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第四章 御子誕生
4 見舞い
しおりを挟む医療用AIと御典医の診断は似たようなものだった。
要するに「気鬱が引き起こした症状だ」というのである。その後詳細な検査も行われたが、脳にひどい障害が起こっているという兆候もない。ひとまず藍鉄は胸をなでおろした。
「瑠璃! おお……なんということになったものか」
弟の身におこった変事を聞いて、玻璃殿下が即日、飛んでこられた。殿下のご寝所にお越しになり、すぐに弟君を抱きしめられる。
「どこも痛みなどはないのだな? まことだな? 無理をしてはならぬぞ。典医には、すべて本当のことを申してあるな?」
殿下は涙ぐんで頷かれ、兄君にされるままにしばらく抱かれておられた。ひどく嬉しそうなお顔からはいつもの張り詰めた表情が消え、なにやらぐっと幼く見えた。
玻璃殿下は弟君の細い肩を何度かさすって、眉を顰められた。
「しばらく見ぬ間にこんなにやせ細りおって……。顔色もひどいものではないか。どうせまた、ろくに食べておらぬのであろう。『あれは食わぬ、これは食わぬ』と、また周囲の皆に我がままを申しておるまいな」
殿下がふるふると首を左右に振る。今度は少し頬を膨らませていらっしゃる。
藍鉄は姿を隠して部屋の隅に控えていたが、そんな瑠璃殿下を見つめることはどうしても憚られて、つい微妙に視線をそらした。
「だが、安心いたせ。医療AIも典医も『気のものだ』と申している。しばし公務を離れてゆっくりと心と身体を休めよ。……まあ、『永遠に』というわけには参らぬが。景色のよい場所へでも、少し遠出をしてみるのもよいかもしれぬぞ」
兄として優しく声を掛けておられるが、当然、多忙な玻璃殿下がそれに付き添ってくださるなどは無理だろう。瑠璃殿下もそうお考えなのか、寂しげな微笑みを浮かべたままひとつ頷かれただけだった。
今回ユーリ殿下が同行なさっていないのは、恐らく瑠璃殿下のお気持ちを察してのことだろうと思われる。瑠璃殿下の気鬱の理由を、あの方はなんとなく察しておられる気配があるからだ。
「水中伝達装置も使えぬと聞いたが、まことか?」
「…………」
瑠璃殿下が頷かれた。
そうなのだ。とりわけ水中での意思の伝達のために使われる、耳に装着する装置を使っても、瑠璃殿下の言葉はうまくこちらに伝わってこなかった。あれは異なる言語を翻訳する機能もついている優れものなのだが、今回は役立たずということらしい。
診察の過程で、殿下は言葉や文章を頭の中で構築することはおできになっているとのことだった。ただそれを発語するときに障りが生じる。声帯や舌の機能にも異常は見られないとのことだった。
紙に文字を書くことはおできになるので、いわゆる脳機能障害からくる失語症とは異なるし、しゃべるための物理的な機能が損なわれているわけでもないので、失調性構音障害とも違う。
様々な原因が考えられるが、今回は殿下の心理状態が原因ではないか……ということで、ひとまずの診断がついた。いわゆる鬱症状から脳の一部の機能が著しく低下しており、そのために発語が難しくなっているのだろう、ということだ。
快癒は明日にも成るかもしれぬ。一方で、数か月先、数年先になるかも知れぬという話だった。
「ともあれ、藍鉄。どうか瑠璃をよろしく頼む。お前には様々に苦労を掛けて済まぬがな」
「勿体なきお言葉にございます、皇太子殿下」
藍鉄はその場にかしこまって、深々と玻璃殿下に頭を下げた。
「どうかしばらく、これの気晴らしにつきあってやってくれ。何か事あらば、いつでも俺に連絡を寄越すようにな。すぐに飛んで参るゆえ」
「承りましてございます」
兄君に対して再び深く礼をした藍鉄を、瑠璃殿下がなんともいえぬ目をしてじっと見つめておられた。
◆
それから数日。
瑠璃殿下はひと声も発しないまま、筆談のみで周囲の人々と意思の疎通をはかられた。とはいえ藍鉄はここまで殿下のお身の周りの世話を担当してきたこともあり、些細な事なら目線ひとつで殿下がおっしゃりたいことが理解できたが。
「皇太子殿下と御典医はああ申されましたが。どこか、気散じにおいでになりまするか」
昼餉が終わったタイミングでそっとお訊ねしてみると、瑠璃殿下は困ったように少し考えられた。それから、ついと筆と紙をそばに引き寄せられた。さらさらと手慣れた様子で、たおやかな文字がそこに現れる。ご本人と同様、殿下はお手蹟もうつくしい。
『どこといっても、思いつかない。どこかいい場所を知っているか』
「……左様にございますな」
渡された紙にしばし目を落として、藍鉄も考えた。
できれば、この重苦しい日常とお立場を少しでも忘れられるような、視界の開けた場所がいい。雄大な景色に、自然の息吹を感じられるような場所。あまり人の多い場所は避けた方が無難であろう。
どのみちこの状態ではしばらく公務もできない。玻璃殿下からも、病状が回復するまでは御身を厭うことが最優先と、公務の免除を言い渡されている。
時間は十分にある。できれば殿下にゆったりと、心の閉塞を忘れられる場所で休暇をとっていただきたい。
殿下がこの状態でなければ尾鰭をつけて海中を自由に泳ぐのもよいかと思ったが、水中では意思の伝達が難しいのでこれは却下だ。水の中でメモを書くことは物理的に難しいし、急な危険が迫ったとき、即座に対応できぬようであっては困る。
「では──」
ついに藍鉄は顔を上げた。思いついた場所があったのだ。
手首の装置を少し操作し、空中にその場所の名前と地図を表示させる。
「殿下にとって、さして面白くもない場所かもしれませぬが。こちらなどはいかがでしょう」
殿下はしばらく、うっすらした緑色に光る画面をじっとご覧になっていた。
が、やがてそっと微笑み、頷かれた。
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