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第四章 御子誕生
2 気鬱
しおりを挟む翌日から、殿下は「少し体調がすぐれませぬゆえ」と言って御所への参内を休まれた。
殿下のお体を心配して、玻璃殿下が何度か見舞いに来ようとおっしゃったが、殿下はいつも「大したことではございませんので」と丁重にお断りした。
いや、実際は「大したこと」だったのだけれども。
心の病は体の病を連れてくる。
食欲ががっくりと落ち、日がな一日寝室でうつらうつらとなさってばかりの殿下のそばで、藍鉄は黙ってそのそばにお仕えし続けた。
殿下は日ごとに痩せてゆかれ、お顔の色もくすんでいった。
こんなことを言いたくはなかったが、もうこの世になんの未練もない人のように見えた。
(このままではいかん。しかし──)
ここで鬱々と巣ごもりをしていたからといって、何もいいことはない。殿下にとって何かひとつでも事態が好転するのならまだよいが。
実際そんなことは起こらない。いや、それだけではない。さらに殿下にとって都合の悪い噂ばかりが増えてゆく。すなわち「無責任な皇子だ」「精神的に弱き御方だ」「心が幼くてあられるのだ」と、好き勝手な評価の声が。
いっとき、自分たちの権力欲のために殿下を政治の中枢に担ぎ上げようとしていた右大臣派の面々も、「あのような皇子にいつまでも望みを託していて何になろうか」と、そろそろ距離を置き始めている。
そのこと自体は構わぬし、むしろ好都合なぐらいだが、殿下の評判そのものがどんどん落ちていくことは問題だった。
(決して、愚昧な方ではないのに)
藍鉄は奥歯を噛みしめる。
そうなのだ。殿下はもともと、決して愚鈍な御方などではない。
むしろ一般的な見地からすれば、よほど聡明な部類に入るであろう。あの玻璃殿下があまりに素晴らしすぎるだけだ。あの兄君と比べれば見劣りがするという、ただそれだけのことなのだ。
末っ子で父皇と兄君から甘やかされて育ったゆえ、多少我がきついところはあるが、心根が冷たい訳でも、慈悲に薄いわけでもない。ひと一倍愛情を求めすぎてしまうのも、生まれた時から母君のあたたかさを知らずに育ったことが大きいだろう。
このご年齢にしては相当理知的な御方だし、むしろ本当に小さな者や弱い者には慈しみのお心を見せられることのほうが多いと思う。ただそれを、大っぴらに誰かに見せることを好まれないだけのことで。
それは謙虚であるがゆえであろうし、褒められてしかるべきことだ。
昔からこの人は、庭にやってくる小鳥や迷い込んできた子猫などに、餌をやるなどして可愛がられる皇子だった。ああいう無心な生き物には、ついつい人の性格の地金が出るものだ。あれこそこの方の素顔だろう。
そんな様子を知っている藍鉄だからこそ、今回の事態は歯がゆかった。
「さあ、どうか。あともうひと口だけ」
食事の介助をするのも、このところすっかり藍鉄の仕事になってしまった。そもそも分限を越えたことであり、身辺警護の者がやることではない。だが、ここしばらくは殿下が頑として他の者をそばへ寄せ付けないので仕方がない。
痩せた青白い顔のなかで、不思議とまだほんのりと赤味を残している形よい唇がそっと開く。そこへすかさず、小さな匙を滑り込ませる。ちいさな喉仏がこくりと動くのを確認して、またすぐ次の匙をお口へ運ぶ。または、ほうじ茶の湯飲みをお持たせする。
解いたうねる紺の髪が、殿下の胸と背中に豊かに流れ落ちている。
こんな状態になっていてすら、この方は美しかった。
いや、こういう状態だからこそなのか、体の向こうが透けるように色素が薄まって見えるのだ。室内は暗いのに、殿下の周囲だけぼんやりと光が宿っているようにすら見える。それが藍鉄には恐ろしかった。まるでこの世の人ではないように見えるのだ。
日々食事の介助をしながらも、藍鉄はうっすらと開かれるかの方の唇を凝視せぬよう努めねばならなかった。殿下の濡れた唇を見つめていると、どうにも変な気になるからである。
『もう、よいではありませぬか』
『他の人のものになった御方のことなど、お忘れなさいませ』
以前よりも軽く、細くなったお体を抱きしめて、ついそんなことを囁きかけたくなる。そんな、許されぬ言葉をお耳に流し入れたくなる。
『自分がそばにおりまする。この自分が、いつまでもあなた様のおそばに』──。
それは恐らく、いまの殿下にとっては夢魔の囁きでしかないであろうに。
食事が終わり、殿下がまた枕の上に頭を落ち着けると、藍鉄は音も立てずに御帳台から退いた。
──ぺき。
手の中で、優美な木製の匙が音を立てて折れる。
もう何度も厨房方の女官たちから嫌な顔をされているというのに、つい拳に力が入るのを止められない。実は一度など、雅な螺鈿細工の入った膳部にも皹を入れてしまった。
「あらまあ。またですの? 藍鉄さん」
老年の女官が、折れた匙を一瞥して小さく吐息をついた。品よく毅然とした佇まいの人である。それでいて、どこか温かみのある人だ。
「申し訳ありません。つい、力加減を間違えまして」
「お匙だってタダではないのですからね。国庫から賄われている貴重な品です。こう何度も折っていただいては困りますわ」
「はい。以後気を付けます」
「殿下のお品は、特に上等なものを使っているのですから。お気持ちはお察しいたしますが、どうかお気をつけあそばして」
「は。重々、肝に銘じます」
素直に深々と頭を下げて、ろくに中身の減っていない膳を引き渡した。
こんなことがもう、数か月も続いている。
自分にとっても、すでに限界が近づいているような気がした。
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