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第二章 秘密の子
7 お父君
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──そうなのだ。
そのときにはもう、遅かった。
小さな野獣のように暴れ狂うこの美しい皇子殿下を、藍鉄の錆びた扉の奥底はとっくに……とっくに、「特別なもの」にしてしまっていたから。
だが、だからどう、ということでもなかった。
自分の胸の深淵に潜む想いを自覚したからといって、藍鉄の日常にこれといった変化が起こったわけではない。自分の気持ちがどんなものであったとしても、やるべき仕事に変わりはなかった。
ただただ、身命を賭してこの御方をお守りするだけである。
どこにもぶつけようのない殿下のお怒りのいくらかでも、この身でお受けするぐらいのことだ。
まさかこんな卑賎の出である自分が、この方とどうこうなろうなど。
そのような思い上がった気持ちは一抹も持ち合わせていなかった。
そうこうするうち、玻璃殿下は朝議の場で驚くべき提案なさった。あちらのユーリ王子とこちらの瑠璃殿下を親善使節として交換しようというのである。
もちろん瑠璃殿下は頑強に反対なさった。
『なんで私が、あんな野蛮な国へなど行かねばならぬのですっ! それでユーリ王子とやらがこちらへ来るなんて。いやです。死んでもいやですっ……!』
だが、「惚れた弱み」とでもいうのだろうか。兄君が「どうか平に。どうか頼む、瑠璃」と何度も何度も頭を下げて懇願なさるうちに、瑠璃殿下は渋々それを承諾せざるを得なくなってしまったのだ。
──ずるいな。
陰でそっとその顛末を拝見しながら、ご無礼だとは自覚しつつもそう思った。
玻璃殿下は、弟君の深い愛情をどういうものだとお考えなのだろう。そこのところはいまひとつ分からぬが、単なる兄弟愛であれそれ以外のものであれ、瑠璃殿下が大好きな兄君の心からの願いを無碍になさるはずがない。そう思うからこそ、幾重にも頼み込むはずなのだから。
それは「ずるい」とは言わぬだろうか。
『……わかりました。仕方ありませぬ。でも本当に、本当にちょっとだけの間ですからね』
必死で涙ぐむのを堪えながら、とうとう瑠璃殿下はそのお口から、そんな言葉を零してしまわれたのだ。藍鉄は姿を消したまま、ひそかに硬く拳を握った。
もちろん、私室に戻ってからの殿下の荒れようはひどかった。この自分すら寄せ付けようとせず、数日自室にお籠りになってしまったものだ。
ご心配なのは、恐らく兄君とユーリ王子の関係がさらに緊密になってしまうことなのだろう。ユーリ王子自身は今のところ、唐突かつ強引な玻璃殿下からの求愛に戸惑っているという話だった。
だが、こちらで何日も共に過ごすうち、気持ちが変化せぬとも限らない。なぜならそれほど、玻璃殿下は魅力的な男子であられるからだ。
そうなったら、今にも砕けそうな瑠璃殿下のお心はいったいどうなってしまうことか。
『出かける。ついてこい』
数日鬱々と過ごされたのち、殿下はだしぬけにおっしゃった。目の縁が紅に染まり、お疲れが見えてほつれかかった髪などのご様子が、またひどく藍鉄の錆色の深淵を刺激した。
「どちらへ」という自分の質問は綺麗に無視なさったが、「尾鰭をつけよ」とのご命令で、行く先については察しがついた。
海皇・群青陛下は、このところはもうずっと《大水槽》の宮からお出にはならない。滄海の生き字引、お婆などもそうであるが、老齢を迎えた滄海の人々は水の中で暮らすことを好むようになるのだ。どうやら水の中を漂いゆくほうが、足で地面を歩くよりもお楽であるようである。
その日、瑠璃殿下はいつもの藍色の美しい鰭をおつけになって、自分ひとりを従えて父君の宮へ出向かれた。藍鉄は忍び用の、黒灰色の鮫鰭をつけていた。
瑠璃殿下は上半身には装飾品以外のものをおつけにならないが、自分は鰭と同色の薄くぴたりとした水中スーツをつける。
瑠璃殿下の肌は、恐ろしく目の毒だった。白磁のような肌。その上に咲く、桜の色をしたふたつの飾り。つつましやかな臍。すらりとした筋肉に包まれながらも細身でお美しい姿。
もちろん、護衛ごときが高貴な人をじっと見つめるなどという不敬な真似はできない。それをいいことに、藍鉄は常に瑠璃殿下からわずかに視線を逸らして任務にあたっている。
《瑠璃か。久方ぶりじゃのう。ささ、こちらへ。余のそばへおいで》
群青陛下は末の皇子をお認めになるや、ゆらりと頬を緩め、目をほそめられた。いつもながら、雪のように白いお髪と髭との、荘厳なまでのお姿である。お母君に生き写しであるという瑠璃皇子を、陛下はことのほか愛しておられた。
瑠璃殿下はするするっとお父上のもとに泳ぎ寄られ、その足元に座られた。長い紺の髪がゆらゆらと水に広がる様は、まるで一幅の絵画のようである。
《近頃はなかなかお伺いもできず、申し訳ありません、父上さま……》
《左様なことは気にするまいぞ。……だが、どうしたのじゃ。なにやら元気がないの》
《は……。いいえ》
陛下のお口元からぷくりと泡がうまれる。笑われたのだ。
《無理をせずともよい。玻璃からもう聞いておるぞ。そなた、近々陸の国へ参るのじゃそうな。……そのことであろう?》
《…………》
瑠璃殿下は長い睫毛を伏せ、しおしおと俯かれた。
そのときにはもう、遅かった。
小さな野獣のように暴れ狂うこの美しい皇子殿下を、藍鉄の錆びた扉の奥底はとっくに……とっくに、「特別なもの」にしてしまっていたから。
だが、だからどう、ということでもなかった。
自分の胸の深淵に潜む想いを自覚したからといって、藍鉄の日常にこれといった変化が起こったわけではない。自分の気持ちがどんなものであったとしても、やるべき仕事に変わりはなかった。
ただただ、身命を賭してこの御方をお守りするだけである。
どこにもぶつけようのない殿下のお怒りのいくらかでも、この身でお受けするぐらいのことだ。
まさかこんな卑賎の出である自分が、この方とどうこうなろうなど。
そのような思い上がった気持ちは一抹も持ち合わせていなかった。
そうこうするうち、玻璃殿下は朝議の場で驚くべき提案なさった。あちらのユーリ王子とこちらの瑠璃殿下を親善使節として交換しようというのである。
もちろん瑠璃殿下は頑強に反対なさった。
『なんで私が、あんな野蛮な国へなど行かねばならぬのですっ! それでユーリ王子とやらがこちらへ来るなんて。いやです。死んでもいやですっ……!』
だが、「惚れた弱み」とでもいうのだろうか。兄君が「どうか平に。どうか頼む、瑠璃」と何度も何度も頭を下げて懇願なさるうちに、瑠璃殿下は渋々それを承諾せざるを得なくなってしまったのだ。
──ずるいな。
陰でそっとその顛末を拝見しながら、ご無礼だとは自覚しつつもそう思った。
玻璃殿下は、弟君の深い愛情をどういうものだとお考えなのだろう。そこのところはいまひとつ分からぬが、単なる兄弟愛であれそれ以外のものであれ、瑠璃殿下が大好きな兄君の心からの願いを無碍になさるはずがない。そう思うからこそ、幾重にも頼み込むはずなのだから。
それは「ずるい」とは言わぬだろうか。
『……わかりました。仕方ありませぬ。でも本当に、本当にちょっとだけの間ですからね』
必死で涙ぐむのを堪えながら、とうとう瑠璃殿下はそのお口から、そんな言葉を零してしまわれたのだ。藍鉄は姿を消したまま、ひそかに硬く拳を握った。
もちろん、私室に戻ってからの殿下の荒れようはひどかった。この自分すら寄せ付けようとせず、数日自室にお籠りになってしまったものだ。
ご心配なのは、恐らく兄君とユーリ王子の関係がさらに緊密になってしまうことなのだろう。ユーリ王子自身は今のところ、唐突かつ強引な玻璃殿下からの求愛に戸惑っているという話だった。
だが、こちらで何日も共に過ごすうち、気持ちが変化せぬとも限らない。なぜならそれほど、玻璃殿下は魅力的な男子であられるからだ。
そうなったら、今にも砕けそうな瑠璃殿下のお心はいったいどうなってしまうことか。
『出かける。ついてこい』
数日鬱々と過ごされたのち、殿下はだしぬけにおっしゃった。目の縁が紅に染まり、お疲れが見えてほつれかかった髪などのご様子が、またひどく藍鉄の錆色の深淵を刺激した。
「どちらへ」という自分の質問は綺麗に無視なさったが、「尾鰭をつけよ」とのご命令で、行く先については察しがついた。
海皇・群青陛下は、このところはもうずっと《大水槽》の宮からお出にはならない。滄海の生き字引、お婆などもそうであるが、老齢を迎えた滄海の人々は水の中で暮らすことを好むようになるのだ。どうやら水の中を漂いゆくほうが、足で地面を歩くよりもお楽であるようである。
その日、瑠璃殿下はいつもの藍色の美しい鰭をおつけになって、自分ひとりを従えて父君の宮へ出向かれた。藍鉄は忍び用の、黒灰色の鮫鰭をつけていた。
瑠璃殿下は上半身には装飾品以外のものをおつけにならないが、自分は鰭と同色の薄くぴたりとした水中スーツをつける。
瑠璃殿下の肌は、恐ろしく目の毒だった。白磁のような肌。その上に咲く、桜の色をしたふたつの飾り。つつましやかな臍。すらりとした筋肉に包まれながらも細身でお美しい姿。
もちろん、護衛ごときが高貴な人をじっと見つめるなどという不敬な真似はできない。それをいいことに、藍鉄は常に瑠璃殿下からわずかに視線を逸らして任務にあたっている。
《瑠璃か。久方ぶりじゃのう。ささ、こちらへ。余のそばへおいで》
群青陛下は末の皇子をお認めになるや、ゆらりと頬を緩め、目をほそめられた。いつもながら、雪のように白いお髪と髭との、荘厳なまでのお姿である。お母君に生き写しであるという瑠璃皇子を、陛下はことのほか愛しておられた。
瑠璃殿下はするするっとお父上のもとに泳ぎ寄られ、その足元に座られた。長い紺の髪がゆらゆらと水に広がる様は、まるで一幅の絵画のようである。
《近頃はなかなかお伺いもできず、申し訳ありません、父上さま……》
《左様なことは気にするまいぞ。……だが、どうしたのじゃ。なにやら元気がないの》
《は……。いいえ》
陛下のお口元からぷくりと泡がうまれる。笑われたのだ。
《無理をせずともよい。玻璃からもう聞いておるぞ。そなた、近々陸の国へ参るのじゃそうな。……そのことであろう?》
《…………》
瑠璃殿下は長い睫毛を伏せ、しおしおと俯かれた。
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