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第七章 転機
1 視線
しおりを挟むそこからの日々は長かった。いや実際はたいした日数でもなかったけれども。
久しぶりに戻った王宮は、笑ってしまうほどに以前の通りだった。が、多少は変わったこともある。その主なものは、周囲の人々の皇帝に対する態度だった。
「帝国の太陽に朝のご挨拶をもうしあげます」
「本日もご機嫌うるわしゅう」
「朝餉の前にいつもの稽古をなさいますか。フォーティスはすでに中庭で待機させてございますが」
ストゥルトは寝床の中で、しばらく目をぱちくりさせていた。みんな、なんとなく声と表情が明るく見える。前に本当の自分が皇帝であったときには、みんなもっと控えめで、どことなく恐る恐る自分に話しかけていたような気がするのだが。
やっぱりそこは、あのインセク少年の為人によるものだろうか。
ちくりとどこかが痛む気がしたが、ストゥルトはそれをかみ殺した。
わかっている。あちらのほうが出来のいい皇帝だった。それは間違いないのだ。へんな嫉妬をするほうが間違っている。わかっている……。
ともあれ、いつまでもこうしているわけにもいかない。ストゥルトは「ああ、うん」と曖昧な返事をして寝台からおりた。
すぐに側付きの召し使いたちが飛んできて、着替えや朝の支度を始めてくれる。黙って突っ立っていたらどんどん着替えさせられ、顔の手入れをされて「お支度が整いましてございます」「さあ、参りましょう」と中庭へ連れ出された。
かなりの早朝である。
冬場とはいえ、まだ朝日も昇らぬほどの時間帯だ。すでにあちらこちらから鳥の声はしているが、王宮の中も町の人々も、まだ眠っている者が多そうな頃あいである。
篝火に照らされた中庭に、武術師範フォーティスが膝をついた姿勢で頭を垂れている姿があった。
「帝国の太陽にご挨拶申し上げます」
小姓のひとりが、さっと脇にやってきてひざまずき、練習用の木剣を差し出してくる。ストゥルトは戸惑いながらもそれを取り上げてフォーティスを見た。
「早いな、フォーティス」
「左様なことは。いつも通りにございますれば」
年配とは言えまだまだじゅうぶん偉丈夫と呼んでよい体躯の男は、白いものの混ざった長い髪をきつく後ろで縛り上げている。全身が、いかにも武人という落ち着いた気魄に満ちている。
(困ったな……)
ストゥルトは正直、困り果てている。あのインセク少年のことだ、きっと毎日、誠心誠意まじめに稽古に取り組んでいたに違いない。最初から「筋がいい」と褒められてもいたし、自分が彼と同じようにできるとは到底思えなかった。
手にした木剣をなんとなく玩ぶようにしながらぼんやりしていたら、フォーティスの白くなりかけた眉がぴくりと上がった。
「いかがなさいましたか、陛下」
「あ、いや……その。ちょっと今朝は体調がいまひとつで」
もごもごと口の中でそんなことを言ったら、フォーティスの眉間に怪訝そうな皺が寄った。
「それはいけませぬな」
(あ。まずい)
言ってしまってから後悔した。あの真面目なインセク少年だったら、その程度のことで稽古を休んだりしなかっただろう。これはまずい。色々とまずい。フォーティスは鋭敏な人物だ。この程度のことでも入れ替わりが見破られる恐れがある。
「いや……そう、す、素振りだ。今日は剣の素振りだけにしようかと。せっかくここまで来たのに、なにもせぬのは気持ちがよくないしな」
だが、この男と手合わせなどしてしまったら、もっともっとボロが出るに決まっている。せめて素振りならなんとかなるかと思った。フォーティスはわずかに目を細めてじっとストゥルトを観察する様子になった。が、心臓が二つほど打ったあとにうなずいた。
「……左様にございますか。それは結構にございます。が、どうぞご無理だけはなさいませぬよう」
「う、うん」
ストゥルトは剣を構えると、以前教えてもらった通りの姿勢を思い出しながらどうにかこうにか素振りを始めた。相変わらずのフォーティスの鋭い視線が気になるが、どうしようもない。むしろそうやって集中力を欠けば、余計に無様な動きになりそうになる。
どうか勘づかないでくれと祈るような気持ちで、そのままなんとか百回の素振りを終えた。昔、太っていた頃よりはずっとましだとは言え、やっぱり息が上がってしまっている。
と、すぐに侍従たちが布や飲み物を手に飛んできた。フォーティスが目だけで呼んだようである。
「どうやら今朝はすこぶるご気分がお悪いご様子。すぐにご典医をお呼び申し上げよ」
「ははっ。すぐに」
「えっ。いや待て!」
小姓たちがすぐに飛んで戻ろうとするのを、ストゥルトは慌てて止めた。
「いい! それはいい!」
「しかし──」
フォーティスがやや困った目でこちらを見つめた。魂の底の底まで見通しそうな、鋭くも真心のこもった視線である。不意に、あのシンケルスが「かのお方ならば信用できる」と言ったのを思い出した。かの男にそう言わせるだけのことはある、と変に納得する。
それでふと、もう一人の「信用できる」男のことを思い出した。
「そっ、そうだ。ええと……ドゥビウムという医者がおろう。医者ならドゥビウムを召喚んでくれ。今日はあの者に診てもらいたい」
「えっ……ドゥビウムにございますか?」
侍従の男は不思議そうに首をかしげた。無理もない。あの者は基本的に下々の兵士やら召し使いらを診る医者だ。高貴な貴族や皇族を診るのは、この宮では専門のご典医の仕事なのである。
ストゥルトは必死で頭の中にいろんな言い訳を展開させ、組み合わせた。
「なかなかよい医者だという評判を聞いているのでな。兵らの信頼も厚いと言うではないか。一度診てもらいたいものよと思っていたのだ。……構わぬであろう?」
「は。それでは早速に」
侍従はすぐに頭を下げると、急いで中庭から出て行った。
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