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第五章 主従
3 吐露
しおりを挟む藍鉄はたっぷり十秒ほどは黙ったまま、自分の主人を見返していた。
「ご身分を、返上なさると……?」
「ああ。そうだ」
瑠璃殿下はいっそすがすがしいほどの笑みを浮かべて頷かれた。
(……あの男の影響か)
真っ先に考えたのはそのことだった。
帝国アルネリオの第二皇子、イラリオン。宮廷における、あまりにも醜い皇位継承争いに嫌気がさして、遂に自分から臣下へ降りることを決めた男。
長らく殿下に懸想していたが、そのことを告げにきた時、殿下のこともようやく諦めたようなことをほざいていた。
まあ、本気かどうかは定かでない。藍鉄はまだ七割がたは疑っている。
「少し前から考えなくはなかったのだがな。ここしばらくのあれこれで、ようやく決心がついたのさ」
「しかし」
「言うな」
殿下が人差し指一本で藍鉄を黙らせる。ご決心は固いということだろう。
が、さすがの藍鉄もそれで黙るわけにはいかなかった。
「殿下。こちらは陸の帝国とは違います。いまや右大臣派はなりをひそめ、表だった皇位継承争いなどもなく。殿下ご自身、至極平和に皇太子殿下と親しくお過ごしではありませぬか。なにもいま、殿下が皇族の地位をお捨てになる必要など──」
「あるさ。必要なら十分ある」
殿下はきっぱりとそう言うと、ぐっと藍鉄に顔を近づけられた。
「だってそうだろう。私が皇族で、お前がその警護を続ける限り。お前は私に指一本触れられない。ついさっき、自分でそう申したではないか」
「それは……そうですが」
いや、待ってくれ。
まさかとは思うが、それが理由なのだろうか。それだけが?
そんなとんでもない話、肯えるはずがない。
「殿下のお心もお身体も……忍びごときへの『褒美』にしてよいものではありませぬ。いや、相手が誰であってもです。まして、左様なことのために」
「黙れ」
「黙りませぬ。殿下が皇族でおありであろうとなかろうと、関係ありませぬ。殿下は貴きお方。おいそれとご自身を粗末になさらないでいただきたく──」
「なんだって?」
殿下はぴりっと片眉を跳ね上げた。
「私が降下したとしても、お前は褒美……いや、この礼を受け取らぬと申すのか」
藍鉄は言葉に詰まった。どうお答えすればよいのか分からなかった。
殿下の手が細かく震えだす。
「そこまで、いやか」
「いえ。そういう話では──」
ハッと顔を上げたら、どすんと体ごとぶつかってこられた。次にはもう、首の後ろに両腕を回されて、思いきり抱きしめられている。
「そんなにイヤか。そんなに嫌いか! 私自身にはそんなにも……そんなにも価値がないのか。お前にとって!」
殿下の叫びが甲高く部屋に響いた。
いや、違う。意味がまったく反対だ。
息ができないほど締め付けられながら、藍鉄は言葉をさがした。
また泣きだしそうになっている藍の瞳が至近距離からこちらを必死に見つめている。それを見つめ返して、藍鉄は殿下の背中をかるくさすった。
「違いまする。……どうか、お静まりを」
「どう違うんだ。どう! わかるように話せ。もったいつけるな!」
目の前で子犬が吠えたけるようにぎゃんぎゃん言われるのにも、いい加減慣れた。
藍鉄は困り果てつつ、両手で殿下の顔をやんわりと挟み込んだ。小さな殿下のお顔は、藍鉄の大きな掌にすっぽりと包まれてしまう。
「殿下は、自分にとって貴すぎるお方です。どのようなご身分でも。この身に替えてでもお守りし、必ず幸せになっていただきたい。……そのような、御方なのです」
殿下はもう、半分べそをかきはじめている。
「……お前とでなきゃイヤだ」
「……殿下」
「そう言ってるんだ。お前のそばでなきゃ、イヤだ。他の誰かなんてだれも要らない」
藍鉄は黙り込んだ。
どういう意味なのだろう。この方は、幼いころからずっと兄君の玻璃殿下をお慕いしてこられたはずだ。「ほかの誰も要らない」というのは、「兄上のことは別にして」という意味なのだろうか。恐らくそうだ。
考え込んでいたら、左の頬の肉をぐいと引っ張られた。
「なにを考えてるんだよ」
「……いえ」
「いいや。わかってるぞ。兄上のことだろう!」
「…………」
沈黙は、そのまま肯定を意味してしまう。
今度は右の頬まで引っ張られた。
「バカ野郎! 兄上のことは、もういいんだよ!」
頬の肉がひりひりする。
「もうよい……とは」
「兄上は、もうユーリ殿とお幸せになっている。いまそこに、私が横槍を入れてどうなる? 無駄な争いが生まれるだけ。右大臣派を調子づかせるだけだ。兄上には嫌われるだろうし、ユーリ殿のことも傷つける。まさに無駄の極み。そうだろう」
「…………」
「私だって、兄上にはお幸せでいて頂きたいんだ。もう御子様だってお生まれになる。兄上はお幸せなんだ。これからもっともっと、お幸せになる。それでいいんだ。……兄上とユーリ殿で、お幸せになってくれれば、もうそれで」
藍鉄は我が耳を疑った。
まさか、こんな台詞が殿下のお口から聞ける日が来ようとは。
(やはりこの方、決して愚昧などではないのだ。決して)
先にあの輝かしき兄君がおられたことが、唯一この方にとって人生を歪める要因になってしまっただけのことで。その兄君を誰よりお慕いなさってしまったことは、もはや皮肉としか言いようがない。
どこかで安堵を覚えつつ、藍鉄は頷いた。
「……左様なのですか」
「そうだよっ!」
耳元で叫ばれて、鼓膜がきいんと痺れる。
殿下は少し肩を落として、目を伏せられた。
「……私には、生まれたときから母君がいなかった」
「はい」
そうだ。お母上は、瑠璃殿下がお生まれになってすぐにあの《ニライカナイ》へ旅立たれた。
「子どもには、仲の良い両親が揃っていてほしい。新たに生まれてくる御子様には、優しいふた親が揃っている、温かな家庭でお育ちになってほしいんだ。私のような、寂しい思いをしてほしくない。この気持ちは、嘘じゃない」
「…………」
胸が痺れるようだった。
なんやかやときつい性格のことを臣下らに見下されることの多い殿下だけれども、心根の芯の部分では目下の者らに対してとても優しい面をお持ちなのだ、この方は。まあ、一見しただけでは非常にわかりにくいけれども。
「だから、兄上のことはもういい。お前はそんなことは気にするな。今は……今はそんなことより、お前のことだ!」
バシッと胸元を平手で叩かれた。
「私がいま、そばにいて欲しいのはお前なんだ。『幸せになれ』って言うなら、お前がその手で幸せにしろ。『他のだれかとお幸せに』だなんて陳腐な言葉、聞きたくもない」
藍鉄が思わず伏せようとした目を遮るように、殿下も藍鉄の頬を挟んで上を向かせた。
「絶対に言うな。絶対に許さん! そんな台詞、死んだって聞きたくない。耳が腐るわ!」
「殿下──」
そして、小声でささやかれた。
「……藍鉄。お前が……好きなんだ」
その、言葉。
藍鉄はふたたび停止した。
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