ルサルカ・プリンツ 外伝《瑠璃の玉響》

るなかふぇ

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第一章 紺青の離宮

1 皇太子の弟

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「……ふう」

 ひとしきりの心の嵐が過ぎ去って、ようやく瑠璃はひと息ついた。
 部屋には誰もいない。いや、忍びの藍鉄が姿を消してそこらに控えていることは知っているが。

 窓の外は、すでに冬の気配がしている。
 海底皇国、滄海には四季がある。深い海の底に建造された巨大な海底都市であるにもかかわらずだ。人工的に気温や湿度を調節しなければ、農作物への影響が計り知れないからである。
 だがそれは、瑠璃には少々滑稽なことのようにも思える。現在の地球は全体の気温が上がり、何千年の昔のような冬らしい冬がくる地域も少なくなっているからだ。それでも人間はどうにか生き延びようと様々な工夫を凝らして、この巨大な球体にみっしりとしがみついている。

 もちろん、こんなことを迂闊に言えばあの兄に張り飛ばされることは必至だ。
 滄海の第一皇子にして皇太子、玻璃はり兄。
 兄には大きな計画がある。
 いつか十分な用意が整い、帝国アルネリオとその属国の民たちにも門戸を広げ、多数の巨大な宇宙船で宇宙を目指す。この母なる惑星を捨て、人類と動物たちを救うため、一縷の望みをかけて大宇宙へと旅立とうという壮大な計画が。

 そんな風に世界を大きく長いスパンで見て物事を考えられる兄こそ、やはり次代の海皇にふさわしい。
 ゆえに皇位継承について、自分が不満に思うことは何もなかった。子供のころから素晴らしい才能を発揮させていた兄。八つ年上のその兄に憧れ焦がれ、なんとか追いつこうと必死に頑張ってきたものだ。
 けれど、遂に追いついた部分はなにもないままこの年齢に至っている。瑠璃は今年で十八になる。

 いや、ひとつあるのだとすればこの顔か。
 臣下たちは口を揃えて瑠璃の美貌「だけ」を褒めそやす。
 子供のころ、それにもやもやとした疑問を覚えなかったわけではない。容貌などというものは、親から勝手にこの身体に引き継がれた形質の表出にすぎないことだ。そこに自分の努力など微塵も関係していない。ないが、別に不満はなかった。
 兄が自分より素晴らしいのは自明のことだ。文武に優れているだけではなく、あの泰然と広やかで温かなお心のすばらしさ。浩然の気を養いつつも目下の者らへのこまやかな気遣いもおできになる、あの人こそ稀有の存在だ。
 だれよりも憧れて、小さなころから追いかけて、追いかけて。
 だが、それが叶うはずもなかった。こんなにも鬱々とした個人的な悩みばかりの小さなはこにすぐに逃げ込んでしまう、惰弱な自分に。

(兄上……)

 玻璃兄とアルネリオの王子ユーリの婚儀から、はや数か月が過ぎた。
 瑠璃は最初、あの王子を「凡夫よ」「才知に薄き根性なしよ」と相当に見下していた。それは恐らく、このひどい嫉妬心によってより醜く肥大化してしまったものだっただろう。
 気が弱く、見た目も平凡。アルネリオと滄海の科学力の差は如何ともしがたいが、そのことを差し引いても、あの王子はどうにも「才知に優れた御仁」とは呼べなかった。 
 しかし瑠璃にはすぐにわかった。彼の非常に素直で誠実なところが兄好みなのだろうということだけは。まあ、だからといって瑠璃自身が納得できるものではなかったけれど。

──どうして。

 どうして、それが自分ではいけなかったのか。
 確かに兄弟なのだから、子供を儲けるのはまずいであろう。そうでなくとも滄海に巣食う深刻な「血の病」のため、短命な赤子が増えているのだ。自分があのユーリのように正式な配偶者として兄の隣に立つなどは不可能だった。
 だからこそすべてのプライドさえなげうって、兄に取りすがって叫んだというのに。滄海の第二皇子たる、この自分がだ。

──『いっそ愛人にしてください』とまで。

 もちろん、兄にははっきりと拒絶された。
 瑠璃の心はそこで一度、ずたずたに切り裂かれた。こなごなにされた自分自身を拾い集め、どうにか形にするまでにも随分と時間がかかった。
 その後、兄は宇宙から来た恐るべき生き物にさらわれた。ひどく狼狽しているばかりのユーリ王子を、自分はどんなにか舌鋒鋭くなじり、追い詰めたことだろう。
「お前の身体も命も貞操も、すべて投げ捨てて兄を助けよ」と、相当ひどい言葉で脅しつけた。王子は涙を流しながら、真っ青な顔で震えていた。

 あんなことをすべきではなかった。それは重々認識している。それまでだって決して高くはなかった自分の評価が、重臣たちの前で言い放ったあの言葉によってさらに格段に下がったことは肌で感じていたから。
 それは、当の王子が意を決してたった一人で宇宙へ兄を救いに行ったときに決定的になったと思う。

 瑠璃殿下には玻璃殿下の力添えをする価値もない。
 あの平々凡々なユーリ殿下と比べてすらも──。
 臣下たちがそう思うのは当然だった。

 兄上の遺伝情報はすでに「遺伝情報管理局」に保管してあるはずだった。なんとなれば、以前皇太子妃深縹こきはなだと一度添うておられたからだ。
 ユーリのそれと合わせれば、たとえ父親が不在であっても御子を儲けることはできる。それをせぬうち、ユーリをあの化け物のもとへ押し付けるなど。
 あれが、今世紀最大の愚挙と言わずしてなんだったというのだろう。

 だが。
 幸いにしてと言うべきか、ユーリは玻璃兄を救いだしてこの地へと戻ってきた。そうして何事もなかったかのように東宮御所での生活に戻ったのだ。いや、あの事件があったればこそ、おふたりの絆はより強く結ばれたようにすら見えた。
 ……それは、よかった。
 心から良かったと思う。瑠璃自身もユーリへの評価を大いにあらため、ようやくあの青年に自分の兄を預けようという気持ちになった。
 それは嘘ではない。
 決して決して、嘘ではなかった。

 しかし。
 だからといって、一度こなごなになった自分の心をうまく修復できたかと問われれば、答えは「否」でしかなかったのだ。
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