116 / 144
第十章 逡巡
3 とまどい
しおりを挟むその後、ストゥルトが落ち着くまで、シンケルスは彼を連れて私室に戻った。《イヌワシ》チームはまだ「キタハンキュウ」とやらでの作戦を続行中との連絡が入っており、《ペンギン》チームはこちらでしばし待機ということになったからだ。
ストゥルトはほとんどシンケルスに引きずられるようにして部屋に入った。
寝台に座らされ、ときどき呆然と顔をぬぐう。なにをどう考えたらよいかもわからない。きっと今の自分の顔は、みっともなく目や鼻を赤く腫らした状態だろう。
男はその間、ずっと隣から離れようとはしなかった。その手はずっと、ストゥルトの背中を撫でている。
少しだけ落ち着いてきたところで、あれこれと思いめぐらすうちに、ストゥルトは次第に違う感情に満たされ始めた。
(なんて、無様な──)
つまり、羞恥心だ。
なにをこんなに、みっともなく大泣きなんかしてるんだ。これじゃ、まるで子どもと同じじゃないか。
もう自分は、あのインセク少年の体をしているわけでもないのに。こんな風に身も世もなく他人の目の前で大泣きするなんて。皇帝たる者として恥ずかしいにもほどがある。
(わかっていたことじゃないか)
こいつらは未来人だ。今までのこいつらは、未来に戻れないと諦めていた。だからこそ、古代人である自分とこんな風に近しくなることにもさほど抵抗はなかったのだ。だが、今からはそうではない。
(帰れる、というなら帰った方がいいんだ。それが本当なんだから。体だって治してもらえる。昔の家族や、恋人にだって会える。……わかってる。わかってる、のに──)
頭ではこんなにもわかっていることを、心はどうしても素直に受け入れてくれない。なにひとつ思い通りにならない。そんな自分にイライラする。
考えるだけでまた目元があやしくなり、それにまたひどくいらつく。だが、体の震えも目から溢れる忌々しい液体もなかなか止まらない。
隣にいるシンケルスが、つらそうな目でじっとこちらを窺っている。
「……だから言うつもりはなかったんだ」
ストゥルトは無言で目を上げた。
つまり、自分がこうなってしまうことがわかっていたから、この男は黙っていたというわけか。まあ実際、ここまで取り乱してしまったのだからぐうの音もでないことだが。
「すまない……」
ぽつりと言ったら、男はさらに困った顔になった。
「お前が謝る必要はない。どの道、俺は残るつもりだった。あいつらのことは俺が説得するつもりだった。必ずな」
「でも、無理なんだろ」
投げ出すように言って、ついと立ち上がる。それに引っ張られるように男も立ち上がって後ろに立った。
「レシェントが言っていたじゃないか。《イヌワシ》たちが帰るときには、《ペンギン》チームのみんなも未来に帰る。そう決まったんだろうが。つまり上層部の命令なんだろ?」
「…………」
「アロガンスの軍隊でもし同じような命令違反をすれば、それは重大な罪だ。下手をすれば極刑だぞ。お前らの法律ではそうはならないのか?」
男は沈黙したままだ。
それはつまり、彼らにもそれなりの規律のようなものが存在し、違反すれば罰を受けるということではないか?
ストゥルトは手の甲でぐずっと鼻のあたりを擦った。
「すまなかった。私が変に取り乱してしまったから──」
男は黙って首を左右に振る。
「ごめん。……いいんだぞ。私に遠慮することはない。無理するな」
「……なに?」
「もともと、あっちに恋人もいたのだものな、お前は」
その単語を口から出すだけで、胸のあたりに針で刺したような痛みが走った。
「体も治れば、もとどおりにうまくいくかもしれないのだろう? 今度こそ、その女とちゃんと結婚したりさ──」
「いや。それはない」
「へ? どういうことだよ」
あまりにきっぱり言われて目を丸くする。
「過去がこれほど変化したのだから、未来は大いに変化している。恐らく俺が予想している以上にだ。彼女が同じように生まれて存在している可能性すら、非常に低い。調べてみたわけではないがな」
「そうなのか?」
「ああ。よしんば彼女が存在していたとしても、以前と同じような関係に戻れる保証はなにもない。すでに他に恋人がいたり、結婚したりしている可能性もある」
「へ、……へえ?」
そういうものなのか? よくわからないが。
「『時を越える』とは、そういうことだ。エージェントになり、この作戦に従事することになった時点で、俺はあちら世界のすべてを捨ててきた。いまさらそこに戻ろうとは思わない。恐らくあちらも、戻られては迷惑なはずなんだ」
「そ、そんな」
男は軽く吐息を落とした。ひどく静かな目をしている。まるで、曇った日の凪いだ海のようだと思った。
「前にも言った通りだ。俺はもう、彼女の顔もろくに思い出せなくなっている。こんな薄情者が戻ったところで、あちらも困るだけかもしれん。すでに決まった相手でもいればなおさらだ。……だから、もとの時代に戻る気はない、と言ったんだ。決してな」
「でも、それは……」
もしも本人を目の前にすれば、変わってくる感情ではないのだろうか?
シンケルスはこれほど魅力的な男なのだ。あちらの女性だって、彼をひと目見れば考えが変わることは大いにありうる。が、すでに結婚していたりすれば確かに迷惑に思うのかもしれない。わからないが。
様々に逡巡し、思考がとっ散らかってなにひとつまとまらない。
この男と離れるなんていやだ。絶対に自分は我慢できない。
でも、この男のためには未来に戻してやるほうがいいのに決まっている。
壁を向き、体の脇でふたつの拳を握りしめて立ち尽くしていると、背後から両手で胸元を抱きしめられた。
「ともかく。お前は王宮に戻らねば」
「シンケルス……」
「お前のオリジナルの体のほうがもたなくなる。どの道、あの体をあのままにはしておけない」
「それは……そうだが」
《イルカ》の設備を離れた肉体は、宿主のいないままいつまでも放ってはおけない。やがて命が消えてしまい、死体と同じ状態になるからだ。
だから自分は、あと二日のうちに自分の意識をあの体に戻してもらう必要がある。
(だが──)
そうなれば、きっとこの男とはお別れだ。
そして自分はアロガンスの皇帝として、あの国を運営していかねばならない。自分の優秀な後継者を育て、アロガンスが少しでも長く国として栄えるように下地を作ってやらねばならないのだ、未来のために。
(未来……)
そこでふと、ストゥルトはとあることを思いついた。
胸元にあるシンケルスの腕にそっと手をあて、訊ねる。
「私が……行くのはどうなんだ?」
「なに?」
「未来人が過去にいるのはまずいと言ったが。では古代人が未来に行くのはまずいのか。どうなんだ?」
シンケルスの腕がふっと緩んだ。
ゆっくりと振り向くと、男が絶句したままじっとこちらを見つめていた。
0
お気に入りに追加
148
あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。


身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
告白ごっこ
みなみ ゆうき
BL
ある事情から極力目立たず地味にひっそりと学園生活を送っていた瑠衣(るい)。
ある日偶然に自分をターゲットに告白という名の罰ゲームが行われることを知ってしまう。それを実行することになったのは学園の人気者で同級生の昴流(すばる)。
更に1ヶ月以内に昴流が瑠衣を口説き落とし好きだと言わせることが出来るかということを新しい賭けにしようとしている事に憤りを覚えた瑠衣は一計を案じ、自分の方から先に告白をし、その直後に全てを知っていると種明かしをすることで、早々に馬鹿げたゲームに決着をつけてやろうと考える。しかし、この告白が原因で事態は瑠衣の想定とは違った方向に動きだし……。
テンプレの罰ゲーム告白ものです。
表紙イラストは、かさしま様より描いていただきました!
ムーンライトノベルズでも同時公開。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる