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第二章 秘密の子
10 失踪
しおりを挟む兄君とユーリ王子のご成婚。
予想するまでもなく、瑠璃殿下のご様子はそれまで以上にひどいものになってしまった。
婚儀のため、文字通り最小限だけ式に顔を出しに行かれて以降は、別セクションの離宮に籠られ、しばらくは廃人同然の生活をなさるばかりだった。
少しでもご機嫌を損ねればそばの器物などが飛んでくるため、側付きの者たちは近づきたがらない。それで、基本的には藍鉄が、食事などを届けに一人でお部屋に入るだけだった。
『殿下。お食事をお持ちしました』
『ほんの少しでもお召し上がりを』
部屋の外からごく短く、控えめに声を掛ける。が、寝床に潜り込んだままの殿下から返事があったことはない。
寝台のそばにあるテーブルに盆を置き、古いものを下げて部屋を辞する。殿下がちゃんと息をしているかどうか、血圧や心拍数などはどうか、発熱などなさっていないか等々を腕のフィジカル・チェック装置で確認し、一礼して下がる。そんな毎日がしばらく続いた。
しかし、である。
そんな折、あの驚くべき事件が起こったのだ。
何者かが滄海の中枢部に忍び込み、護衛の者らを虐殺して玻璃殿下のお身柄を拘束、拉致、そして誘拐しおおせた。当時、殿下の周囲を固めていた武官や忍びたちは一瞬にしてこの世を去ったのだという。事件の詳細や現場の様子を聞くに及んで、さすがの藍鉄も背筋に冷たいものを覚えた。
瑠璃殿下はもちろん驚愕された。ずっと臥せっていた寝台から飛び起きると、そのまま身づくろいもそこそこに帝都・青碧へ飛んで行かれた。
だが殿下にも、ほかの政府要人たちにもできることはほとんどなかった。なにしろその時は、まだ相手の正体すら不明の状態だったのである。
宇宙軍総司令官である青鈍をはじめ、左大臣、右大臣ともあれこれと話をしたが、瑠璃殿下はろくな情報も得られないままよろよろと離宮にお戻りになった。お顔にはほとんど血の気というものがなく、今にもお倒れになりそうだった。
殿下はそのまま居室に入られると、急に体から力をなくされ、その場にずるずるとへたりこまれた。
『殿下!』
藍鉄はすぐ、姿を現して殿下の体をお支えした。
普段まったく触れることもない──というか、当然そんなことは許されぬが──殿下のお体は、恐るべき細さと軽さだった。このところずっとろくに食事もなさっておらず、寝床で鬱々となさっているばかりだったのだ。無理もなかった。そこへまた、追い打ちをかけるようなこの事態である。
なぜこの御方の身の上にばかり、大変なことが降りかかるのだろう。
『殿下。どうか、お気を確かに。そちらへ参りましょう。……さあ』
お顔は乱れた紺の髪に隠れていたが、殿下は無言でこくりと頷かれた。藍鉄が驚くほどに、子供のような素直さだった。足にはほとんど力が入っておらず、藍鉄はよほど、いっそ抱き上げてさしあげようかと思った。だが、さすがにご無礼に過ぎると考え直して自分を制した。
寝台にとすりと腰かけると、殿下は両手で顔を覆って背中を丸め、蹲られてしまった。
『あにうえ……あにうえ』
そんな言葉だけが、途切れとぎれに聞こえてくるばかりである。必死に唇を噛みしめておられても、どうしてもその間から悲鳴のような嗚咽が聞こえてくるのだった。お体はずっと、がたがたと震えっぱなしだった。
藍鉄は寝台の足元に跪いて主人を見上げた。
『殿下。どうか、お心を確かにお持ちくださいませ。なにか温かいものでも運ばせましょう。……まずは、どうか落ち着かれませ』
何度か低い声でそう語り掛けると、殿下はようやくのろのろと目を上げた。そこではじめて藍鉄と目が合った。殿下の目は真っ赤だった。
『藍鉄……』
『は』
殿下の手がゆっくりと上がって、藍鉄の方へさしのばされた。
『藍鉄……どう、しよう──』
『は──』
藍鉄は困惑して停止した。今にもこぼれおちそうなほど大きな目が、隈に取り囲まれてこちらを凝視している。その目の中には動揺と不安がごうごうと渦巻いていた。
『兄上が……あに、うえが。どうしよう。どうしようっ……!』
『殿下っ!』
よろよろと立ち上がった拍子に、殿下はへたっと床に座り込んでしまわれた。思わず手を出し、倒れかかるのをお支えする。意図せず、抱き込むような形になった。
殿下の手が、そのまま必死に自分の腕にしがみついてきた。物凄い力だった。
殿下はそのまま、むしゃぶりつくように藍鉄の体にしがみついてきた。
『どうしよう、どうしよう……! 兄上が、兄上が……もしっ』
言った途端、それ以上は言えなかった言葉がほかのものになって、殿下の瞳から溢れ出た。
ぼろぼろぼろぼろ、それがもう止め処もなく白すぎる細い頬へ、顎へと落ちかかる。それから必死で首を左右に振りまくられた。そんなこと、たとえ頭の中だけでも言葉にしてはなるまいと思っておられるに違いなかった。
『いやだ……いやだ。どうしよう。どうしたらいいっ。教えてくれ。教えてくれよ。どうしたらいいんだようっ……!』
自分の胸に取りすがって号泣しはじめられた殿下を、藍鉄はしばし呆然と眺めていた。
──抱きしめたい。
いますぐ。この方を。思いきり。
背中をさすり、頭を撫でて、優しい言葉で安心させて差し上げたかった。
だが、それは許されない。
たかだか護衛の、卑賎の出の忍びごときには。
決して許されることではなかった。
藍鉄は、ほんのわずかに肩をお摩りしたのみで、殿下を寝台へお戻しし、静かに部屋を辞した。
じわりと血のにじむほど、おのが唇を噛みしめながら。
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