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第十一章 巡る時間
5 正念場
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そこから、配下の皆は相当に頑張ってくれた。そのことは確信している。
しかし、状況は配下のみなの寝食を忘れた努力をはるかに凌駕したのだ。
調査の結果、ストゥルトが予期していた通り、《偽物のインセク》つまりディヴェはずたぼろの格好のままケントルムの門を通り、あちこちをうろつきながら王宮へやってきたことがわかった。
少年を見たという平民らが言うには、彼はあちらこちらの井戸のそばで発見された。幸いにして、彼に直接触れた者はいなかった。見るからに不潔そうだったので、無理もない話ではある。
が、この謎の病に罹患する者はどんどん増えていった。
ストゥルトは事前に手を打って、街のはずれにある比較的大きな建物のいくつかを国庫の金で買い上げ、そこをこの疫病の患者の隔離場所とした。個別にあちこちで隔離していたのでは医者の手が追いつかなくなるためだ。
そこに運び込まれてくる患者は日々増え続けた。
昨日五人だったものが、今日はその二倍、三倍になる。やがてそれが昨日の十倍、二十倍と増えていく。
運ばれて来た患者たちは、ものの五日もすれば命を落とした。ひとりずつ墓を作ったり葬式をあげたりする余裕などすぐになくなり、疫病のもとをこれ以上ばらまかないため、遺体は街はずれで火葬されて大きな穴に一度に入れられ、埋められる日々が続いた。
街の中には、そのための不穏な臭いと灰がいつも舞っているように感じられた。火葬場からはずいぶんと離れた王宮にいてさえも、人を焼くにおいがここまで届くようだった。
人々はあっというまに疲弊していった。ほとんどの住民は、どうしても必要な用がある者以外は自宅に閉じこもり、しっかりと戸を閉じて他人との交流を断った。
街の中は不気味なほどに静まり返り、毎日のように開かれていた市の広場にも、がりがりに痩せた犬がちらほらと歩いているぐらいだという。
ドゥビウムには帝国じゅうから呼び集めた医師らをつけたが、それでもすぐに手は足りなくなった。
まるで悪夢のようだった。
いや、現場にいる者たちにとっては悪夢そのものだったろう。
太陽たる皇帝を戴いているはずのアロガンスの上を、この恐るべき疫病という黒雲がずっしりと覆いつくしているかのようだった。
それでも、数日おきに状況報告に来るドゥビウムが「もう無理です」と音を上げたことは一度もなかった。が、その顔を見れば状況は歴然としていた。恐らく何日も眠っていないのだろう。男の目は落ちくぼみ、頬はこけて白っぽく青ざめ、目の周りには真っ黒な隈ができていた。
まったく大げさでもなんでもなく、男は今にも倒れそうに見えた。
ストゥルトはしばしば見かねて言ったものだ。
「ドゥビウム、いいからお前は少し休め。そのままではもたんぞ。今、お前が倒れたのではどうしようもない。一日だけでも、助手のだれぞかに任せて──」
「いえ。自分が現場を離れるわけには参りませぬゆえ」
「しかし」
「やかましい。いいから来い!」
しまいにはフォーティスにそう怒鳴られ、医者はほとんど拉致されるようにして自分の寝床へ引きずられていった。
ほかの医療班の者らも同様の状態に追い込まれているとのことで、フォーティスとスブドーラに命じて息の長い活動ができるよう勤務を調整することになった。
こうした人的な問題もさることながら、金銭的な問題も次第に大きくなってきている。
先日ストゥルトが命じたとおり、人々は衛生のため生水を使わないように努力していた。だが、湯をわかすためには燃料が必要だ。裕福な家の者はいい。だが貧しい者らには、十分な薪を手に入れる術がないことが多いのである。
これには、ストゥルト自身がわずかな期間とはいえ奴隷の身に落ちたことが大いに役に立った。貴族連中がその事実に気づく前に、その問題に気づくことができたのだ。
「街の外郭に集まっている貧民街の者らには、王宮から沸かした湯を支給するなどの工夫が必要になるだろう」
御前会議の場でそう言い出したストゥルトを、貴族らは一様にぽかんとした顔で見つめたものだ。
大きな街の周囲には、往々にしてああした貧民街ができやすい。「街」とは言うが実際は棒切れに布を渡しただけの「家」とも言えないような居場所をつくって身を寄せ合っている、ぼろをまとった貧しい人々の集団だ。
物乞いをしたり体を売ったり、時にはかっぱらいをするなどしてしか生きることのできない人々。それでも荒野をうろつくよりはここにいた方が数倍マシなのだ。生きる可能性があるのは、どう考えても街の周囲なのだから。
「しかし、陛下」
まっさきに苦言を呈したのは、やはりスブドーラだった。
「この状況下で、彼らの分まで薪を入手するのも非常に難しゅうございます。どこに左様な財源がありましょうや。まずは陛下と、そして我らの身を守ることが先決でございまするし──」
「わかっている。だが、貧民らに病が蔓延すればもう手がつけられなくなるは必至ぞ。今ですらドゥビウムたちは限界に近い。あれらが倒れればケントルムは即座に終わる」
「そ、それは……」
「できる限り、国庫を開け。今はそうするほかはない。ちがうか」
「は……」
さすがのスブドーラも口ごもった。
周囲を囲むように座った貴族連中も、困ったように互いの顔をそっと見やっている。ストゥルトは卓に両肘をつき、ひとわたり彼らを見回してからゆっくりと言った。
「そなたらも、今まで通りに薪や水を使うことはあきらめてくれ。もはやそんな事態ではない。私の後継者として学問所に通う息子らとそなたらが最優先には違いないが、なんとか節約を心掛けてほしい。ギリギリまでだ」
場はしんとして、ストゥルトの声を聞いている。
「民らを失ってなんの国ぞ。みんなして共倒れでは、アロガンスの屋台骨すら危うくなるぞ。ちがうか」
そうだ。シンケルスもよくそんなことを言っていたのを思い出す。
あの時には「なにをつまらぬことを」とばかりに聞き流していたような気がするが。今ならはっきりとわかるのだ。
国を成り立たせているのは、なにより人だ。人がいなくなった国は、もはや国ではない。
民らの命と生活をきちんと守れぬ王は、いずれ滅びる。それは様々な歴史が証明していることでもあるのだ。
スブドーラですら言葉をなくし、いまやじっとストゥルトを見つめる様子だった。その目には、今までならどこかしらに必ず残っていた侮蔑の色がほとんど混ざりこんでいないような気がした。
(……いや。これもまあきっと気のせいだろうよ)
ストゥルトはほんのわずかに苦笑して見せ、最後に言った。
「ここが正念場だ。ここが我慢のしどころよ。皆で力を合わせよう。そうしてこの国を救うのだ。なんとしても。そのために……どうか、たのむ」
そうして皆に深々と頭を下げた。
しかし、状況は配下のみなの寝食を忘れた努力をはるかに凌駕したのだ。
調査の結果、ストゥルトが予期していた通り、《偽物のインセク》つまりディヴェはずたぼろの格好のままケントルムの門を通り、あちこちをうろつきながら王宮へやってきたことがわかった。
少年を見たという平民らが言うには、彼はあちらこちらの井戸のそばで発見された。幸いにして、彼に直接触れた者はいなかった。見るからに不潔そうだったので、無理もない話ではある。
が、この謎の病に罹患する者はどんどん増えていった。
ストゥルトは事前に手を打って、街のはずれにある比較的大きな建物のいくつかを国庫の金で買い上げ、そこをこの疫病の患者の隔離場所とした。個別にあちこちで隔離していたのでは医者の手が追いつかなくなるためだ。
そこに運び込まれてくる患者は日々増え続けた。
昨日五人だったものが、今日はその二倍、三倍になる。やがてそれが昨日の十倍、二十倍と増えていく。
運ばれて来た患者たちは、ものの五日もすれば命を落とした。ひとりずつ墓を作ったり葬式をあげたりする余裕などすぐになくなり、疫病のもとをこれ以上ばらまかないため、遺体は街はずれで火葬されて大きな穴に一度に入れられ、埋められる日々が続いた。
街の中には、そのための不穏な臭いと灰がいつも舞っているように感じられた。火葬場からはずいぶんと離れた王宮にいてさえも、人を焼くにおいがここまで届くようだった。
人々はあっというまに疲弊していった。ほとんどの住民は、どうしても必要な用がある者以外は自宅に閉じこもり、しっかりと戸を閉じて他人との交流を断った。
街の中は不気味なほどに静まり返り、毎日のように開かれていた市の広場にも、がりがりに痩せた犬がちらほらと歩いているぐらいだという。
ドゥビウムには帝国じゅうから呼び集めた医師らをつけたが、それでもすぐに手は足りなくなった。
まるで悪夢のようだった。
いや、現場にいる者たちにとっては悪夢そのものだったろう。
太陽たる皇帝を戴いているはずのアロガンスの上を、この恐るべき疫病という黒雲がずっしりと覆いつくしているかのようだった。
それでも、数日おきに状況報告に来るドゥビウムが「もう無理です」と音を上げたことは一度もなかった。が、その顔を見れば状況は歴然としていた。恐らく何日も眠っていないのだろう。男の目は落ちくぼみ、頬はこけて白っぽく青ざめ、目の周りには真っ黒な隈ができていた。
まったく大げさでもなんでもなく、男は今にも倒れそうに見えた。
ストゥルトはしばしば見かねて言ったものだ。
「ドゥビウム、いいからお前は少し休め。そのままではもたんぞ。今、お前が倒れたのではどうしようもない。一日だけでも、助手のだれぞかに任せて──」
「いえ。自分が現場を離れるわけには参りませぬゆえ」
「しかし」
「やかましい。いいから来い!」
しまいにはフォーティスにそう怒鳴られ、医者はほとんど拉致されるようにして自分の寝床へ引きずられていった。
ほかの医療班の者らも同様の状態に追い込まれているとのことで、フォーティスとスブドーラに命じて息の長い活動ができるよう勤務を調整することになった。
こうした人的な問題もさることながら、金銭的な問題も次第に大きくなってきている。
先日ストゥルトが命じたとおり、人々は衛生のため生水を使わないように努力していた。だが、湯をわかすためには燃料が必要だ。裕福な家の者はいい。だが貧しい者らには、十分な薪を手に入れる術がないことが多いのである。
これには、ストゥルト自身がわずかな期間とはいえ奴隷の身に落ちたことが大いに役に立った。貴族連中がその事実に気づく前に、その問題に気づくことができたのだ。
「街の外郭に集まっている貧民街の者らには、王宮から沸かした湯を支給するなどの工夫が必要になるだろう」
御前会議の場でそう言い出したストゥルトを、貴族らは一様にぽかんとした顔で見つめたものだ。
大きな街の周囲には、往々にしてああした貧民街ができやすい。「街」とは言うが実際は棒切れに布を渡しただけの「家」とも言えないような居場所をつくって身を寄せ合っている、ぼろをまとった貧しい人々の集団だ。
物乞いをしたり体を売ったり、時にはかっぱらいをするなどしてしか生きることのできない人々。それでも荒野をうろつくよりはここにいた方が数倍マシなのだ。生きる可能性があるのは、どう考えても街の周囲なのだから。
「しかし、陛下」
まっさきに苦言を呈したのは、やはりスブドーラだった。
「この状況下で、彼らの分まで薪を入手するのも非常に難しゅうございます。どこに左様な財源がありましょうや。まずは陛下と、そして我らの身を守ることが先決でございまするし──」
「わかっている。だが、貧民らに病が蔓延すればもう手がつけられなくなるは必至ぞ。今ですらドゥビウムたちは限界に近い。あれらが倒れればケントルムは即座に終わる」
「そ、それは……」
「できる限り、国庫を開け。今はそうするほかはない。ちがうか」
「は……」
さすがのスブドーラも口ごもった。
周囲を囲むように座った貴族連中も、困ったように互いの顔をそっと見やっている。ストゥルトは卓に両肘をつき、ひとわたり彼らを見回してからゆっくりと言った。
「そなたらも、今まで通りに薪や水を使うことはあきらめてくれ。もはやそんな事態ではない。私の後継者として学問所に通う息子らとそなたらが最優先には違いないが、なんとか節約を心掛けてほしい。ギリギリまでだ」
場はしんとして、ストゥルトの声を聞いている。
「民らを失ってなんの国ぞ。みんなして共倒れでは、アロガンスの屋台骨すら危うくなるぞ。ちがうか」
そうだ。シンケルスもよくそんなことを言っていたのを思い出す。
あの時には「なにをつまらぬことを」とばかりに聞き流していたような気がするが。今ならはっきりとわかるのだ。
国を成り立たせているのは、なにより人だ。人がいなくなった国は、もはや国ではない。
民らの命と生活をきちんと守れぬ王は、いずれ滅びる。それは様々な歴史が証明していることでもあるのだ。
スブドーラですら言葉をなくし、いまやじっとストゥルトを見つめる様子だった。その目には、今までならどこかしらに必ず残っていた侮蔑の色がほとんど混ざりこんでいないような気がした。
(……いや。これもまあきっと気のせいだろうよ)
ストゥルトはほんのわずかに苦笑して見せ、最後に言った。
「ここが正念場だ。ここが我慢のしどころよ。皆で力を合わせよう。そうしてこの国を救うのだ。なんとしても。そのために……どうか、たのむ」
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