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第六章 帰還
5 苦悩
しおりを挟む「もう……よく思い出せないんだ。彼女の顔すら」
「え──」
「今ここにいる俺にとっては、すでに十年以上も前の話だ。そこからあまりにも……あまりにも多くのことがありすぎた」
男はそれ以上なにも言わず、片手で目元を覆うようにして頭を抱えた。
ストゥルトはしばらく、そんな男を黙って見ていた。こんなに苦しそうな男を見るのは初めてだった。
それからそろそろと立ち上がると、男のすぐ脇に近づいた。
ゆっくりと両腕で彼の頭を抱きしめ、頭頂部に顎を乗せる。
ときどきこの男がやってくれていたように、頭をぽすぽす叩いてやった。まるで子どもにするように。
「もういいだろ。今はここにいるんだから、お前は」
返事はない。
「それに……その。わ、私が……いるんだからさ」
と、男の腕がゆっくりと上がってきてストゥルトの腕をぎゅっと握った。
「そう、だな……。すまない」
ストゥルトは少し腕を緩めてシンケルスの顔を見た。男は相変わらず厳しい顔をしていたが、いつになく疲れたように見えた。それに背中を押されたような気になって、ストゥルトはそっとその頬に唇をくっつけた。
男はハッとしたようにこちらを見たが、すぐにストゥルトの後頭部に腕を回してぐいと引き寄せ、今度はしっかりと唇を合わせた。
唇ばかりでなく、舌も絡め合わせる深いくちづけになる。
「ん、んんっ……!」
あっという間に翻弄されそうになって、ストゥルトは必死で自分の唇をひっぺがした。
「いや、あのなあ!」
相手の体を強引に押しのけて睨みつける。
「お前、何も言わずにあれこれけしからん真似をしてきてるが。一応確認していいか」
「なにをだ」
「って、だから!」
ストゥルトはぶんむくれて唇を尖らせた。
「今まで私とお前との間でそれらしい会話が一度たりともあったのか? え? 一度たりとも!」
「それらしい会話とは?」
「だからっ。……わ、私は今まで…………と思ってたから」
「なんだって?」
肝心なところがひどいぼそぼそ声になってしまって、自分で自分に舌打ちする。
「よく聞こえんぞ」
「だからあっ! お前が愛してるのはあいつだと思ってたんだってば。私は、ずっと!」
「あいつとは?」
ストゥルトは一瞬うっと言葉に詰まった。
こいつ、本当の本当にわざとじゃないんだろうな?
「イ……インセクだよ。決まってるだろ」
青年はもう真っ赤になっている。
もういやだ、この男。
どうしてこう、こちらが一から十まで言わされなくてはならないのか。
だが男は男で、完全に不審げな顔になっていた。
「……どうしてそうなる」
じっと見つめられて、なんだか体じゅうが火照りだした。それに比例するように、目線はどんどん落ちていく。
「だって……お前が好きだったのはあいつなんだろ? だからあんなにあいつの体を大事に守って、ときどき我慢がきかなくなっては──け、けしからんこともしてきたんだろうが!」
男は沈黙し、ますます妙な顔になった。
「……そんなつもりはなかったが」
「は?」
「確かにインセク少年の体は大事だ。当然だろう。こんなことに巻き込まれて皇帝と中身が入れ替わってしまったんだぞ。彼にはなんの落ち度もないのにだ」
「それはそうだが──」
「彼は彼なりに大いに悩み、自分の身や一族の将来のことを案じてもいた。いつかはもとに戻りたいとも希望していた。お前だって聞いていたはずだ。彼は自分の一族の再興を願っていると」
「あー。うん。それは聞いたな……って、んわっ!?」
ストゥルトは面食らった。いきなり男の腕がストゥルトの体を抱き上げ、自分の膝に横座りにさせてきたのだ。
「なっ……なにしてるんだよっ、お前は!」
「この際、ちゃんと確認しておこう。こっちを向け」
「は? 偉そうに命令するなってば。な、なんなんだよ……」
きつく咎めてやろうと思ったのに、語尾はしおしおと弱気な小声になってしまう。
がっちりと腰を押さえこまれて動けない。男の手が触れたところ全部が燃えあがるように熱く感じる。
「ちゃんと聞けよ」
「な……なんだよ」
すぐ目の前、真正面から、灰色の瞳にじっと目を覗き込まれてまた胸がばくばく言いだす。もう何かが今にも飛び出してきてしまいそうだ。
「……俺が愛しているのは、お前だ」
ストゥルトはぽかんと口を開け、目もこれ以上できないほどに見開いた。
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