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第三章 惑う心
5 アルネリオの事情
しおりを挟む「でも、最後だとおっしゃった」
瑠璃殿下は、わずかに唇を尖らせておられる。押し殺した声だった。
「ん?」
「そうおっしゃったでしょう? 『最後だから、この旅について来て欲しい』と」
「……ええ。そうですね」
イラリオンの笑顔が、やや苦みを含んだものに変わる。
「ちょっと卑怯な誘い方をしてしまいました。……でも、嘘ではありませんよ。これを最後にしようと思って、それであなたをお誘いしました」
「どうして? いったい何があったのです」
イラリオンがにこっと笑った。しかし答えは、表情に反したものだった。
「そんなこと、あなたがお知りになる必要はない」
この男にしては、ごくきっぱりとした言い方だった。その声には、どんな反論も容れることはないという確固たる響きがあった。
「あなたには、左様な雑事に染まって欲しくないのです。どうかこれ以上はお訊きになるな」
「……そうですか。わかりました」
瑠璃殿下は眉間にわずかに皺をよせられたが、そうおっしゃっただけだった。
そうしてそのまましばらく湖畔を散策し、イラリオンは一行を滄海まで送り届けると、殿下に別れを告げたのだった。
「しからば、これにて」とやっぱり爽やかに笑って去っていった男の乗る飛行艇を、何を思っておられるのか、殿下は長いこと見送っていた。
◆
その後。
藍鉄は忍びとしての自分の情報網を使って、アルネリオの現在の状況を詳しく知ることになった。
(なるほどな……。そういうことか)
深夜、自室に戻って秘密の経路を通って送られてきた電子報告書に目を通しつつ、藍鉄はひとりごちる。
皇太子セルゲイには、正妃に生まれた長男がいる。聡明で姿も美しいその殿下が既定の年齢──確か八歳だ──に達したこともあり、このほどセルゲイに次ぐ第二帝位継承者になったのだという。
これまでその地位にあったイラリオンは第三帝位継承者へ降下ということになり、さらに王位が遠のいた。いや事実上、帝位への道はほとんど閉ざされた言っていい。なんとなれば皇太子セルゲイには、他にも正妃が生んだ健康な男子がいるからだ。
歴史的にどこの王家にもあることだが、貴族たちは常に自分たちの権益のため、陰に陽にあれこれと蠢いている。イラリオンを擁立しようとする一派もその例に漏れなかった。
つまり、彼の正妃、側妃、愛人らとその親類筋にあたる貴族たちの活動が、いやな方向に活発化したわけだ。
まず、セルゲイの正妃の親戚筋から届いたという菓子を毒見した侍女が変死した。彼女が使った銀食器は、不気味にどす黒く変色していたという。その菓子は、セルゲイの長男である第二帝位継承者の少年への贈り物として届けられたものだった。
滄海でなら即座に物証をおさえ、死亡の理由も下手人もすぐさま明らかになるところだ。科学的にまた医学的に、見落としがあろうはずがない。だが、アルネリオではそうはいかない。死亡理由は結局分からず、いまだ事件は解決を見ていない。
そして。
数か月後、正妃とその長男である殿下の馬車が何者かに襲われた。帝都のそばにある小さな森に差し掛かったところで、暴漢の集団に襲撃されたのである。護衛の騎士団の活躍もあり、ふたりはどうにか無事だった。
が、なんとか生け捕りにした一味の男は詮議のまえに牢内で毒殺された。明らかに口封じが行われたのだ。
いずれも黒幕は知れない。実際の命令者は杳として知れず、幸いにして逃げた下手人の居所がわかったところで、とっくに死体に変わっている始末だ。もっとも滄海側の忍びたちによれば、黒幕ははっきりしていた。その人物の名前も知らされたが、藍鉄が予想した通りの結果だった。
その後も似たような事件が次々に起こり、アルネリオの王室は近頃、さらに混迷の様相を呈してきたという。
その崩れたパワーバランスの影響で、王族に近しい貴族らがより活発に、あれやこれやと水面下で暗躍する事態を招いた。
結果、遂に先ごろイラリオン自身が王族としての地位を父たる皇帝に返上し、公爵に降下すると公言したらしい。「これ以上の醜き勢力争いで内政を乱したくない」という、彼自身の強い希望によることだった。
つまり彼は、王族から臣下の貴族の一人になろうとしているということだ。いや、まだ決定したわけではないけれども。
もちろん、妻らとその実家からは大反対にあっていることだろう。たとえ帝位継承順位が降りたとしても、王族たる「大公」の身分でありさえすれば、いずれ手の内に帝位が転がり込んでこないとも限らない。王族と単なる公爵とでは、権益は雲泥の差である。
そうでなくても、王侯貴族の女たちにはなにかと金がかかるのだ。互いの美と権力を競い合う宮廷の女たちのプライドというのはすさまじい。男に見せるためというより、それはもはや女同士の意地の張り合い、戦であろう。
ゆえに女たちも泣き叫び、イラリオンの軍靴にとりすがるようにして「お考え直しを」とかきくどいた。「子らのためです」と叫びながら、要は女たちの求めるものはイラリオンの未来の財力と地位である。
イラリオンは己を枉げなかった。
このことによって生じた様々な事件や「事故」は、さらにイラリオンの精神を疲弊させていたのだろうと思われる。
あの男は、もともとさばさばした暗さのない性格だ。無理もない話だった。あの澄んだ明るい瞳には、女たちが身も世もなく財産と権力を惜しがる姿はこの上なく惨めで醜悪にうつったことだろう。育ちのよい男というのは、どこかが妙に脆弱なものなのだ。折れるときには、あっさりと折れる。
単なる他国の貴族となれば、もう瑠璃殿下と個人的にどうこうなるなどという未来は描けまい。間違っても、あの玻璃殿下とユーリ殿下のような関係には持ち込めぬだろう。
こちらが皇子を出しているのに、あちらが貴族というわけにはいかぬ。それがいかに、もと王族の公爵であってもだ。国内でならいざ知らず、この場合はどうしたって、国同士の対面がからむ。「釣り合いのとれぬ関係」は、両国の誰も喜ばない。
(……要するに)
藍鉄は手元のファイルを閉じて目を閉じた。
イラリオンは、あの旅で殿下に別れを告げたわけだ。
ここまでの状況からして、恐らくイラリオンは近々のうちに皇帝エラストから降下の許諾を得ることになるだろう。その前に、「初恋」と呼んでもいい人の顔をひと目、見に来たということだ。
「真実の愛というものがおわかりか」などという甘ったるい世迷言は、こうした背景から零れ出たものらしかった。
(しかし、この顛末……ユーリ殿下はご存知なのか?)
まずはそこが疑問だった。
だが、普段お見掛けする表情を見るかぎり、それはまずなさそうである。
配殿下は近頃、玻璃殿下との間に御子を儲けるための活動に入られて、しばしば「遺伝情報管理局」へ出向かれている。そのお顔はいつも希望と幸せに輝いており、とてもご実家の不穏な事件の数々をご存知のようには見えなかった。
第一、あのご性格だ。こんなことをひた隠すような腹芸のできる御方ではない。
イラリオンは、弟にも瑠璃殿下にも、なにも告げるつもりがなかったのだろう。いずれきちんと事態が決着し、後戻りできぬ状況に落ち着いてから、結果のみを知らせれば十分だと考えているのに違いない。
(……ふむ。思っていたより、男らしい御仁だったか)
藍鉄は眉間に皺を立てたまま、いまだ空中に浮かんだままの電子画面に指を滑らせ、報告書を削除した。
瑠璃殿下にこのことをお知らせするつもりはなかった。
イラリオンが望む通り、それはいずれ単なる「結果」として、かの御方に報告されればよいことなのだ。
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