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第十章 逡巡
4 記憶分離
しおりを挟む「未来人が過去にいるのはまずいと言ったが。では古代人が未来に行くのはまずいのか。どうなんだ?」
シンケルスの腕がふっと緩んだ。
ゆっくりと振り向くと、男が絶句したままじっとこちらを見つめていた。
「……それはまったく前例がない。が、恐らく大いに問題があるだろうな」
「具体的にはどんな?」
「まず、お前があちらの教育基準についていけないという問題がある。むこうではすべての子どもがかなり幼いころから学習を始める。しかも多岐にわたって、総合的にだ。その年になってから、それらをいちから学ぶのはかなり厳しい。お前はさらに、あちらの『常識』から学ぶ必要もあるだろうし……恐らく、お前には生きづらすぎる」
「……そうなのか」
ストゥルトはがっかりして肩をおとした。
あちら世界はそんなにも厳しいものなのか。それにしても、幼少のうちからそこまで教育に力を入れているというのはストゥルトにとってかなり新鮮に響いた。なにしろこちら世界では、貴族以上の子弟以外ではありえない話である。
「お前が行くことであちら側にメリットがあるのは確かだが……いや、ダメだ」
「なんでだ?」
「下手をするとモルモット並みの扱いを受ける恐れすらある。絶対ダメだ」
「も、もる……? なんだって?」
「とにかくダメだと言ってるんだ」
肩をつかんで振り向かされると、男は怖い目になっていた。
「古代人としてのお前の貴重な遺伝情報を、やつらが見過ごすわけがない。下手をすると一生、医療研究センターで飼い殺しにされる。……絶対にダメだ。そんなことはさせん」
「いでんじょ……なんだって? さっきからお前、わかんないことばかり言ってるぞ。私にもわかるように話せよ!」
一応文句を言ってみたが、男は聞く耳を持たなかった。
「第一、お前のもとの体をどうするんだ。皇帝の座は? まさか放っていくつもりじゃなかろうな」
「ああ、それなんだが」
ストゥルトはそこでちょっと思わせぶりなしわぶきをした。
「考えたんだが、私の記憶を記録して、あっちにも入れておくことはできないのか? ほら、ディヴェたちがやっていたように」
男はさらに渋面になった。
「……できなくはないだろう。技術的にはな。しかし倫理上の問題が大きすぎる」
「リンリ上の問題ってなんだよ」
またもやよく分からない単語だ。
「つまり、『どちらがオリジナルなのか』という問題だ。今ここにいるお前と、皇帝としてアロガンスに残るお前。どちらが本物のお前だということになる?」
「は? そんなの、どっちでもいいんじゃないか?」
「いや。よくはない」
「なんでだよっ」
噛みついたところを、ぐいと腕を引かれて元通りに寝台に座らされ、真正面から見つめられた。
「もしも今のお前の意識をコピーして、あちらの体に入れることが可能だったとしよう。つまりお前というひとりの人間が、ここにいるお前と、アロガンスの帝都にいるお前の二人に分かれて存在することになるわけだ。……しかし、だとしたらあちらの気持ちは?」
「あっちの、気持ち……?」
「わからないか。あっちだってれっきとした人間であり、お前なんだ。俺がお前と未来に戻れば、彼は取り残されることになる。自分がそっちになったことを想像してみればわかるだろう」
「あ……」
「自暴自棄にならないか? 自分だけたった一人でこの時代に取り残されて、ひどく傷つくことにはならないか」
そういうことか。
やっと少しわかってきた。
「お前が単なる平民の男だというなら、多少の自暴自棄は許されるかもしれん。だがお前は皇帝だ。しかもこの、巨大な帝国アロガンスのだ。その立場にある人間が私的な理由であまりにも自暴自棄になったのでは、周囲と歴史への影響が大きくなりすぎる。つまり、未来にも影響がないとはいえなくなってしまう」
ストゥルトも思わず頭を抱えた。
「ううー……。そうか。難しいんだな」
「そうだろう」
「じゃ、ええっと……ある程度向こう側になるほうの記憶を消しておくとかではどうだ? お前と出会って、つまり……こうなってしまう前の私の記憶だけをいれておくとか──」
「それも選択肢としてはありだろうな。だが、大いに問題ありだ」
「なんで?」
男は軽く指先で額をおさえてから、再びこちらを見た。
「……つまり。記憶の中から俺に関するものだけを抜き出して消す、というのは技術的にも至難の業だ。となれば最低でもインセクになってしまってからのお前の記憶を消す、という話になる。だが、それではほとんど、以前の皇帝のままという話になるんじゃないか?」
「……あ」
そうか。
やっと少し呑み込めてきた。
以前の、あのぶくぶく太りまくって非常に醜く、政治向きのことにはてんで無関心で性格もひどいものだったストゥルト皇帝。第三者として見たあの姿に閉口し、心底がっかりしたことはまだまだ記憶に新しい。
自分はシンケルスとこうなったからこそ、今の自分になったのだ。
シンケルスを愛する以前の自分が皇帝にもどったのでは、またもやあの恐るべき「愚帝」が王座に再臨するだけではないか……!
シンケルスが「やっとわかったか」と言わんばかりにストゥルトの肩に手を置いた。
「インセクになり、俺と深く関わるようになってから、お前はかなり成長した。これはお世辞じゃなくそう思ってる」
「そ……そうか」
なにか鳩尾のあたりがこそばゆくなって、ストゥルトは無意識に尻をもぞもぞさせた。きっと今、自分はちょっと赤面している。
「俺は今のお前であればこそ、今後のアロガンスを任せられると思っている。そばにフォーティス閣下がついていてくだされば何の心配もいらぬとさえな。だが、昔のままのお前ではそこまでの安心はできない、と思う。……申し訳ないが」
「う、うーん……そうだよな……」
そこは納得せざるを得ない。
(でも……でも)
じゃあどうすればいいのだ。
自分が未来にいくのもダメ。シンケルスがここに残るにも、ハルマたちの強硬な反対にあうは必定。自分の記憶をふたつに分けて「ふたりのストゥルト」になるにも問題が山積していて無理そうだ。
それではやっぱり、自分がここに残ってシンケルスを未来へ送ってやるしか方法がないではないか……!
考えれば考えるほど、そうするしかないという結論がはっきりしてくるばかり。ストゥルトの喉は次第につまりはじめ、再び目元があやしくなってきた。
男はふ、と軽く息を吐くと、前からストゥルトを抱きしめた。
「わかっただろう。だから、俺はレシェントや《イヌワシ》のやつらを説得する。歴史に関与しないため、今後も細心の注意を払うと約束する」
「……うん」
「心配はいらん。必ずそうしてみせる。だから、待っていてくれ」
「うん……」
男の背中に腕を回して、ぎゅうっと服を握りしめる。
素直に頷いて見せながら、ストゥルトは考えていた。
そして、男が部屋を出て行ったあとでそっと《彼女》の名を呼んだ。
「……《アリス》。聞こえてるか」
《はい。なんでしょうか、ストゥルト様》
「ちょっと相談があるんだ。いいか」
ストゥルトは、天井から聞こえてくる女性の声にむかってぼそぼそと二、三言いうと黙り込んだ。
女性の声は少し沈黙したのち、言った。
《了解しました。レシェント様にそのようにお伝えいたします》と。
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