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第二章 秘密の子
8 親善使節
しおりを挟む瑠璃殿下は長い睫毛を伏せ、しおしおと俯かれた。
だがそれでも、心に掛かる最も大きな部分について、お父君にすらお話することは叶わない。だから殿下は、単に「故国を離れるのが寂しいのです」とか「兄上のお傍を離れたくないのです」とか、そんな些末な理由を並べ立てるしかないのだった。
傍らで聞いている藍鉄にしてみれば、ひたすらに殿下がお労しいばかりである。周囲に姿が見えているなら、その者らはいま自分の眉間に厳しい皺が刻まれていることを知ったであろう。
《瑠璃や。まあ、左様に頑ななことを申さないでおくれ》
当然ながら、陛下は瑠璃殿下をとりなされた。優しく穏やかなお声だった。
《これも偏に、わが国と帝国アルネリオとの穏やかな国交を開く、大切な端緒のため。あちらも王子を出すからには、こちらは臣下というわけにも参らぬ。そのあたりの道理は、そなたとて重々わかっておろうけれども》
《もちろんです、父上。……でも》
水中ですらふるふると揺れる長い睫毛を震わせて、殿下は父君の手に取りすがられた。
《でも……でも、いやなのです。陸の王子なんかに、兄上を取られたくない。ご結婚されるなら、滄海の者でいいではありませぬか。いやだ。私は、いやなんですっ……!》
《うむ、うむ。そなたは幼きころより、まこと玻璃を慕っておるからのう──》
殿下の言葉の真実の意味にお気づきなのかそうでないのか。敢えて分からぬふりをなさっておいでなのか。そのあたりは、護衛の忍びごときに分かろうはずもなかった。
陛下は悠然とした微笑みを消さないまま、瑠璃殿下のお手や髪を撫でておあげになった。そうして、ゆっくりと穏やかに殿下をお諭しになられるばかりだった。
殿下は「いやだ、いやなのです」と泣きだしそうな声で訴えながらも、最後は黙ってうなだれただけだった。
◆
そうして。
皮肉なことに、殿下が「いやだ、いやだ」と思えば思うほど、その日はすぐにやって来たように思われた。
結局、瑠璃殿下は玻璃殿下につれられて、帝国アルネリオへの親善使節団として水空両用艇に乗り、その国へ向かわれた。姿は隠していたものの、藍鉄も当然つき従っていた。
「敵地」と言うべきではないけれども、やはり自国ではないため、今回は殿下のおそばには自分を含め三名の忍びがついていた。皆、姿は隠している。
殿下があの底抜けに明るく能天気なアルネリオの第二王子に出合ったのは、そのときが最初だった。
イラリオン・エラストヴィチ・アレクセイエフは、あの高原で殿下を見るなり、視線が糊付けされたかのようになってしまった。頬を紅潮させ、肩にひどく力が入っている。藍鉄にしてみれば、非常によく見る光景だった。初めて瑠璃殿下を目の当たりにした者は、男女を問わずあのような態度になることが多いのだ。
イラリオンは実の弟ユーリ殿下との別れもそこそこに、素早く瑠璃殿下のそばにやってきた。そうして、もはや肩を抱かんばかりに歓迎した。もちろん本当にそんなことをすれば、殿下ご自身が叱責したり拒否したりするより先に、自分がその薄汚い手に鉄槌を下す気でいたけれども。
イラリオンは表層のことだけでなく、まことに陰りのない性格をしているようだった。屈託がないというのか、悩みのひとつもないというのか、ともかく明るくて底意がない。少なくとも、ないように見える。
アルネリオ宮へ至る道すがらも、「あそこへ寄りませぬか」「あちらに美しい湖が」などなど、あれこれと瑠璃殿下の気を引こうと躍起になっているようだった。
殿下はもちろん、ひどくつまらなそうにすべての誘いを一蹴された。ただただ、一刻も早くこの行程を終わらせてしまいたかったのであろう。
本来であれば、いくら文明が後退したとは言っても、他国の文化や技術の程度だけを見て相手を見下したりするものではない。それは品と教養のないことにほかならず、皇族の皆様がなすべきことではなかった。もしもこの場に群青陛下や玻璃殿下がこの場におられれば、叱責されるのは瑠璃殿下だったことだろう。
だが藍鉄も、瑠璃殿下をお諫めする気にはなれなかった。そのお気持ちが痛いほど理解できたからである。
(……お寂しいのだ)
そうだ。
殿下はただただ、お寂しいのだ。
結局あのユーリ王子が玻璃殿下とともに滄海へ行くことになり、兄君はほとんどあの王子の肩を抱くようにして飛行艇に消えていかれた。その背を見送っていたときの殿下の瞳が、いつまでも目の裏から消えてくれない。
藍鉄だけは見逃さなかった。その瞳に、一瞬なんともいえない色が宿り、うっすらと濡れたように光るヴェールが下りたのを。
(……お労しい)
ご自分の居室であれば、それこそまた大暴れして物に当たり散らしているところだ。それを、親善使節としての身分を弁え、ここまではそれなりにおとなしくなさっている。それだけでも、大いに褒めて差し上げたいほどだった。暢気なイラリオン王子に対して多少舌鋒が鋭くなるぐらいのことは、許してもらいたいと思った。
もしもそれで瑠璃殿下が何かの責めを負うというのであれば、代わりにこの身を鞭打ってもらって一向に構わないとすら考えていた。
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