ルサルカ・プリンツ 外伝《瑠璃の玉響》

るなかふぇ

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第四章 御子誕生 

5 南の島

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「なかなか、開けた場所でございましょう?」

 殿下のお手をとりながら水空両用の飛行艇から降りたって、藍鉄は言った。瑠璃殿下はまぶしそうに周囲の景色を見回しておられる。
 海底皇国、滄海わだつみは、地球上の各所の海底にそれぞれ大都市を築いている。中枢はもちろん、皇族がたのわす帝都・青碧せいへきだ。

 だが今、藍鉄は敢えてそことは異なる都市を中心とする、南方の海域に来ていた。
 かつてはオセアニアなどと呼称された地域が水没した結果、もとは山地だった場所が点々とした島々に変貌した地域である。
 滄海のほかの地域がそうであるように、陸の人々に見つかることのないよう、気象をあやつる装置によって目隠しされた島々だ。偶発的に陸の人々が船で迷い込むようなことがあっても、突如発生した嵐によって、この海域に近づくことは叶わない。

『きれいだな』

 殿下は手首に装着された腕輪をそっと操作して、空中に文字を浮き上がらせた。四六時中筆や紙を携帯しているわけにもいかないので、あれこれ試行錯誤した結果、この装置を使うことにしたのである。

「左様ですね」

 実は文字が出るだけでなく、音声で読み上げるシステムも内臓されているのだが、どうやっても殿下の柔らかで魅力的な声を再現するには至らなかった。殿下ご自身も、そちらを使うのをお厭いになったのだ。
 今日の殿下は、お忍びということもあって庶民が着るような一般的なシャツとスラックスの姿である。そんなお姿であっても目立たぬはずもない美貌ではあったが、直衣のうし狩衣かりぎぬ姿よりはよほどというものだ。長くつややかな髪は、首の後ろでゆるりと結ばれている。
 藍鉄も、いまは人目を引かぬようにと地味な濃灰のジャケットスーツ姿になっている。下は黒いTシャツだ。

 実は二人とも最初はサングラスを掛けていたのだったが、殿下の「それではどこからどう見てもいにしえのマフィアか何かにしか見えぬぞ」というご指摘をうけて、藍鉄だけは外している。
 一番はじめはダークスーツにしようかと思ったのだが、「それではまるきりSPであろう!」との有難いつっこみを頂戴して、早々に諦めた。

(……それにしても)

 ここは変わらぬ。
 どこまでも澄んだ青い海が広がっている。空は明るく、ずっと先まで水平線を見渡すことができた。陽の光にちらちらときらめくさざなみが白くうつくしい。どこか遠くから、海鳥の声が聞こえてくる。
 ここは滄海の都市であるひとつのセクションぐらいの広さの島であり、中央部にはそれなりに大きな商業施設もあるのだが、こうして十分に自然が姿を残している。

「自分も、昔は随分、この景色には救われました」
「…………」

 殿下が黙ってこちらをご覧になった。もの問いたげな瞳だった。
 藍鉄はわずかに笑って、発着場のそばで待っていたエア・カーへと殿下をお連れした。AIによる自動制御の、無人のエア・カーである。事前に目的地へは連絡済みなので、そちらが手配してくれた車だった。
 後部座席に座り、殿下は黙って、窓外を流れていく見慣れない景色にじっと見入っておられた。藍鉄は運転席に座り、少し後ろを振り返った。

「天気がよくて良うございました。すでに嵐の季節は終わっておりますが、それでも降るとなれば結構な大雨が降りますゆえ」
 殿下は視線を動かさない。
「目的地には十分少々かかります。眠っておいででも構いませぬぞ」

 こくり、と殿下が頷かれた。それでも目線は窓外を向いたままだった。
 車内には静かな空気が流れている。窓越しに遠くから、また海鳥の声が聞こえた。





「お待ち申し上げておりました。さ、どうぞ。お部屋を準備しておりますので」

 二人を出迎えた園長は、老年に差し掛かった穏やかな雰囲気の男だった。
 ここ「かもめ園」は、滄海のあちこちに設置されている、身寄りのない子供たちのための施設である。二階建ての建物はやわらかなクリーム色に塗られ、優しいフォルムをしている。

「久しぶりだねえ。元気にしていたのかい」
「はい、お陰様で。先生もお元気そうで何よりです。いまは園長先生になられたのですね」
「ああ、うん。まあ、順番が回って来たというだけだけれどね」

 園長は目を細めて、しげしげと下から藍鉄の顔を見上げるようにした。

「……くん──おっと」

 つい、藍鉄の本名を口に出しそうになったのだろう。園長は困ったように口ごもってから「藍鉄君」と言い直した。
 忍びは、基本的に昔の名を捨てて生きるものだ。戸籍がなくなったわけではないが、そちらは滄海のトップシークレットに類する情報になっている。敵に昔の縁者をたどられて、万が一にも警護対象である主人の身を危険に晒すようなことがないようにするためだ。

「その節は大変お世話になりました。此度こたびも急なことで申し訳ありません。しばらくお世話になりますが、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「いやいや、そう堅苦しくならないでおくれ」

 大きな体で腰を折って一礼すると、園長は以前と同じ優しい笑みを浮かべた。

「本当に立派になったものだねえ。私も、君の顔が見られて嬉しいよ。……さ、お連れ様も長旅でお疲れでしょう。お部屋へご案内いたします。こちらへ」

 殿下がお忍びであることはすでに伝えてあるので、園長もこの珍しい訪問客の御名を敢えて口にすることはなかった。十分に敬意は払いつつも、恭しすぎる態度は控えてくれている。

 そうだ。
 ここは、藍鉄がかつて家族を亡くし、生きることに絶望していたひと時に、やわらかな時を与えてくれた大切な場所だった。

──どうにかして、殿下のお心を癒してさしあげたい。

 そう思った時、藍鉄の目裏まなうらにはっきりとこの建物と島の景色が浮かんだのだ。
 ここでなら、殿下は傷ついたお心をほんのわずかなりとも休めることがおできになるに違いない。……いや、そこはさすがにわからぬが、そうであってもらいたい。
 ただただ、そんな思いだった。

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