ルサルカ・プリンツ 外伝《瑠璃の玉響》

るなかふぇ

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第三章 惑う心

2 湖畔のふたり

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 イラリオンに案内されたのは、アルネリオの大陸の中ほどにある、山々に囲まれた透き通った湖だった。やや離れた場所にある平地に飛行艇を着陸させると、イラリオンは瑠璃殿下のお手をとって、そろそろと地面に下りた。
 陸地の環境に特有の、緑や生き物の匂いを含んだ風が頬をなぶってゆく。風はすでに最初の春の訪れを告げて久しいようだった。地を這いだして動き始めた虫やけものの匂い、芽吹いた草のむっとするような香りなど、滄海内では再現しきれない自然の息吹きがむっと迫ってくる感じがある。
 近くに集落でもあるのか、誰かに踏み固められ、さわさわと風に揺れる草のあいだについた小道をたどって、男は殿下を湖畔へと案内した。

「いかがです? なかなか美しいでしょう」

 先へ立って湖と周囲の山々へ手をさしのべ、イラリオンが殿下に向かって微笑んだ。不思議に寂しげな風情に見えた。いつものごく快活で深く物事を考えていないように見えるこの男にしては、という話だが。
 殿下は緑の下生えを踏みしめてゆっくりと湖畔へ歩みよられた。そこからしばらく、長くつややかに光る紺の髪を風になぶらせて景色を見つめておられた。広々とした蒼穹にも、風にも土にも春の気配が漂っている。遠くで鳥の声が聞こえ、随分高いところを猛禽らしい鳥の鋭い姿が飛びすぎるのが見えた。
 それらはすべて、人工的に調整された滄海わだつみの空とは明らかにちがう、荒々しい自然の残り香を感じさせる姿だった。
 殿下はふ、と思わずといったご様子で溜め息をつかれた。

「思っていた以上です。……素敵ですね。滄海とは、風の匂いからして違います。海の中もそうですが、群がり出る生きものの命の流れを感じます」

 殿下は予想以上に素直な声と表情でそう返された。心もち、藍の瞳が透明になり、ひどく生き生きとして見えた。

「それはよかった」

 イラリオンが静かに笑った。

(どうしたのだ、この男)

 藍鉄は内心、いぶかっていた。これまでの経験からすれば、殿下からこんな反応を返されればもうこの男は大喜びで、手を握ったり腰を引き寄せてきたりせんばかりのはずなのに。
 いまのイラリオンは、ちらちらと陽光を跳ね返す湖面を静かな瞳でみつめて、唇に謎の微笑みを浮かべて佇んでいるばかりだ。瑠璃殿下がちらりと不思議そうな目で男を見やった。
 藍鉄は、なにやら首の後ろにちりりと嫌なものを覚えていた。

 そこから殿下とイラリオンは、弓弦ゆんづるのように湾曲する湖岸をゆるゆると歩かれた。その後ろを、姿を消した藍鉄をはじめ、それぞれの付き人たちが続いている。
 イラリオンは殿下が時々なさる質問に、やっぱり穏やかな声で答えているばかりである。

「ああ、それはサンザシです」
「そちらはトネリコの木ですな」
「あれらはツバメ。今は巣作りに忙しい頃ですね」──。

 やがてこれまでで最も見晴らしのよい地点へやってくると、イラリオンはふと足を止めた。近侍の者たちは、彼が軽く手を挙げただけですすっとあとへ引き、お二人から距離を取った。さしづめ、ここからは「見ざる」「聞かざる」ということなのだろう。
 瑠璃殿下も同様に指示を下され、お付きの者たちが少し離れた。しかし、当然ながら藍鉄のみは姿を隠したままおそばに残った。

 イラリオンと瑠璃殿下は、しばらく無言で開けた景色を眺める様子だった。まだ冷たさを含んだ風が、殿下の錦の衣の袖をひらひらと揺らした。
 藍鉄は片眉をあげ、ちらりとイラリオンの横顔を盗み見た。

 この男にこう静かにしていられると、どうも調子が狂う。あまり認めたくはなかったが、ぎゃあぎゃあうるさい時には感じなかった男としての磁力のようなものが次第に強まってきているようだ。藍鉄の首の後ろが、ざわざわと「いやな感じ」を強めている。
 瑠璃殿下も同様のものを覚えておられるのか、先ほどから何となく落ち着かないご様子だった。しきりと衣の裾を直してみたり、髪の先をいじってみたりなさっている。
 と、ぽつりと男が言った。

「王の子になど、なるものではありませんな」
「……えっ?」

 殿下がびっくりしたように男を見た。
 が、男は瑠璃殿下のほうを見てもいなかった。その視線は、湖面に立つさざなみに注がれたままである。

「そちらのお国では、一夫一婦制が基本だとおっしゃいましたね。人は、たったひとりとつがうのが基本だと。それが人としての筋だと。正直、羨ましい限りです」
「あの──」
 男は振り向き、ぷふっと吹き出した。
「そんなに不思議そうになさらずとも。まこと、正直な方ですね」
「あ、いや……」

 殿下がやや頬を赤らめて俯かれた。
 男はまたすぐ、湖面に視線を戻した。

「偽りではありませぬよ。まことに羨ましいと思います」
「…………」

 殿下は押し黙られた。戸惑っておられるのだろう。それは藍鉄も同じだった。それを知ってか知らずか──いや、恐らくこの男は藍鉄の存在に気付いている──イラリオンはちらりとこちらへ視線をよこした。

「ご存知のとおり、帝国アルネリオでは、庶民はともかく王侯貴族は複数の妻を持つのが普通です。それ以外に、愛人を持つことも特に非難はされませぬ」
「……ええ」
「ある意味、『ちょっとした保険』のようなものでもあります。とりわけ王族は、血筋を絶やすわけには参りませんし」
「そうでしょうね」
「そちらのお国のような素晴らしい科学技術も医療技術もない以上、妻を少なくとも二人以上は持ち、血筋をつなぐ多くの子を生んでもらう必要がある。ひとりふたり、死ぬような子がいても大丈夫なようにです。……その妻を、心から愛していようと、いまいと」

 瑠璃殿下はハッとしたように息を吸い込み、目を見開いて男をご覧になった。
 大きな目をふちどる長い睫毛が風に揺れている。

「とりわけ王族はそうです。名だたる貴族の名家の中から、臣下たちが『あのご令嬢なら間違いありませぬ』と言う者を『ああそうか、よきにはからえ』と迎え入れる。……それだけです。事前に会うことなどほとんどない。せいぜい肖像画が送られてくるぐらいです。それも、画家によってたっぷりとの施された肖像画がね」
「…………」
「夜会などでたまさか気になる淑女を見つけても、やれ『家格が合いませぬ』だの『あれは父親の不義で生まれた娘で』だの『親族がお父君からは政敵にあたりまする』だのと、くだらぬ理由で添わせてはもらえぬし」
「…………」
「自分などは、まだましなほうですけれどね。皇太子であるセルゲイ兄はいかほどだろうかと、ときどき気の毒になりますよ」
「…………」
「ルリ殿」

 ずっと黙りこくっている殿下に向き合い、男はふっと微笑んだ。

「ルリ殿には、お分かりでしょうかね? ……『真実の愛』が、いったいどんなものだかが」
「…………」

 殿下はやっぱり困ったような、また悲しげな、しかし不思議に深い瞳で男を見返しただけだった。

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