ルサルカ・プリンツ 外伝《瑠璃の玉響》

るなかふぇ

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第一章 紺青の離宮

4 殺気

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 異国の男と瑠璃殿下がなさる問答を、藍鉄はつねのごとく部屋の隅で身を隠して聞いていた。

「あなた様の、は変化しましたか。……と、そうお訊ねしているのです」

 男がそう言った途端、瑠璃殿下の視線が鋭くなった。眼光がギリッと音を立てたかのようだった。

(何をしに来たのだ。この男)

 遠路はるばるやってきて、わざわざ虎の尾を踏むような真似をせずともよかろうものを。このようなくだらぬことで、殿下のお時間を無駄におさせするなど。
 内心大いにそう思い、歯ぎしりしたい気持ちであっても、単なる殿下の護衛の身では何も言えない。ただ微動だにせず話の成りゆきを見守るだけだ。
 瑠璃殿下は明らかに鼻白んだご様子だった。

「私の気持ちですって? それがあなた様に、なんのご関係が」
「『関係がない』などとは言わせませぬぞ、殿下」

 男は鷹揚な笑みを浮かべてまた茶をすすった。日焼けをした肌にまっしろな歯が映えて、いかにも洒脱な男ぶりである。悔しいが藍鉄の目から見ても相当な美丈夫だ。故国でも、さぞや女にもてるのであろう。
 長身で少しもなよなよしたところはなく、胸板も厚くがっしりとしたものだ。たしか剣技や馬術など武芸にも秀でているという情報だったが、納得させられるものがあった。
 男は体幹の強さを物語るきりりとした良い姿勢のまま、ごく慇懃に言った。

「私は申し上げたはずです。あなた様にはっきりと、自分の気持ちをね」
「さてもさても。ご無礼ながら、ご記憶におかしな点がおありなのでは? 以前の奇妙なお申し出については、その場できっぱりお断り申し上げたはずですが」
 
(いかん)

 殿下の目がはっきりと据わり始めている。当然であろう。この男には、すでに正妻もいれば何人もの愛人までいる。そのことは、とうに殿下もご存知だ。その末席にこの尊い瑠璃殿下を加えようという話なら、無礼千万。
 いや無礼どころの話ではない。正直なところ、万死に値するとすら思う。たとえ瑠璃殿下がお許しになろうとも、この自分が鉄槌を下すにやぶさかではない。

「……ん?」

 思わず体から煮えたぎるような殺気をみ出させてしまったのだろう。イラリオンは一瞬ぞくっとしたように体を竦ませ、きょろきょろと周囲を見回した。なるほど、そちらの勘だけは良いらしい。
 殿下が「よさぬか」と言わんばかりの目でこちらを一瞬ご覧になった。

「イラリオン殿下。ご記憶が消失されているということなら、もう一度はっきりと申し上げますが」
 瑠璃殿下の声はすでに地を這っている。
「私はあなた様と、これ以上個人的に親密になるつもりなど毛頭ございませぬ。友人としてならばいくらでもお構いも致しましょうが。とりわけそちらの御国での男女の関係のようなことは、平にご容赦願いたい」
 イラリオンが苦笑した。
「私の記憶は至極まっとうでございますよ。殿下」
 単に往生際が悪いだけです、とこれまた笑いながらほざいている。「心臓に毛が生えている」という譬えがあるが、まさにそれかと思われる。
「自慢するわけではございませんが。これまで『これは』と思った女人を落とし損ねたことがないもので。ほんの一度や二度、断られたからといって引き下がったのでは男がすたる。それを身上としておりますゆえ」
 そんなはた迷惑な身上を披露されても、殿下がご迷惑なだけである。
「殿下はもちろん女人にはあらせられませぬが、まことこれまでお会いした中でも第一級の宝石、いやこの世の至宝にあらせられます。どうにも諦める気持ちになれず──」

(こいつ)

 ぬけぬけと何を言うのか。文字通り、死の鉄槌を下してやろうか。
 藍鉄は密かに、固く拳を握りしめた。

(貴様になぞ、誰が渡すか)

 思わず脳裏に閃いた言葉には、慌てて幾重にも蓋をする。
 ならぬ。
 左様な事、自分ごときが思考の片隅にすらのぼせるべきではないのだ。
 と、瑠璃殿下がすぱっと立ち上がって言い放たれた。

「藍鉄! 出てこい」
「は」
 すぐに姿を現して、片腕、片膝を床についてこうべを垂れる。
「あっ?」

 イラリオンがハッと腰を浮かした。先ほど己が感じた寒気の理由をようやく理解したらしい。側付きの中年男も青ざめて、「ひいっ」と声を洩らしている。

「この無礼な男を放り出せ。掛けまくもかしこき滄海の後嗣こうしにつらなる皇子をつかまえて、厚顔無恥にも己が愛人にしようと企む卑俗卑賎の奸悪ぞッ!」
「い、いや、殿下。奸悪だなどと。お言葉が──」
「ほかならぬ帝国アルネリオの王子と思えばこそ、ここまで我慢してきたが。もう許せぬ。叩きだせッ!」
「あいや、殿下──」

 完全にたじろいで、イラリオンが降参するように両手を上げた。笑顔をひくつかせ、額に冷や汗を浮かべている。が、じりじりと後退しながらもまだほざく。

「ご無礼にございましたか? お気に障ったのでしたらどうかお許しください。幾重にもお詫び申し上げる。これでも一応、他国の王子にございますれば。どうか乱暴なことはご勘弁くださりたく──」
「やかましい!」

 言い放って、殿下はご自身が背中にあてていたクッションを男の胸元に投げつけた。イラリオンはほとんど反射的にぱっとそれを受け取った。それがなにやら滑稽に見えた。

「そなたがいかに武勇に優れておろうとも、この藍鉄にかのうと思うなよ? 滄海第一等の忍びの者ぞ。そなたを昏倒させるのに、瞬きほどの時間も要るものかよ」
「ううっ……」

 男と側近が、さも恐ろしげにこちらを見る。
 藍鉄は瑠璃殿下が望まれることと、己が仕事を十分に心得ていた。
 一気にぶわっと、殺気を放散させる。
 途端、あたりが急に冷え込んだ。庭先で囀っていた小鳥たちが、突然バサバサッと羽音をたてて逃げ散っていく。

「ひえええっ!」

 側近の男が、空気の圧に押されたようになってその場に尻もちをつく。
 藍鉄の眼光に射すくめられ、イラリオンも血の気を無くして棒立ちになった。だがまあ、なんとか悲鳴を上げずに踏みとどまっているだけでも、まずは褒めてやらねばなるまい。
 藍鉄がその気になれば、ただを放散するだけで相手を転ばすぐらいは容易いことだ。気の弱い者であれば、即座に卒倒することもある。

主人あるじのご命令にございます。ここはどうか、ご退去を」
 藍鉄は相手を射殺さんばかりの眼光のまま、地底から響く低音で言った。
「ご快諾なくば、ご無礼ながら卑賎な自分がお体に手を掛けざるを得ませぬぞ」

 話はそこまでだった。
 イラリオン王子は暇乞いとまごいの挨拶もそこそこに、う這うの体で退散していった。
 あとで気づいたことだったが、殿下が投げたクッションをそのまま持ち去ったようだった。
 クッションをしっかと胸に抱いたまた、側近の男とともに廊下を走り去る王子の情けない顔を思い浮かべて、藍鉄は心ひそかに、熱くたぎった留飲を下げたのだった。

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