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第一章 海の皇子と陸の王子
6 進言
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「ルサルカ……? 人魚ですって!?」
ロマン少年はあまりにビックリした拍子に、王子に供しようとしていた白湯の器をもう少しで取り落としそうになった。
あれから船は、一路帝都をめざしている。
実は救い出されてからすぐ、王子は高熱を出して臥せってしまった。その後はこのロマンが薬湯を煮出したり、豆と麦の粥を炊いてくれたりと、非常にかいがいしく世話を焼いてくれている。まあ、これが彼の仕事なのだから当然と言えば当然ではあるのだが。
「うわ言で、何度もそのようなお言葉を発しておられたのには気づいておりましたが。でも、いわゆる童話のルサルカのことだとばかり──」
「いや、うん。私も今となっては、あれが現実のこととも思えないのだが」
ロマンから受け取った白湯を少しずつ口に含みながら、ユーリはまたあの男の面差しを思い出していた。
ロマンはなにやら不思議そうな顔をして、自分の主人の顔を見つめている。
「……良いかた、だったのですか」
「え?」
「その……殿下をお救いした『ルサルカ』の男です」
「え? え? どうして……?」
ついまごまごして視線を乱してしまったら、少年はすっと目を細めた。
「だって。なんだかあれから、殿下はときどき嬉しそうなんですもの。それも、ものすごーく」
「ええっ? いや、そんなはずは……ない、と思うが」
「そうでしょうか。こんなお熱になられているのに、ご寝具の下でときどきぼうっとして、うっとりされて。それで、いきなりにやにや~ってお顔が崩れて!」
「えええ?」
「なんだかまるで、恋でもなさったようですよ?」
「ロッ、ロマン……!」
かあっと頭全体が熱くなったのは、発熱しているからばかりではなかったろう。
言われた途端、脳裏にあの男から受けた熱い接吻を想像しなかったと言ったら嘘になる。あの男の顔を脳裏に描くと、なぜかぱくぱくと胸の鼓動が早くなるのも、きっと気のせいではないけれど。
しかし言うに事欠いて、何を言うのかこの少年は。
(こっ……恋、だと? この私が、あの男に……??)
いやいや。
ないない。
それはない。
それにしても、自分より相当若年のはずの少年なのに、どうしてそんな方面のことにやたらに詳しいのだろう。確か実家には、年上の兄や姉がたくさんいたとは聞いているけれども。
「それで。このこと、誰かにもうお話しされましたか」
「え? ……いや。そなたが初めてだ」
そうだった。
護衛騎士たちも船員たちも、あっという間に沈んでいったルサルカの小舟のことをかなり不審に思っていたはずだった。
みな、王子が助かった顛末についても詳しく聞きたがっていた。
だが、ユーリがあっさり熱に倒れたために、ここに至るまできちんと話ができていない。
ロマン少年はしばらく何ごとかを考える風だったが、やがて言った。
「しばらくは、黙っておかれたほうが良いのかもしれませぬ」
「えっ?」
「その、ルサルカの堂々とした男のことでございます。相手がどんなもくろみを持って殿下に近づいたのか、彼らの正体はなんなのか。それらが分からぬうちにことを公にするのは、まずいかもしれませぬ」
「そ、そうだろうか……?」
「左様にございます」
寝台の上で首をかしげるユーリに、ロマンはさっと近づいてきて耳打ちをした。
「下手なことをすれば、殿下の御名にお傷がつきかねませぬ。それよりもっと悪いのは、殿下のお立場を悪くすること」
「む……」
「いまのところ、我らの世界で『人魚』は伝説上の、物語の中の存在にすぎませぬ。殿下が海に落ちられた際、どこかを打っておかしくなったのだ……などと、王宮の人々から要らぬ詮索をされるのは好ましくありませぬ」
「う、ううん……」
そう言われるとユーリは弱かった。
そうでなくとも、普段から上の兄ふたりとあれやこれやと引き比べられている自分だ。愚弟とまでは言われずとも、あの兄たちに比べれば一段も二段も低く見られていることは知っている。
『兄上様がたに比べれば、やむを得ぬことでもありましょうが。もちろん殿下も素晴らしき王子殿下であらせられ』──。
薄ら笑いを浮かべてそんなお追従を言ってくる貴族連中。そんな経験は、これまで腐るほどしてきた自分だ。
もしもユーリがもう少し気性の荒い王子であったら、そんなやつばらは「不敬千万」とばかりはねつけて、懲罰を与えもするだろう。が、そこはこの気弱な王子のこと。決してそんな真似はできまいと見切られている。つまりは舐められているのだ。
それを悔しいと思わぬわけではないが、兄らに比べれば自分が凡才であるのは火を見るよりも明らかなこと。ゆえに、これまでユーリは黙って苦い笑いを返すぐらいのことしかしていない。
(それが……ここへ来て)
『第三王子殿下は、海に落ちてお頭を打たれたか』
『まさか童話のルサルカにお会いになったなどと』
『絶対に見間違いではないなどと、ずっと世迷言をおっしゃっているそうな』
『いやはや、凡才ここに極まれり、にございまするな』──。
そんな風に、王宮で嬉々として醜聞を広められでもした日には──。
王子は喉奥に、嫌でも苦いものを感じずにはいられなかった。
「そ、そうだな。……しばらくは黙っていよう」
「それがよろしゅうございます」
「あ、あの小舟のことはどう言おう?」
「海の上を漂っているうちに、流れてきたものに乗り込んだのだとでも申されませ」
「でも、そなたらの頭に響いたという声のことは」
「それも、確かに不思議ではありますが。『やんごとなき王子の命の危機に、神々がお導きを与えたもうた』とでも何とでも、言い逃れる術はございます。まあ海の上でのこと。『いかな不可思議も決して起こらぬ』と断言できるものではありませぬゆえ」
「ん……。そうだな」
ユーリはすっかり面食らって、この可愛らしい側付きの少年の顔をしみじみと見つめてしまった。
純粋で心優しい一方で、なんと頭の切れる少年か。
この少年が濁りのない忠心をもって自分に仕えてくれていることそのものが、非常な僥倖と言わざるを得ないのかもしれなかった。
「で、では……そうしよう。ありがとう、ロマン」
「滅相もないことにございます」
ロマンはにこりと微笑むと、何事もなかったように茶器を片付け、ほとんど足音も立てずに船室から出て行った。
ロマン少年はあまりにビックリした拍子に、王子に供しようとしていた白湯の器をもう少しで取り落としそうになった。
あれから船は、一路帝都をめざしている。
実は救い出されてからすぐ、王子は高熱を出して臥せってしまった。その後はこのロマンが薬湯を煮出したり、豆と麦の粥を炊いてくれたりと、非常にかいがいしく世話を焼いてくれている。まあ、これが彼の仕事なのだから当然と言えば当然ではあるのだが。
「うわ言で、何度もそのようなお言葉を発しておられたのには気づいておりましたが。でも、いわゆる童話のルサルカのことだとばかり──」
「いや、うん。私も今となっては、あれが現実のこととも思えないのだが」
ロマンから受け取った白湯を少しずつ口に含みながら、ユーリはまたあの男の面差しを思い出していた。
ロマンはなにやら不思議そうな顔をして、自分の主人の顔を見つめている。
「……良いかた、だったのですか」
「え?」
「その……殿下をお救いした『ルサルカ』の男です」
「え? え? どうして……?」
ついまごまごして視線を乱してしまったら、少年はすっと目を細めた。
「だって。なんだかあれから、殿下はときどき嬉しそうなんですもの。それも、ものすごーく」
「ええっ? いや、そんなはずは……ない、と思うが」
「そうでしょうか。こんなお熱になられているのに、ご寝具の下でときどきぼうっとして、うっとりされて。それで、いきなりにやにや~ってお顔が崩れて!」
「えええ?」
「なんだかまるで、恋でもなさったようですよ?」
「ロッ、ロマン……!」
かあっと頭全体が熱くなったのは、発熱しているからばかりではなかったろう。
言われた途端、脳裏にあの男から受けた熱い接吻を想像しなかったと言ったら嘘になる。あの男の顔を脳裏に描くと、なぜかぱくぱくと胸の鼓動が早くなるのも、きっと気のせいではないけれど。
しかし言うに事欠いて、何を言うのかこの少年は。
(こっ……恋、だと? この私が、あの男に……??)
いやいや。
ないない。
それはない。
それにしても、自分より相当若年のはずの少年なのに、どうしてそんな方面のことにやたらに詳しいのだろう。確か実家には、年上の兄や姉がたくさんいたとは聞いているけれども。
「それで。このこと、誰かにもうお話しされましたか」
「え? ……いや。そなたが初めてだ」
そうだった。
護衛騎士たちも船員たちも、あっという間に沈んでいったルサルカの小舟のことをかなり不審に思っていたはずだった。
みな、王子が助かった顛末についても詳しく聞きたがっていた。
だが、ユーリがあっさり熱に倒れたために、ここに至るまできちんと話ができていない。
ロマン少年はしばらく何ごとかを考える風だったが、やがて言った。
「しばらくは、黙っておかれたほうが良いのかもしれませぬ」
「えっ?」
「その、ルサルカの堂々とした男のことでございます。相手がどんなもくろみを持って殿下に近づいたのか、彼らの正体はなんなのか。それらが分からぬうちにことを公にするのは、まずいかもしれませぬ」
「そ、そうだろうか……?」
「左様にございます」
寝台の上で首をかしげるユーリに、ロマンはさっと近づいてきて耳打ちをした。
「下手なことをすれば、殿下の御名にお傷がつきかねませぬ。それよりもっと悪いのは、殿下のお立場を悪くすること」
「む……」
「いまのところ、我らの世界で『人魚』は伝説上の、物語の中の存在にすぎませぬ。殿下が海に落ちられた際、どこかを打っておかしくなったのだ……などと、王宮の人々から要らぬ詮索をされるのは好ましくありませぬ」
「う、ううん……」
そう言われるとユーリは弱かった。
そうでなくとも、普段から上の兄ふたりとあれやこれやと引き比べられている自分だ。愚弟とまでは言われずとも、あの兄たちに比べれば一段も二段も低く見られていることは知っている。
『兄上様がたに比べれば、やむを得ぬことでもありましょうが。もちろん殿下も素晴らしき王子殿下であらせられ』──。
薄ら笑いを浮かべてそんなお追従を言ってくる貴族連中。そんな経験は、これまで腐るほどしてきた自分だ。
もしもユーリがもう少し気性の荒い王子であったら、そんなやつばらは「不敬千万」とばかりはねつけて、懲罰を与えもするだろう。が、そこはこの気弱な王子のこと。決してそんな真似はできまいと見切られている。つまりは舐められているのだ。
それを悔しいと思わぬわけではないが、兄らに比べれば自分が凡才であるのは火を見るよりも明らかなこと。ゆえに、これまでユーリは黙って苦い笑いを返すぐらいのことしかしていない。
(それが……ここへ来て)
『第三王子殿下は、海に落ちてお頭を打たれたか』
『まさか童話のルサルカにお会いになったなどと』
『絶対に見間違いではないなどと、ずっと世迷言をおっしゃっているそうな』
『いやはや、凡才ここに極まれり、にございまするな』──。
そんな風に、王宮で嬉々として醜聞を広められでもした日には──。
王子は喉奥に、嫌でも苦いものを感じずにはいられなかった。
「そ、そうだな。……しばらくは黙っていよう」
「それがよろしゅうございます」
「あ、あの小舟のことはどう言おう?」
「海の上を漂っているうちに、流れてきたものに乗り込んだのだとでも申されませ」
「でも、そなたらの頭に響いたという声のことは」
「それも、確かに不思議ではありますが。『やんごとなき王子の命の危機に、神々がお導きを与えたもうた』とでも何とでも、言い逃れる術はございます。まあ海の上でのこと。『いかな不可思議も決して起こらぬ』と断言できるものではありませぬゆえ」
「ん……。そうだな」
ユーリはすっかり面食らって、この可愛らしい側付きの少年の顔をしみじみと見つめてしまった。
純粋で心優しい一方で、なんと頭の切れる少年か。
この少年が濁りのない忠心をもって自分に仕えてくれていることそのものが、非常な僥倖と言わざるを得ないのかもしれなかった。
「で、では……そうしよう。ありがとう、ロマン」
「滅相もないことにございます」
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