ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

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第一章 海の皇子と陸の王子

2 紫水晶

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 苦しくて苦しくて、無我夢中で水を掻いた。
 慌てた拍子に、ごぼりと一気に空気を吐き出してしまう。
 代わりにどっと入ってきたのは大量の塩からい水だった。

(く、苦しい……!)

 たすけて。
 たすけて……!

 が、王子は実際、なにもできはしなかった。ただ生きたい、死にたくないという動物的な本能が電撃のようにむなしく脳内を駆けめぐるだけで。
 なにしろ、ろくに泳げないのだ。自分には、水をどう掻けばうまく上昇できるのかなんてさっぱりわからないのだから。

 苦しい。
 息ができない。

 タスケテ。
 シニタクナイ。

 タスケテ。
 タスケテ──。

 最後の知性の明滅が、目の奥でちかちかとまたたいた。
 苦しさのあまりに滲んだ涙が、そのまま海に溶けていく。

(ちち、うえ……!)

 ああ。
 こんなことになるのだったら、あの人にあんなことも、こんなことも言いたかったのに。
 凡才なりに、せめて少しでもあなたのお役に立ちたいと思っていた。だから自分なりに精いっぱい、必死に働こうと決めていた。それなのに。
 こんなところで波にさらわれ、呆気なくも自分は死ぬのか。
 あなたから、遂に褒め言葉のひとつも頂戴できずに。

 死ぬ。
 死んでしまう。
 もう、ダメだ──。

 と、その時だった。
 自分の体を、ぐわりと何かがおし包んだかと思ったら、急に上への浮力を感じた。
 が、水面まではまだ遠い。
 ほとんど目も見えなくなっていたが、自分の体が上へ上へと押し上げられていることだけはわかった。

(……う?)

 ぐいと唇に何かが押し当てられた感覚があって、不思議に思う。
 今まで押しつぶされそうに苦しかった胸が、なぜかそれで一気に楽になったのだ。
 やわらかな何かが自分の口を塞いでいて、そこから呼吸のしやすくなる何かが流れ込んできているようだった。空気を供給されているのとは違うらしいが、明らかに胸の痛みがやわらいでいる。

 そこで初めて、王子は自分が何者かに抱きしめられていることに気付いた。
 大きな体。
 大きな腕。

(だれ……だ?)

 が、そこまでだった。
 ひどく安堵する温かなものを唇に感じながら、王子の意識はたちまちのうちに遠のいていった。





 次に目を開けたとき、王子は岩の上に長々と寝そべっていた。
 雲がうねうねと上空をゆき、その狭間はざまからときどき月が恥ずかしそうに姿をのぞかせている。

(助かった……のか)

 ろくに泳げもしない自分があの嵐の中、真っ逆さまに夜の海に落ちた。あっというまに胸の中の空気を失い、気が遠くなりかけたとき、なにかに抱きしめられたような感覚があったのは覚えている。
 あれは、いったい何だったのか。

 重いまぶたをこじ開けるようにして、ゆっくりと周囲を見回す。
 どうやら小さな岩の小島の上のようだ。まだ海は荒れていて、高い飛沫しぶきが跳ねあがっては、塩からい水滴を次々にまき散らしている。
 月は明るい。
 その下を、色の濃い雲が争いあうように駆け抜けている。
 やれやれ。どうやら嵐は過ぎ去りつつあるようだ。
 
──と。

(ん……?)

 月明かりの下、少し向こうの岩の縁に、誰かが座っているのが見えた。
 こちらに背を向けている。さほど明るくもない中で、逆三角をした広い背中が黒々とした影となっている。その背を覆うようにして、長くうねる銀色の頭髪が見えた。月の光を跳ね返し、それはほとんど白く輝いているようだった。

「だれ、だ……?」

 そう問うたつもりだったが、王子の声帯は持ち主の言うことなどほとんど聞いてくれなかった。がさがさと聞き苦しい変な音を発したのみである。
 喉の奥が潮の味でひどく苦く、ぴりぴりと痛む。王子はたまらず、何度か激しくき込んだ。
 と、男がその体を少し動かしたようだった。

(えっ……)

 王子は息を呑んだ。
 ゆるりと振り向いたその顔は、彫りが深く品があり、また非常に精悍に見えた。
 肩や首の筋肉が隆々と盛り上がっているのがわかる。やや目尻の下がった瞳の色はとても薄い。月明かりでよく分からなかったが、どうやら紫色のようだった。それが光の加減でときどき金色に光って見える。
 わずかな装飾品以外、上半身はほぼ裸だった。腰から下にはなにか、銀色に見える腰巻のようなものをしているらしい。足は岩の下におろしていて、よく見えなかった。

「〇〇、〇〇〇〇」

 男が微笑みながら何か言ったようだったが、王子には意味がわからなかった。言語体系が違うのだろう。
 王子が変な顔をしたままでいると、男はちょいと指先で自分の鼻先を掻くようにした。わずかに苦笑している。そんな表情にもまた、品がありつつも大人の男としての色気が漂っていた。
 王子は体をわずかばかり横にすると、なんとか起き上がろうとした。が、思った以上に体が重い。海に落ちた拍子にどこかにぶつけたのか、肘や背中に痛みがあった。

「う……っつ」

 低く呻いて身を起こそうとしていると、ひょいと太い腕が伸びてきてあっという間に助け起こしてくれた。自分の太腿ぐらいはありそうな二の腕である。そこに、金色に光る腕輪がはまっていた。

「……あ。す、すまない……」

 そのまま腕を取られて引き寄せられる。
 目を上げたら、目の前にまともに男の顔があって心の臓がはねあがった。

「うわっ! な、なに……?」

 ああ、やっぱり瞳は紫だ。陽に透かした紫水晶アミェチーストを彷彿とさせる色。非常に色目は薄いが、それでいて吸い込まれそうに美しい。

(……いや。待て)

 美しいだと? 男なのに?
 いや、しかし男の容貌は、ひとことで言ってそうとしか形容のしようがなかった。あの兄たちのようにただ姿かたちが美しいばかりでなく、男は雄としての逞しさを併せ持つ美しさを備えていた。
 屈強な体躯。雰囲気も堂々としたものだ。それはいわゆる、なよなよとした女々しい意味での「美しさ」とは一線を画するものに思えた。
 野性味を帯びていながら、決して下卑た感じを与えないところも魅力的だ。
 思わず言葉を失って見とれていると、ついと無造作に顎に手を掛けられた。

(……ん?)

 なんだろう。
 こういうことをされたのは初めてで、ユーリはついきょとんと相手を見返してしまう。目を二、三度しばたかせ、紫水晶の瞳を見つめ返した。
 と。

「んっ……んんんっ!?」

 いきなり唇を塞がれた。
 その、男の唇で。

 思考が完全に真っ白になり、ユーリは目を丸くして固まった。

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