの時、この腕に抱いて介抱し、あれこれと寝言なども聞かされたことでもあるし」
「うっ……」
なんだろう。自分はあの時、何かこっ恥ずかしい寝言でも垂れ流していたのだろうか。
「それに、こちらはずっと以前から陸の帝国のことは存じ上げていた。そちらはまったくこちらの存在を知らずにいたかも知れないがな。いずれ、海と陸の大国同士、関わり合いが出ぬとも限らない。今後のこともあるわけだから、それなりに情報収集にも力を入れてきているのだぞ」
「ええっ?」
ユーリとロマンが同時に声を上げる。
男はにやりと二人を見やった。ゆったりとソファのひじ掛けに肘をつき、まるで可愛い愛玩動物でも見るような目をしている。
「まあ、海底皇国がそなたらとの交流を長年忌避してきたことも事実ではあるが。だが、それとこれとは話が別であろう。詳しいことは申せぬが、他国に間諜だのなんだのを潜伏させて情報収集するなどは基本のキというものよ。悪いがこちらは、そちらでは廃れてしまった進んだ科学力を保有しつづけてきたことでもあるしな」
「は、はあ……??」
「そなたがゆらゆらと船に乗り、暢気に馬車などでご帰国あそばしている間じゅう、俺の手下の者が優れた機器を使い、ずっとその姿を追って逐一俺に報告していたのだ。気づかなかったか」
「えええっ!?」
海の皇太子の瞳が笑みを深めた。
「そなたは朝が弱かろう? 魚料理はやや苦手。ただしムニエルだけは箸が進む──ああ、そなたらは箸は使わぬが。牛や豚の肉よりは鶏肉の料理が好み。パイ生地を使った甘いチョコレート菓子と杏子のジャムがお好みで、午後の喫茶の時間を毎日かなり楽しみにしている」
ほとんど立て板に水だった。
王子はぽかんと口を開けたままである。
それらはすべて事実だった。隣のロマンも呆然と男の口元を見つめるばかりだ。
「剣術や体術、馬術など、武芸一般はやや苦手。学業についても努力はしているが、兄上がたほどの成果は出せず、そのことをひどく気にしている。違うか」
「あ、あのっ……」
「ほかにも色々知っているぞ。側付きの小姓、ロマン殿が、紅茶に大いなる拘りをお持ちであることなんかもな。ユーリ殿専用のサモワールも、ロマン殿のお見立てであるのだとか」
「う……」
ユーリとロマンの顔はもはや、赤くなったり青くなったり大変いそがしいことになっている。
サモワールとは、こちら式の紅茶を淹れる金属製の湯沸かし器だ。「どうしてもどうしてもあれが欲しいのです」と懇願されて、ユーリが王宮出入りの商人からかなりの高額で購入したものである。
(こ、この男は──)
いったい全体、何者なのか。
いやまあ、すでに「海底皇国の皇太子だ」と堂々と名乗られてはいるのだが。
「まあ、ここまではご愛嬌だが」
玻璃は頭の横で軽く手を振り、あらためてユーリを見つめてきた。
「『自分のどこが気に入ったのか』と申したな」
ユーリはぎょっとして身を固くする。
「そなたは、その地位にありながら非常に謙虚な御仁だ。その地位に決して奢らず、無為に過ごさず、なすべき努力を惜しまない。また目下の者たちへの細やかな配慮を日々、欠かさない」
「…………」
「間違っても、かれらに尊大な態度で当たらない。無理難題をいいつけて自分の不満を解消するなどという、愚を犯すことも決してしない」
「そっ、そうでございますっ! おっしゃる通り!」
突然ロマンが割って入って、ユーリは思わず、ソファからぴょんと尻を浮かした。
「やはり嫌か? 斯様に性急な求愛は」
「いや、その……そういうこと以前にですね!」
ユーリはもう、必死で男の分厚い胸を押し戻しながら叫んだ。
「そっ、そもそも貴方さまは、いったい何がどうしてこんな私なんかをお望みなのです? 同じ男とは申せ、我が兄上がたならまだしも──」
「兄上がた? ……ああ、あの方々も確かに素晴らしき美丈夫ではあられるようだな。それぞれに大した才もおありのようだし。だがまあ、あいにくと俺の好みではない。それが?」
「でっ、ですから──」
そこでやっと、男はユーリの体から手を離してソファに戻った。「ふむ」と、なにやら顎に手を当てて考える様子である。
「つまりそなたは、俺がそなたのことをあまりよく知らぬと、そう言いたいわけだな? そんな程度で『好き』だの『妻になってくれ』だのと、軽々なことを申すなと」
「う……。ま、まあ、そういうことです」
高鳴る胸の動悸を抑えつつ、ユーリはやっとそう返した。
この男、何をしれっと言っているのか。客観的に見れば、どう考えたってこんなのはおかしいのだ。おかしすぎる。そして無礼だ。
いや、不思議と腹は立たないし、そこがまた不思議なのだが。
「わたくしはご覧の通り、見た目も才もさほどのことはない男です。兄上がたに比べれば、もはや凡夫に等しき者にございましょう。それを──」
「ふむ? そなたは自分をそのように評しているのか」
「評していると申しますか……。なにぶん事実にございますので」
ふと悲しい気持ちになって目線を落とす。
こんなこと、わざわざ自分で言わせないで貰いたかった。男は、そこで明らかに曇ったであろうユーリの表情を子細に観察するような目をしている。
「つまり、こういうことか。俺が兄上がたに求愛するのなら構わぬと?」
「そっ、そうは申しておりませぬが!」
そもそも、男が男に求愛することそのものがこの国では異様なのだ。まして相手はこの国の皇太子と第二皇位継承者。その高貴なお二人が、なにが悲しくて海の皇国の皇太子に嫁がねばならんのだ!
「ふむ。だがまあ、俺はすでにそなたを相当知っているのだがな。恐らくそなたが思うよりもずっと」
「はあ? どういうことでございます」
「あの時、この腕に抱いて介抱し、あれこれと寝言なども聞かされたことでもあるし」
「うっ……」
なんだろう。自分はあの時、何かこっ恥ずかしい寝言でも垂れ流していたのだろうか。
「それに、こちらはずっと以前から陸の帝国のことは存じ上げていた。そちらはまったくこちらの存在を知らずにいたかも知れないがな。いずれ、海と陸の大国同士、関わり合いが出ぬとも限らない。今後のこともあるわけだから、それなりに情報収集にも力を入れてきているのだぞ」
「ええっ?」
ユーリとロマンが同時に声を上げる。
男はにやりと二人を見やった。ゆったりとソファのひじ掛けに肘をつき、まるで可愛い愛玩動物でも見るような目をしている。
「まあ、海底皇国がそなたらとの交流を長年忌避してきたことも事実ではあるが。だが、それとこれとは話が別であろう。詳しいことは申せぬが、他国に間諜だのなんだのを潜伏させて情報収集するなどは基本のキというものよ。悪いがこちらは、そちらでは廃れてしまった進んだ科学力を保有しつづけてきたことでもあるしな」
「は、はあ……??」
「そなたがゆらゆらと船に乗り、暢気に馬車などでご帰国あそばしている間じゅう、俺の手下の者が優れた機器を使い、ずっとその姿を追って逐一俺に報告していたのだ。気づかなかったか」
「えええっ!?」
海の皇太子の瞳が笑みを深めた。
「そなたは朝が弱かろう? 魚料理はやや苦手。ただしムニエルだけは箸が進む──ああ、そなたらは箸は使わぬが。牛や豚の肉よりは鶏肉の料理が好み。パイ生地を使った甘いチョコレート菓子と杏子のジャムがお好みで、午後の喫茶の時間を毎日かなり楽しみにしている」
ほとんど立て板に水だった。
王子はぽかんと口を開けたままである。
それらはすべて事実だった。隣のロマンも呆然と男の口元を見つめるばかりだ。
「剣術や体術、馬術など、武芸一般はやや苦手。学業についても努力はしているが、兄上がたほどの成果は出せず、そのことをひどく気にしている。違うか」
「あ、あのっ……」
「ほかにも色々知っているぞ。側付きの小姓、ロマン殿が、紅茶に大いなる拘りをお持ちであることなんかもな。ユーリ殿専用のサモワールも、ロマン殿のお見立てであるのだとか」
「う……」
ユーリとロマンの顔はもはや、赤くなったり青くなったり大変いそがしいことになっている。
サモワールとは、こちら式の紅茶を淹れる金属製の湯沸かし器だ。「どうしてもどうしてもあれが欲しいのです」と懇願されて、ユーリが王宮出入りの商人からかなりの高額で購入したものである。
(こ、この男は──)
いったい全体、何者なのか。
いやまあ、すでに「海底皇国の皇太子だ」と堂々と名乗られてはいるのだが。
「まあ、ここまではご愛嬌だが」
玻璃は頭の横で軽く手を振り、あらためてユーリを見つめてきた。
「『自分のどこが気に入ったのか』と申したな」
ユーリはぎょっとして身を固くする。
「そなたは、その地位にありながら非常に謙虚な御仁だ。その地位に決して奢らず、無為に過ごさず、なすべき努力を惜しまない。また目下の者たちへの細やかな配慮を日々、欠かさない」
「…………」
「間違っても、かれらに尊大な態度で当たらない。無理難題をいいつけて自分の不満を解消するなどという、愚を犯すことも決してしない」
「そっ、そうでございますっ! おっしゃる通り!」
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