ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

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第二章 陸の国と海の国

2 第三王子ユーリ

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 くははは、と豪快に笑うのは、たったいま脳裏に描いていた当人だった。

「おお、ユーリ! どうやら五体満足のようだな。重畳、重畳」
「お、お陰様でございます。イラリオン兄上」
 慌てて一礼したところを、兄は上から下まで一瞬のうちに見てとったようだった。
「元気なのなら、どうだ一手。今からここで手合わせせんか」
「えっ……」
「このところ外回りばかりで、ろくに剣の鍛錬もできておらぬのだろう? それでは女性にょしょうに相手にされんぞ。体づくりはすべての基本。普段から気を付けておかぬから、熱など出して寝込むのであろう」
「い、いえ……私は」

 ついもごもご言って下を向く。
 長兄セルゲイは昔から非常に怜悧で、剣や馬術の腕も相当なものだった。次兄イラリオンもそれに追随する秀才だけれども、とりわけ武芸や馬術の点では優れている。中でも剣技においては、兄を凌駕する腕を持つ。
 日に焼けた健康そうな肌に、癖のある黒髪。涼やかなみどりの瞳。稽古着の胸元をはだけて少し汗ばんだ体躯は、眩暈がしそうなほどのいい男ぶりである。
 鍛えられ、野性味のあるすらりと引き締まった兄の肢体は、これまで常にユーリの憧れでありつづけてきた。
 対する自分はというと、勉学も武術もさほど得意とは言えない。特に武術なぞ、剣を振り回しているのか自分が振り回されているのかというぐらいの体たらくだ。兄たちに比べて少し小柄だということもあり、師範役の武官にはいつも迷惑ばかり掛けている。

「どうかお許しを。まだ少し、旅の疲れが抜けておりませぬゆえ──」
 とかなんとか言いながら、そろそろと後ずさりをする。このまま稽古に付き合わされでもしたら敵わない。
「む? そうか」
 兄は形のいい眉をちょっとしかめるようにしたが、わずかばかり苦笑しただけであっさりと引き下がってくれた。
「ではまたな。今宵も夜会が催される予定だろう。少しぐらい無理をしても、お前も出るとよかろうよ」
「えっ?」
 旅から帰還したばかりなのを良いことに、ちゃっかり欠席を決め込もうと考えていたユーリは面食らった。
 弟の表情を的確に読み取って、兄がまた苦笑する。
「おいおい。そろそろお前も身を固めろと再三申しておるではないか」
「え、いや……でも、私は」
「今宵はなかなか、良い娘が揃うらしいぞ。俺も気に入ったのが居れば、少し手を出そうかと考えている。だがまあ、お前の好みを優先するから安心しておけ」
「あ、兄上──」

 そうなのだ。
 この兄もまた、長兄セルゲイに負けず劣らず女性にょしょうにもてる。この野性味あふれた容姿が大のお好みだという貴婦人がたに、大いに人気があるのだ。
 実際、すでに正妻もいるし、セルゲイほどではないが愛妾も複数持っている。彼女たちを誰もないがしろにせずに平等に扱えるのは、この国では男としての甲斐性のようなもの。それはそのまま、父のような皇帝になるための手習いのひとつとしての意味もあるらしい。
 皇帝は、陸の人々みなの父であらねばならぬ。その仁愛に偏りがあってはならぬのだ。それはこうした家の中での女性がたの扱いについても同じこと。

(はあ……。やっぱり私なんかには無理そうだ)

 ユーリは細い溜め息をつきながらそこを離れた。
 ロマンも口添えをしてくれて、手合わせも今宵の夜会もうまくお断りすることができたのは良かった。
 まったく、王宮のこうした行事や方針は肌に合わない。
 夜会なんてもってのほかだ。
 今まで様々に煮え湯を飲まされてきたユーリとしては、できるだけ関わり合いになりたくないというのが本音だった。

 仰々しく着飾った女たちは、いかにも純粋そうに瞳をきらめかせて王宮の夜会にやってくる。もちろんその目的は、自分の未来の夫を見繕うことだ。なるべく裕福な貴族の家。それもできれば、皇帝の覚えめでたい家の男を。
 当然、兄たち二人はその目標の第一等。次期皇帝陛下、あるいはその次に皇位を継承する可能性のある次兄のもとに嫁げれば、自分のみならずその一族までが様々な意味で末永く楽をすることができるのだから。もちろん自分がその王子を生むことができれば、なお安泰。
 それゆえ、表面上いかになごやかに暮らしていても、女たちの陰での争いはすさまじいものがあるのだという。
 ……まあ、このあたりは大体、ロマン少年からの受け売りなのだが。
 兄たちのもとにすでに嫁いだ女たちは、虎視眈々と王子を身ごもるチャンスを窺っている。そして他の女にちらとでもその兆しがあれば、こっそりとその口に入る物に堕胎を促す薬を忍ばせるなどといった暴挙に出ることすらやぶさかではないらしい。

(ああ。人というものは恐ろしい)

 とりあえず、自分のところにやってくる少女たちはそこまで自尊心の高すぎる者らでないのが救いではある。自分の美貌にあまり自信がないだとか、実家がさほど身分の高い家柄ではないだとか、理由は様々あろうけれども。
 「第三王子ユーリ」は、そうした第一線から転げ落ちた娘たちのちょうどよい逃げ場になるのだ。まあ、それでも第三希望物件ぐらいな位置ではあるが。父である皇帝とも、兄二人ともそれなりに仲良くやっている王子だし、今後立場が危うくなるような予兆も何もない。
 そう、いかにも「ちょうどいい」のだ。セルゲイやイラリオンなら高嶺の花だが、このユーリ程度ならちょっと手を伸ばせば摘み取れる。そう思われながら求められる凡才王子。それが彼にとってどんなに惨めなことだかを、娘たちもその親たちも、てんで分かっていないらしい。

 夜会で出会う少女たちは、こんな自分に対して必死でしなを作り、もてる限りの技術を使って可愛らしく媚びて見せる。明らかにつまらないだろう自分の話などを、目を輝かせ、熱心に聞くふりをして会話を保たせようとする。

『あら、素敵ですこと』
『今日のお召し物、とてもよくお似合いですわ』
『さすがはユーリ殿下。いつも惚れぼれとお見掛けしておりますのよ』
『素敵な目の色をなさっておいでなのね』
『素敵なご趣味でいらっしゃいますわね』

 素敵、素敵、素敵。
 そればかりだ。
 ……ああ、なにもかもが煩わしい。
 だから自分は、ああして外へ出て仕事をしている方がまだマシなのだ。たとえそこでも「ああ、あのボンクラの第三王子か」と平民たちからさえ低く見られる仕事であるのだとしても。

「大丈夫ですか、殿下……」

 少し後ろから小さな声がして、ユーリは振り向いた。ロマンだ。少し下から、心配そうにこちらを見上げる表情には、相変わらずなんの裏も見えなかった。

「ああ、うん。大事ないよ。ありがとう、ロマン」

 ユーリは静かに笑って見せると、自室へ向かう回廊を影のように歩いて行った。
 目の奥に、あの紫水晶アミェチーストの瞳の色がひらめいている。
 なぜか脳裏から消えてくれないその光が、ユーリには恨めしくもまぶしく思えるのだった。

 だが、ユーリは夢にも思わなかった。
 そうして密かに思い出していた紫水晶のきれいな瞳に、その後すぐまた出会うことになるなどとは。
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