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第七章 転機
6 昔がたり(1)
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翌日。
人払いした皇帝の私室に、ストゥルトはとある人物を呼んでいた。
「わざわざのお運び感謝します、フォーティス師範。どうぞお楽になさってください」
「は。有難う存じます」
きりりと頭を垂れたのはいかつい初老の武人である。早朝の稽古の折に、訪問するようこっそりと伝えておいたのだ。
「ささ、どうぞこちらへ」
「いえ。自分はここで」
何度か着座を勧めたのだが、フォーティスは頑として椅子に座ろうとはせず、床に片膝をついたままの姿勢だった。ストゥルトは遂にあきらめて用件に移った。
「話というのはほかでもないこと。シンケルスが不在の間、どうか私の護衛についてはいただけないでしょうか」
「自分が、にございますか──」
男は一瞬わずかに目を見開いたが、すぐにいつもの平静な顔に戻った。
「しかし。近衛隊は副隊長がしっかりと指揮しておるやに見えますが」
「それとこれとは話が別だ。常にそばにいて私を守る、信頼に足る者がどうしても欲しいのだ。そのほか、そなたの貴重な長年の経験にもとづく有用な助言も欲しい。なにしろ私はまだまだ政務について経験も見識も不足であるゆえ──」
男はちょっと思案するようにストゥルトの表情を窺った。
「陛下はもしや、シンケルスがもう戻らぬと思し召しにございましょうや」
「いや、それはない!」
つい声が大きくなって立ち上がりかけてしまい、ストゥルトはこほんと咳払いをして座り直した。
アロガンス帝国の人々にとって、シンケルスは例の奴隷の少年とともにあの《神々の海》へ出かけて行って行方不明になったきりなのだ。いまだに生死も不明だし、ずいぶんと時間もたってしまったことでもあり、生存は絶望視されているようである。
あのあと、自分とシンケルスを途中まで送ってくれたウラム船長をはじめとする船員たちも、小さい船に分かれてともに嵐に巻き込まれた調査隊の面々も、幸いにも無事に戻って来たという。行方不明になったのは、奴隷少年インセクとシンケルスのみだったのだ。
それを聞いて、内心ストゥルトはほっとしていた。自分たちのせいであの気のいい男たちの命が失われていたら、きっと心穏やかではなかったはずだからだ。自分たちふたりは、どうやらあの嵐の中、海の中に放り出されたのだろうと思われているらしい。生存が絶望視されるのも当然だった。
ストゥルトはきっぱりと言い放った。
「シンケルスは生きている。近いうちに必ず戻ってくるであろう」
「…………」
「あっ。いや──」
フォーティスが怪訝な目でじっとこちらを見つめているのに気づいて、ストゥルトは自分が失言したことを悟った。ちょっと慌ててしまう。
「あ、あの男のことだからな。必ず生きているはずだ。あの男がそんなに簡単に死ぬものか。私はそう信じている。だからつまり……心配せずともよいと言いたかったんだ、私は」
「……左様にございますな」
「で? どうなんだ。シンケルスが戻るまでの間だけでも、私の護衛になってもらうわけにはいかないか。もちろん、剣の指南も今まで通りにしていただきたいのだが」
自分では気づいていなかったが、最初こそ丁寧だった言葉遣いがいつもどおりのぞんざいなものに戻ってきてしまっている。フォーティスがそれに気づかぬはずはなかったが、素知らぬ顔で聞き流してくれていた。
「なぜ自分ごときを? すでに斯様な老体の身。一線を退いた身にございまするぞ」
「ほかならぬシンケルスが、そなたならば信頼に足ると断言していた。文武両道、人格、実力ともこの帝国でそなた以上の男はおらぬと。さらに、あやつにとってそなた以上の盟友はおらぬとな。それ以上の推薦は望めぬ。この私がそう判断したのだ。それでは足りぬか」
「……いえ。滅相もなきこと」
フォーティスの錆びたような鋭い視線がふっと丸みをおびたようだった。
「そうでしたか。あの者がそのようなことを」
「……ああ」
こくりと頷いた瞬間、きりっと胸の奥に痛みを覚えた。
シンケルスとの連絡は、あれ以来途絶えたままだ。いや、戻ってくると信じている。だってあいつが自分の口で、きっと戻ってくると約束したのだから。
だがこうして話していると、まるでもうあの男が死んでしまったかのようではないか。少なくとも目の前の御仁は、そう言う場合の覚悟をすでに決めているように見えてしまう。
「……生きているとも。シンケルスは、生きている──」
「左様。もちろんにございますとも」
男の声は深くて低かった。ストゥルトは思わず、膝の上で拳を強く握った。
フォーティスはそんな皇帝をしばしじっと見つめていたが、ふっと体の力を抜いて一歩こちらに近づいた。
「もし、お許し願えるならばにございまするが」
「ん……?」
「お話させて頂いても構わぬでしょうか。ちょっとした……昔話を」
「昔話……?」
「はい。あの者と自分が、初めて会ったころの昔話にございます」
(……!)
ストゥルトは目を瞠った。
それはかつてのシンケルスと、フォーティスの物語だった。
人払いした皇帝の私室に、ストゥルトはとある人物を呼んでいた。
「わざわざのお運び感謝します、フォーティス師範。どうぞお楽になさってください」
「は。有難う存じます」
きりりと頭を垂れたのはいかつい初老の武人である。早朝の稽古の折に、訪問するようこっそりと伝えておいたのだ。
「ささ、どうぞこちらへ」
「いえ。自分はここで」
何度か着座を勧めたのだが、フォーティスは頑として椅子に座ろうとはせず、床に片膝をついたままの姿勢だった。ストゥルトは遂にあきらめて用件に移った。
「話というのはほかでもないこと。シンケルスが不在の間、どうか私の護衛についてはいただけないでしょうか」
「自分が、にございますか──」
男は一瞬わずかに目を見開いたが、すぐにいつもの平静な顔に戻った。
「しかし。近衛隊は副隊長がしっかりと指揮しておるやに見えますが」
「それとこれとは話が別だ。常にそばにいて私を守る、信頼に足る者がどうしても欲しいのだ。そのほか、そなたの貴重な長年の経験にもとづく有用な助言も欲しい。なにしろ私はまだまだ政務について経験も見識も不足であるゆえ──」
男はちょっと思案するようにストゥルトの表情を窺った。
「陛下はもしや、シンケルスがもう戻らぬと思し召しにございましょうや」
「いや、それはない!」
つい声が大きくなって立ち上がりかけてしまい、ストゥルトはこほんと咳払いをして座り直した。
アロガンス帝国の人々にとって、シンケルスは例の奴隷の少年とともにあの《神々の海》へ出かけて行って行方不明になったきりなのだ。いまだに生死も不明だし、ずいぶんと時間もたってしまったことでもあり、生存は絶望視されているようである。
あのあと、自分とシンケルスを途中まで送ってくれたウラム船長をはじめとする船員たちも、小さい船に分かれてともに嵐に巻き込まれた調査隊の面々も、幸いにも無事に戻って来たという。行方不明になったのは、奴隷少年インセクとシンケルスのみだったのだ。
それを聞いて、内心ストゥルトはほっとしていた。自分たちのせいであの気のいい男たちの命が失われていたら、きっと心穏やかではなかったはずだからだ。自分たちふたりは、どうやらあの嵐の中、海の中に放り出されたのだろうと思われているらしい。生存が絶望視されるのも当然だった。
ストゥルトはきっぱりと言い放った。
「シンケルスは生きている。近いうちに必ず戻ってくるであろう」
「…………」
「あっ。いや──」
フォーティスが怪訝な目でじっとこちらを見つめているのに気づいて、ストゥルトは自分が失言したことを悟った。ちょっと慌ててしまう。
「あ、あの男のことだからな。必ず生きているはずだ。あの男がそんなに簡単に死ぬものか。私はそう信じている。だからつまり……心配せずともよいと言いたかったんだ、私は」
「……左様にございますな」
「で? どうなんだ。シンケルスが戻るまでの間だけでも、私の護衛になってもらうわけにはいかないか。もちろん、剣の指南も今まで通りにしていただきたいのだが」
自分では気づいていなかったが、最初こそ丁寧だった言葉遣いがいつもどおりのぞんざいなものに戻ってきてしまっている。フォーティスがそれに気づかぬはずはなかったが、素知らぬ顔で聞き流してくれていた。
「なぜ自分ごときを? すでに斯様な老体の身。一線を退いた身にございまするぞ」
「ほかならぬシンケルスが、そなたならば信頼に足ると断言していた。文武両道、人格、実力ともこの帝国でそなた以上の男はおらぬと。さらに、あやつにとってそなた以上の盟友はおらぬとな。それ以上の推薦は望めぬ。この私がそう判断したのだ。それでは足りぬか」
「……いえ。滅相もなきこと」
フォーティスの錆びたような鋭い視線がふっと丸みをおびたようだった。
「そうでしたか。あの者がそのようなことを」
「……ああ」
こくりと頷いた瞬間、きりっと胸の奥に痛みを覚えた。
シンケルスとの連絡は、あれ以来途絶えたままだ。いや、戻ってくると信じている。だってあいつが自分の口で、きっと戻ってくると約束したのだから。
だがこうして話していると、まるでもうあの男が死んでしまったかのようではないか。少なくとも目の前の御仁は、そう言う場合の覚悟をすでに決めているように見えてしまう。
「……生きているとも。シンケルスは、生きている──」
「左様。もちろんにございますとも」
男の声は深くて低かった。ストゥルトは思わず、膝の上で拳を強く握った。
フォーティスはそんな皇帝をしばしじっと見つめていたが、ふっと体の力を抜いて一歩こちらに近づいた。
「もし、お許し願えるならばにございまするが」
「ん……?」
「お話させて頂いても構わぬでしょうか。ちょっとした……昔話を」
「昔話……?」
「はい。あの者と自分が、初めて会ったころの昔話にございます」
(……!)
ストゥルトは目を瞠った。
それはかつてのシンケルスと、フォーティスの物語だった。
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