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第四章 御子誕生
10 巣ごもり
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翌日から二日間、殿下は私室にお籠りになった。泣きはらした目をして子どもたちの前に出るのが気恥ずかしいというのが、主な理由だった。
園長には事実を報告していたが、子どもたちには「アオイ」は風邪をひいて発熱しているということにした。
「えっ。アオイお兄ちゃん、かぜなの? だいじょうぶ?」
「おみまいにいってもいい?」
特に小さな子どもたちは口々にそう言って殿下のお体を心配してくれた。藍鉄が「感染するといけないから、まだ部屋には入れない」というと、子どもたちはみんなで相談してお見舞いの品を作ることにしたようだった。
翌日、年少組のうちもっとも年上の少年少女が三名、ひと抱えもある籠や箱などを手に殿下の部屋にやってきた。
藍鉄はドアのところでそれを受け取った。
籠と箱の中には、子どもたちにおやつの時間に配られているお菓子や果物がいっぱいに入っていた。みんなそれぞれ、自分の分から取り分けて入れてくれたのだそうだ。ほかにも、子どもたちが手ずから書いた手紙や絵などの画用紙が入っている。
(貴重な菓子を、こんなにも)
子どもたちにとっては貴重な飴玉やチョコレートのカラフルな包みを見て、藍鉄の胸は温かくなった。
そうでなくても、ここで配られるお菓子はもともとそんなに多くない。その中から人に分け与えるには、非常に大きな気持ちが必要であろう。しかも相手は年端もいかぬ子どもたち。おやつに関してはいつも奪い合いになり、ときには喧嘩にまで発展するというのに。
手紙や絵にも、子どもたちの気持ちはいっぱいに詰まっていた。
『アオイおにいちゃん、はやくげんきになってね』
『げんきになったら、おそとでまたあそぼうね』
『こんどいっしょに、うみにいこうね』──。
幼い字で書かれた見舞いの言葉の横に、藍色のクレヨンで髪を塗った、殿下の顔らしいものが描かれている。
その脇に、色の黒い大きな男が立っている。いかつく見えるが、目は優しく描いてくれていた。藍鉄は苦笑を堪えつつ、それらのものをすべて殿下にお渡しした。
殿下はベッドの上でそれらの手紙や絵をいつまでもしげしげと見つめておられた。比較的、機嫌がよいのはその時だけだ。
先日の突然の接吻については、殿下は決して言及なさらなかった。「そんなことがあったか?」とでも言わぬばかりに、まったくの知らん顔だ。
殿下が「なかったこと」になさろうとしていることに、警護の忍びごときが何を言えるはずもない。藍鉄も殿下のお心に添うように、こちらもまったく何事もなかったかのような顔で常と変わらず警護とお世話をするのみだった。
だが、殿下のご機嫌はよくなかった。
子どもたちの見舞いの品や手紙を見返すときだけはお優しい目になられるが、藍鉄と目が合った瞬間に表情が凍り付く。きつい視線でこちらを睨みつけ、むうっと口をとがらせておしまいになる。
どうやら、かなり機嫌を損ねてしまったようだ。
(いや、しかし。一体どうすればよかったんだ)
殿下が「わたしを抱け」とでも命じて、無理に従わせようとなさらない限り、自分にできることなど限られている。
そもそも忍びには、警護対象者の性的な捌け口になるような義務は課されていない。
殿下とて健全な男子のひとりであられる以上は、そういった欲求がないはずはないだろう。しかし、そちらを処理するのは忍びの仕事ではないのである。
まして殿下は普通の状態ではいらっしゃらない。こんな状態の殿下の心につけ込むような真似は、天地がひっくり返ってもできるものではなかった。
◆
鬱々と部屋に籠っていたら、あっというまに離宮に帰る前の日になってしまった。
明日は玻璃兄と約束した半年目だ。自分に言葉が戻ろうが戻るまいが、とにかく一度帝都に戻らねばならぬ。
朝から鏡とにらめっこをし、目の周りの腫れがちゃんとひいていることを確認して、瑠璃はようやく部屋の外に出る決心をした。
あれから表情も変えずにそばに控えている藍鉄は、朝の身支度を手伝いながら、相変わらず無表情のまま瑠璃に言った。
「本日は、皆で遠出をしませぬかと園長からことづかっておりまする。明日で皆ともお別れにございますゆえ。子どもたちも、殿下と出かけたいと希望していると。……いかがなさいますか」
静かな瞳と口調も相変わらずだ。
瑠璃は軽く鼻を鳴らした。
この男、どうせあんなことは何とも思っていないのだ。
あんな子どもみたいな口づけをしてみたところで、ちらとも心は動かないのだろう。
(忌々しい──)
知らず頬を膨らませながら、手元の画面を操作する。
が、打つのはたったひと言だ。
『わかった』
「了解しました。園長に伝えて参ります」
藍鉄が一礼して部屋を出ていく。
瑠璃は恨めしい気持ちのまま、そっとその背中を見送った。
あの時、なんであんなことをしてしまったのか。それは瑠璃自身にもよくわからなかった。
大好きな兄上に対してですら、あんな無茶な真似を仕掛けたことは一度もないのに。無理やり抱きついたことならあるが、さすがに唇を奪いに行ったりはしなかった。
(藍鉄──)
そっと指先で自分の唇に触れてみる。
激情に任せて、抱きついて。そのまま彼の唇に触れた。
半分ぐらいは、ちょっと悪戯を仕掛けてみたい気もあったのかもしれない。
しかし、初めての行為は大抵のことがそうであるように極めて無様なものだった。あんなものでは、藍鉄の眉ひとつ動かすこともできなかった。
男は至極ふつうの顔で、やがて瑠璃の体を引き離すと、なにごともなかったように退出していっただけだった。瑠璃の平手打ちを食らってすら、ほとんど表情も変えなかった。
(……バカ野郎。少しは動じろ)
この自分が、接吻してやったのに。
と、そう思う気持ちとそれ以外の焦燥とが綯いまぜになって、どう消化したらいいかもわからない。
あんな下手くそな口づけに呆れられたのではないだろうか、とか。
思った以上に幼稚な主人にすっかり嫌気がさしたんじゃないだろうか、とか。
あの年齢なのだから、あの男にだって過去にそんな関係を結んだ相手も複数いるだろう。場数で言えば、瑠璃なんて足元にも及ぶまい。
それは女なのだろうか。それとも男?
いったい何人ぐらいの者が、彼と親密な関係を結んだのだろう。
なにもかも経験不足の瑠璃には、何ひとつ判断がつかない。
「あまり爪をお噛みになりますな。形が悪うなりまする」
「……っ!」
瑠璃はベッドの上で跳びあがった。いつものことだが、いつのまにか藍鉄が音もなく部屋に戻ってきていた。
園長と約束してきた出立の時間を報告してくる。
「少しお召し替えを致しましょう。帽子もかぶられたほうが良いそうです」
瑠璃は黙ったままひとつ頷き、恨めしさを籠めた瞳でじろっと藍鉄を睨みつけた。
園長には事実を報告していたが、子どもたちには「アオイ」は風邪をひいて発熱しているということにした。
「えっ。アオイお兄ちゃん、かぜなの? だいじょうぶ?」
「おみまいにいってもいい?」
特に小さな子どもたちは口々にそう言って殿下のお体を心配してくれた。藍鉄が「感染するといけないから、まだ部屋には入れない」というと、子どもたちはみんなで相談してお見舞いの品を作ることにしたようだった。
翌日、年少組のうちもっとも年上の少年少女が三名、ひと抱えもある籠や箱などを手に殿下の部屋にやってきた。
藍鉄はドアのところでそれを受け取った。
籠と箱の中には、子どもたちにおやつの時間に配られているお菓子や果物がいっぱいに入っていた。みんなそれぞれ、自分の分から取り分けて入れてくれたのだそうだ。ほかにも、子どもたちが手ずから書いた手紙や絵などの画用紙が入っている。
(貴重な菓子を、こんなにも)
子どもたちにとっては貴重な飴玉やチョコレートのカラフルな包みを見て、藍鉄の胸は温かくなった。
そうでなくても、ここで配られるお菓子はもともとそんなに多くない。その中から人に分け与えるには、非常に大きな気持ちが必要であろう。しかも相手は年端もいかぬ子どもたち。おやつに関してはいつも奪い合いになり、ときには喧嘩にまで発展するというのに。
手紙や絵にも、子どもたちの気持ちはいっぱいに詰まっていた。
『アオイおにいちゃん、はやくげんきになってね』
『げんきになったら、おそとでまたあそぼうね』
『こんどいっしょに、うみにいこうね』──。
幼い字で書かれた見舞いの言葉の横に、藍色のクレヨンで髪を塗った、殿下の顔らしいものが描かれている。
その脇に、色の黒い大きな男が立っている。いかつく見えるが、目は優しく描いてくれていた。藍鉄は苦笑を堪えつつ、それらのものをすべて殿下にお渡しした。
殿下はベッドの上でそれらの手紙や絵をいつまでもしげしげと見つめておられた。比較的、機嫌がよいのはその時だけだ。
先日の突然の接吻については、殿下は決して言及なさらなかった。「そんなことがあったか?」とでも言わぬばかりに、まったくの知らん顔だ。
殿下が「なかったこと」になさろうとしていることに、警護の忍びごときが何を言えるはずもない。藍鉄も殿下のお心に添うように、こちらもまったく何事もなかったかのような顔で常と変わらず警護とお世話をするのみだった。
だが、殿下のご機嫌はよくなかった。
子どもたちの見舞いの品や手紙を見返すときだけはお優しい目になられるが、藍鉄と目が合った瞬間に表情が凍り付く。きつい視線でこちらを睨みつけ、むうっと口をとがらせておしまいになる。
どうやら、かなり機嫌を損ねてしまったようだ。
(いや、しかし。一体どうすればよかったんだ)
殿下が「わたしを抱け」とでも命じて、無理に従わせようとなさらない限り、自分にできることなど限られている。
そもそも忍びには、警護対象者の性的な捌け口になるような義務は課されていない。
殿下とて健全な男子のひとりであられる以上は、そういった欲求がないはずはないだろう。しかし、そちらを処理するのは忍びの仕事ではないのである。
まして殿下は普通の状態ではいらっしゃらない。こんな状態の殿下の心につけ込むような真似は、天地がひっくり返ってもできるものではなかった。
◆
鬱々と部屋に籠っていたら、あっというまに離宮に帰る前の日になってしまった。
明日は玻璃兄と約束した半年目だ。自分に言葉が戻ろうが戻るまいが、とにかく一度帝都に戻らねばならぬ。
朝から鏡とにらめっこをし、目の周りの腫れがちゃんとひいていることを確認して、瑠璃はようやく部屋の外に出る決心をした。
あれから表情も変えずにそばに控えている藍鉄は、朝の身支度を手伝いながら、相変わらず無表情のまま瑠璃に言った。
「本日は、皆で遠出をしませぬかと園長からことづかっておりまする。明日で皆ともお別れにございますゆえ。子どもたちも、殿下と出かけたいと希望していると。……いかがなさいますか」
静かな瞳と口調も相変わらずだ。
瑠璃は軽く鼻を鳴らした。
この男、どうせあんなことは何とも思っていないのだ。
あんな子どもみたいな口づけをしてみたところで、ちらとも心は動かないのだろう。
(忌々しい──)
知らず頬を膨らませながら、手元の画面を操作する。
が、打つのはたったひと言だ。
『わかった』
「了解しました。園長に伝えて参ります」
藍鉄が一礼して部屋を出ていく。
瑠璃は恨めしい気持ちのまま、そっとその背中を見送った。
あの時、なんであんなことをしてしまったのか。それは瑠璃自身にもよくわからなかった。
大好きな兄上に対してですら、あんな無茶な真似を仕掛けたことは一度もないのに。無理やり抱きついたことならあるが、さすがに唇を奪いに行ったりはしなかった。
(藍鉄──)
そっと指先で自分の唇に触れてみる。
激情に任せて、抱きついて。そのまま彼の唇に触れた。
半分ぐらいは、ちょっと悪戯を仕掛けてみたい気もあったのかもしれない。
しかし、初めての行為は大抵のことがそうであるように極めて無様なものだった。あんなものでは、藍鉄の眉ひとつ動かすこともできなかった。
男は至極ふつうの顔で、やがて瑠璃の体を引き離すと、なにごともなかったように退出していっただけだった。瑠璃の平手打ちを食らってすら、ほとんど表情も変えなかった。
(……バカ野郎。少しは動じろ)
この自分が、接吻してやったのに。
と、そう思う気持ちとそれ以外の焦燥とが綯いまぜになって、どう消化したらいいかもわからない。
あんな下手くそな口づけに呆れられたのではないだろうか、とか。
思った以上に幼稚な主人にすっかり嫌気がさしたんじゃないだろうか、とか。
あの年齢なのだから、あの男にだって過去にそんな関係を結んだ相手も複数いるだろう。場数で言えば、瑠璃なんて足元にも及ぶまい。
それは女なのだろうか。それとも男?
いったい何人ぐらいの者が、彼と親密な関係を結んだのだろう。
なにもかも経験不足の瑠璃には、何ひとつ判断がつかない。
「あまり爪をお噛みになりますな。形が悪うなりまする」
「……っ!」
瑠璃はベッドの上で跳びあがった。いつものことだが、いつのまにか藍鉄が音もなく部屋に戻ってきていた。
園長と約束してきた出立の時間を報告してくる。
「少しお召し替えを致しましょう。帽子もかぶられたほうが良いそうです」
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