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第六章 帰還
15 約束
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「ああ、もういい。大事ない」
部屋の奥から青年の声がした。
……皇帝の姿になった、インセク少年の声だった。
わけもわからぬまま人払いされて、兵士らがちょっと首をかしげながらも三々五々退室していく。扉が閉じられたのをしっかり見届けてから、シンケルスはようやくインセク少年に対して姿を現してみせた。ストゥルトも同様だ。
「シンケルス……! 皇帝陛下も! よくぞご無事で──」
夜着を着ただけの姿の青年が、裸足でこちらへ駆け寄ってくる。
(な、なんだと……?)
灯火に照らされたその姿を見て、ストゥルトは驚いた。
いまや「皇帝ストゥルト」は、以前とは比べものにならないほどに痩せていた。いや、昔があまりにもひどかっただけの話で、じゅうぶんに健康的な範囲での痩せ方である。「すらりとした痩身」とでもいうべきか。
日々の鍛錬の成果もあって、体はどこもかしこもぴしりと締まり、ほどよく筋肉を蓄え、均整のとれた体つきになっている。さほど明るくないためはっきりとは見えないが、頬や額にできていた醜い吹き出ものの痕も、急に痩せたための皮のたるみも、ずいぶんと軽減してきれいになっているようだ。
(母上……)
帝国随一の美妃と謳われた亡き母の面影をそこに見て、ストゥルトは妙な感慨にひたった。確かに美しい。自分はきちんとした生活さえしていれば、それなりに容姿のととのった男だったのだと再認識させられてしまう。
ところで、驚いたのはストゥルトだけではなかったようだ。インセク少年のほうも、ぽかんと口を開けてこちらを凝視している。
「こ……これは。思っていた以上に──」
「そうだな。そっくりだ」
答えて思わず苦笑してしまった。インセク少年のほうでも、控えめにくすっと笑っている。これならば、いつのまにかすり替わっていてもほとんど怪しまれることはないだろう。
「さあ。あまり時間がないぞ。急げ」
「あ、そうだな。急ぐぞ、インセク」
「はっ」
そうして二人は、急いで着ているものを交換した。最後に忘れずに例のペンダントも交換する。インセクのものは赤い柘榴石の色のもの。自分のものはインセク少年の瞳に合わせたような紫水晶の紫色だ。皇帝のペンダントの色が急に変わっていることを怪しまれないためだった。
支度がすべて終わったところで、シンケルスが最終確認する。インセク少年はもう一度、なにか忘れたものがないかを確認した。
「いいようだな」
「はい」
「では……行こうか」
「あ……あの」
もう行ってしまいそうにする二人を思わず呼び止めてしまってから、ストゥルトは後悔した。何をしているんだ、自分は。こんな忙しいときに──。
だが、このまま二人を見送るのはなにかひどくつらかった。
先ほどは、せかされてなし崩しに、挨拶もできずにレシェントと別れてきた。
もしかしたらシンケルスとも、これが最後になるかもしれないのだ。……いや、彼ならきっと戻ってきてくれるとは信じているけれど。
だが、胸の中がきりきりと痛むのが止められない。
このまま別れたくない。
もしかしたら、このままもう二度と会えなくなる可能性だってあるのだ。
彼はこの世界の人間ではない。どう逆立ちをしてみたところで、ここは彼にとっての「家」にはなり得ない。彼にとっての帰る場所、居場所は未来にしか存在しないのだから。
(でも──)
考えれば考えるほど、胸の痛みはひどくなる。
が、ストゥルトはぎゅっと唇を噛んで顔を上げた。
「……いや。すまない。行ってくれ。……はやく」
言って「さがれ」を意味する手振りをして見せる。顔を見られたくなくて、もう片方の手で顔を覆った。
シンケルスはほんの一瞬ストゥルトを振り返って見ていたが、ひょいとインセク少年の耳に口を寄せた。
「すまん。少し向こうを向いていてくれ」
「あ、……はい」
インセクはすぐにくるりと壁の方を向く。生真面目な少年だ。ご丁寧に耳までふさいでいる。
即座にシンケルスが大股にこちらに近づいて来た。と思ったらストゥルトの体はもう、その胸に思いきり抱きしめられていた。
「わぷっ? ……な、なにを──」
「すぐ戻る。待っていてくれ」
きゅん、と胸が高鳴った。彼の背中に恐る恐る手を回し、自分も思いきり抱きしめ返す。そのまま彼の肩に顔をうずめた。
自然に後頭部に彼の手が添えられて、そっと撫でられたらもうダメだった。
目元がうわっと怪しくなり、声がひび割れる。
「……絶対だぞ。すぐだぞっ……」
「ああ。約束する」
少し体を離して見上げると、シンケルスの瞳が灯火の光を跳ね返していた。いつもの誠意と男気に満ちた男の瞳。それが真っすぐに自分を見ている。自分の今の顔をうつしている。ひどく不安そうな青年の顔だ。
と、男の顔が近づいてきたと思ったら、もう口づけされていた。
「ん……っ」
ストゥルトは一瞬体をすくませたが、すぐに唇を開いてそれを受けた。自分から進んで彼の舌に吸い付き、舌を絡めあわせる。
「ん……ん」
もっと。
もっとだ。
しかし、男は遂にストゥルトの両肩を掴んで、ゆっくりと体を離した。いつもの無表情顔のくせに、その手がひどく「名残惜しい」と叫んでいるような気がした。
だがそれは自分だって同じだった。ストゥルトの手はいつまでもみじめったらしく彼の服の裾を握りしめている。シンケルスの手がその上にかかって引き離してきた。が、それはひどく優しい手だった。
「……もう行かなくては」
うん、と言うだけのことにこんなに力を使ったのは初めてだった。男の厳しい瞳のなかに、ふっとあの懐かしいような温かさが滲んだ。
「き、気をつけてな。……インセクのこと、よろしく頼むぞ」
「ああ」
男はひとつうなずくと、最後にストゥルトの額にちゅっと軽く口づけ、遂に身を翻した。
ストゥルトが「どうも目が冴えて眠れない、だれかに葡萄酒を運ばせてくれ」とかなんとか言いながら扉を開けたのに合わせて、透明化したふたりはするりとその間から出て行った。
その姿はもう、ストゥルトの目にも見えなくなっていた。
部屋の奥から青年の声がした。
……皇帝の姿になった、インセク少年の声だった。
わけもわからぬまま人払いされて、兵士らがちょっと首をかしげながらも三々五々退室していく。扉が閉じられたのをしっかり見届けてから、シンケルスはようやくインセク少年に対して姿を現してみせた。ストゥルトも同様だ。
「シンケルス……! 皇帝陛下も! よくぞご無事で──」
夜着を着ただけの姿の青年が、裸足でこちらへ駆け寄ってくる。
(な、なんだと……?)
灯火に照らされたその姿を見て、ストゥルトは驚いた。
いまや「皇帝ストゥルト」は、以前とは比べものにならないほどに痩せていた。いや、昔があまりにもひどかっただけの話で、じゅうぶんに健康的な範囲での痩せ方である。「すらりとした痩身」とでもいうべきか。
日々の鍛錬の成果もあって、体はどこもかしこもぴしりと締まり、ほどよく筋肉を蓄え、均整のとれた体つきになっている。さほど明るくないためはっきりとは見えないが、頬や額にできていた醜い吹き出ものの痕も、急に痩せたための皮のたるみも、ずいぶんと軽減してきれいになっているようだ。
(母上……)
帝国随一の美妃と謳われた亡き母の面影をそこに見て、ストゥルトは妙な感慨にひたった。確かに美しい。自分はきちんとした生活さえしていれば、それなりに容姿のととのった男だったのだと再認識させられてしまう。
ところで、驚いたのはストゥルトだけではなかったようだ。インセク少年のほうも、ぽかんと口を開けてこちらを凝視している。
「こ……これは。思っていた以上に──」
「そうだな。そっくりだ」
答えて思わず苦笑してしまった。インセク少年のほうでも、控えめにくすっと笑っている。これならば、いつのまにかすり替わっていてもほとんど怪しまれることはないだろう。
「さあ。あまり時間がないぞ。急げ」
「あ、そうだな。急ぐぞ、インセク」
「はっ」
そうして二人は、急いで着ているものを交換した。最後に忘れずに例のペンダントも交換する。インセクのものは赤い柘榴石の色のもの。自分のものはインセク少年の瞳に合わせたような紫水晶の紫色だ。皇帝のペンダントの色が急に変わっていることを怪しまれないためだった。
支度がすべて終わったところで、シンケルスが最終確認する。インセク少年はもう一度、なにか忘れたものがないかを確認した。
「いいようだな」
「はい」
「では……行こうか」
「あ……あの」
もう行ってしまいそうにする二人を思わず呼び止めてしまってから、ストゥルトは後悔した。何をしているんだ、自分は。こんな忙しいときに──。
だが、このまま二人を見送るのはなにかひどくつらかった。
先ほどは、せかされてなし崩しに、挨拶もできずにレシェントと別れてきた。
もしかしたらシンケルスとも、これが最後になるかもしれないのだ。……いや、彼ならきっと戻ってきてくれるとは信じているけれど。
だが、胸の中がきりきりと痛むのが止められない。
このまま別れたくない。
もしかしたら、このままもう二度と会えなくなる可能性だってあるのだ。
彼はこの世界の人間ではない。どう逆立ちをしてみたところで、ここは彼にとっての「家」にはなり得ない。彼にとっての帰る場所、居場所は未来にしか存在しないのだから。
(でも──)
考えれば考えるほど、胸の痛みはひどくなる。
が、ストゥルトはぎゅっと唇を噛んで顔を上げた。
「……いや。すまない。行ってくれ。……はやく」
言って「さがれ」を意味する手振りをして見せる。顔を見られたくなくて、もう片方の手で顔を覆った。
シンケルスはほんの一瞬ストゥルトを振り返って見ていたが、ひょいとインセク少年の耳に口を寄せた。
「すまん。少し向こうを向いていてくれ」
「あ、……はい」
インセクはすぐにくるりと壁の方を向く。生真面目な少年だ。ご丁寧に耳までふさいでいる。
即座にシンケルスが大股にこちらに近づいて来た。と思ったらストゥルトの体はもう、その胸に思いきり抱きしめられていた。
「わぷっ? ……な、なにを──」
「すぐ戻る。待っていてくれ」
きゅん、と胸が高鳴った。彼の背中に恐る恐る手を回し、自分も思いきり抱きしめ返す。そのまま彼の肩に顔をうずめた。
自然に後頭部に彼の手が添えられて、そっと撫でられたらもうダメだった。
目元がうわっと怪しくなり、声がひび割れる。
「……絶対だぞ。すぐだぞっ……」
「ああ。約束する」
少し体を離して見上げると、シンケルスの瞳が灯火の光を跳ね返していた。いつもの誠意と男気に満ちた男の瞳。それが真っすぐに自分を見ている。自分の今の顔をうつしている。ひどく不安そうな青年の顔だ。
と、男の顔が近づいてきたと思ったら、もう口づけされていた。
「ん……っ」
ストゥルトは一瞬体をすくませたが、すぐに唇を開いてそれを受けた。自分から進んで彼の舌に吸い付き、舌を絡めあわせる。
「ん……ん」
もっと。
もっとだ。
しかし、男は遂にストゥルトの両肩を掴んで、ゆっくりと体を離した。いつもの無表情顔のくせに、その手がひどく「名残惜しい」と叫んでいるような気がした。
だがそれは自分だって同じだった。ストゥルトの手はいつまでもみじめったらしく彼の服の裾を握りしめている。シンケルスの手がその上にかかって引き離してきた。が、それはひどく優しい手だった。
「……もう行かなくては」
うん、と言うだけのことにこんなに力を使ったのは初めてだった。男の厳しい瞳のなかに、ふっとあの懐かしいような温かさが滲んだ。
「き、気をつけてな。……インセクのこと、よろしく頼むぞ」
「ああ」
男はひとつうなずくと、最後にストゥルトの額にちゅっと軽く口づけ、遂に身を翻した。
ストゥルトが「どうも目が冴えて眠れない、だれかに葡萄酒を運ばせてくれ」とかなんとか言いながら扉を開けたのに合わせて、透明化したふたりはするりとその間から出て行った。
その姿はもう、ストゥルトの目にも見えなくなっていた。
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