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閑話
揺蕩う夢
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《バカ野郎……バカ野郎》
遠くで少年がすすり泣く声がする。
《こうなると思ってたんだ。なんでついて来たんだよ。だから大バカだって言うんだよ……》
そう言うなよ、と男は思う。
あの時、あの場でお前についていかない選択肢など自分にはなかった。《イルカ》であの口の悪い同僚とぼんやりと情報収集をしながら座っているなど。そんなことは到底不可能だったのだ。
……お前を、ひとりで行かせるなんて。
そんなこと、思いもよらないに決まっている。
《バカ野郎。インセクは生きてるんだぞ。だったらいいじゃないか。体はまあ、病気もちの太った醜い皇帝だとしても。そこは悪かったと思ってるんだ》
何を言ってるんだ、と男は思う。
どうもこの少年は、なにかをずっと誤解している。
少年の方へ手をのばそうと身動きしようとしたが、まるで上手くいかなかった。体全部が鉛のように重い。指の一本すらぴくりとも動かせないのだ。
ではせめて少年の顔を見ようとしたが、それすらも許されない。瞼が異様に重くて開くこともままならないのだ。まるで自分の体がすべて造り物になってしまったような感覚だった。
(造り物……だと?)
なにか一瞬、不穏なことを思い出しそうな気がしたのだったが、結局何も思い出せなかった。
ともすると、自分が何者であったかすらあやふやになってしまいそうだ。暗い記憶の帳の奥へ迷いこんで、すっかり道を見失ってしまったような。
《シンケルス……シンケルス》
か細い少年の泣き声がつづく。
その声で、ようやく自分の名を思い出した。
だがそれは、自分の本当の名前ではない。
ずっとずっと未来のあの日に、あの女性が迸るようにして叫んだ自分の名前では。
考えてみればあの時もそうだった。自分は彼女のためになる存在ではない。彼女がどんなに望んだところで、「人類が生き残るため」に重要な存在である女性のひとりを独り占めにしておく権利は自分にはなかった。自分の体がこんなぽんこつでさえなければ、また違う希望と未来があったかもしれないけれども。
だが、そうでないものは仕方がない。
あの時はもう、人類はそこまで追い詰められてしまっていたから。
(インセク……いや、ストゥルト)
大丈夫だ。お前さえ生きているなら。
もうそれでいい。これ以上、いったい何を望もうか。
いいから早く、もっと安全な場所に逃げるんだ。そのペンダントで連絡すれば、すぐにもレシェントが迎えに来てくれるはず──
そこまで考えたときだった。
男は不意に自分の手を誰かが握っているのに気づいた。
次第に皮膚の感覚が戻りつつあるのだろう。それとともに、筋肉が脳の指令を受けて少しずつ動きやすくなってきているのを感じた。だが、それでも目を開くだけの作業に大いなる努力を要した。
うすぼんやりと横に細長い視界が開けはじめる。
周囲は非常に暗くて、自分の周りだけがうっすらと緑色に明るくなっているのがわかった。
眼球の動きも異様に鈍い。それでもどうにか目だけで周囲を見回して、男は自分の手を握っている人物をようやく視界に入れることができた。
だが。
そこにいたのは、男が予期していた人物ではなかった。
(なんだと……?)
いったい何が起こったというのか。
弾力のある液体らしいものに浮かんだような状態の自分は、なにか細長い楕円形の容器の中に寝かされているようだった。その脇にぴったりとはりつくようにして座っている人物。
彼の両手がしっかりと自分の右手を握っているのに気づいて、男は何度か瞬きをした。
うねる蜂蜜色の髪。おとなしい砂色の瞳。
頬は白く、肢体もすらりとしていて美しい。
──皇帝、ストゥルト。
だがその潤んだ瞳が雄弁に語っていた。
いま彼の内部に存在するのが、あの少年に他ならないのだということを。
遠くで少年がすすり泣く声がする。
《こうなると思ってたんだ。なんでついて来たんだよ。だから大バカだって言うんだよ……》
そう言うなよ、と男は思う。
あの時、あの場でお前についていかない選択肢など自分にはなかった。《イルカ》であの口の悪い同僚とぼんやりと情報収集をしながら座っているなど。そんなことは到底不可能だったのだ。
……お前を、ひとりで行かせるなんて。
そんなこと、思いもよらないに決まっている。
《バカ野郎。インセクは生きてるんだぞ。だったらいいじゃないか。体はまあ、病気もちの太った醜い皇帝だとしても。そこは悪かったと思ってるんだ》
何を言ってるんだ、と男は思う。
どうもこの少年は、なにかをずっと誤解している。
少年の方へ手をのばそうと身動きしようとしたが、まるで上手くいかなかった。体全部が鉛のように重い。指の一本すらぴくりとも動かせないのだ。
ではせめて少年の顔を見ようとしたが、それすらも許されない。瞼が異様に重くて開くこともままならないのだ。まるで自分の体がすべて造り物になってしまったような感覚だった。
(造り物……だと?)
なにか一瞬、不穏なことを思い出しそうな気がしたのだったが、結局何も思い出せなかった。
ともすると、自分が何者であったかすらあやふやになってしまいそうだ。暗い記憶の帳の奥へ迷いこんで、すっかり道を見失ってしまったような。
《シンケルス……シンケルス》
か細い少年の泣き声がつづく。
その声で、ようやく自分の名を思い出した。
だがそれは、自分の本当の名前ではない。
ずっとずっと未来のあの日に、あの女性が迸るようにして叫んだ自分の名前では。
考えてみればあの時もそうだった。自分は彼女のためになる存在ではない。彼女がどんなに望んだところで、「人類が生き残るため」に重要な存在である女性のひとりを独り占めにしておく権利は自分にはなかった。自分の体がこんなぽんこつでさえなければ、また違う希望と未来があったかもしれないけれども。
だが、そうでないものは仕方がない。
あの時はもう、人類はそこまで追い詰められてしまっていたから。
(インセク……いや、ストゥルト)
大丈夫だ。お前さえ生きているなら。
もうそれでいい。これ以上、いったい何を望もうか。
いいから早く、もっと安全な場所に逃げるんだ。そのペンダントで連絡すれば、すぐにもレシェントが迎えに来てくれるはず──
そこまで考えたときだった。
男は不意に自分の手を誰かが握っているのに気づいた。
次第に皮膚の感覚が戻りつつあるのだろう。それとともに、筋肉が脳の指令を受けて少しずつ動きやすくなってきているのを感じた。だが、それでも目を開くだけの作業に大いなる努力を要した。
うすぼんやりと横に細長い視界が開けはじめる。
周囲は非常に暗くて、自分の周りだけがうっすらと緑色に明るくなっているのがわかった。
眼球の動きも異様に鈍い。それでもどうにか目だけで周囲を見回して、男は自分の手を握っている人物をようやく視界に入れることができた。
だが。
そこにいたのは、男が予期していた人物ではなかった。
(なんだと……?)
いったい何が起こったというのか。
弾力のある液体らしいものに浮かんだような状態の自分は、なにか細長い楕円形の容器の中に寝かされているようだった。その脇にぴったりとはりつくようにして座っている人物。
彼の両手がしっかりと自分の右手を握っているのに気づいて、男は何度か瞬きをした。
うねる蜂蜜色の髪。おとなしい砂色の瞳。
頬は白く、肢体もすらりとしていて美しい。
──皇帝、ストゥルト。
だがその潤んだ瞳が雄弁に語っていた。
いま彼の内部に存在するのが、あの少年に他ならないのだということを。
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