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第四章 海に棲むもの
5 海上にて
しおりを挟む少年は舐めていた。
そう、大海原を航海するということを、めちゃくちゃに。
「大丈夫か」
船端にやってきたシンケルスがやや心配そうに声を掛けてきたが、少年は「ふええ」と弱々しい声を上げただけで顔も上げられないでいた。船のはじっこに引っかかるようにして、ずっとげえげえ吐いているのだ。
船長も船員たちもさすがに慣れたもので、こんな風になっている者はひとりもいない。シンケルスも平気そうだった。彼についてきているこの調査隊の兵士たちの中には顔色が悪く、少年のように船酔いしている者も数名いたけれども。
「うう……」
悔しい。あんなに「わたしを守れよ」なんて大見えを切っておいて早速これだ。正直、穴があったら這い込みたい心境だった。まことにもって恥ずかしい。
ところが、絶対にバカにされると身構えていたのに男は意外と優しかった。
「これまで海に出たこともないんだ、無理もない」
「新兵ならだれでもそんなものだ」
「少しでも水を飲んでおかないか。ずっと日なたにいるし、水分が足りなくなるぞ。余計に体力を消耗する」
「そちらの帆の影へ移動しよう。さ、手を貸せ」
「野菜や果物は日持ちしない。今のうちにジュースでいいから飲んでおけ。壊血病予防のためには必須だからな」
などなど、ずっとかいがいしく世話をしてくれている。
この船は木製の比較的小ぶりなもので、全体で二十名ほどが乗っているばかりだ。軍船だったら馬や犬やその餌なども乗せるため相当大きなものになるが、こちらはいわゆる民間船のため、そうした設備はないらしい。
木で造っただけでは水が漏るので、板の隙間にはみっちりと瀝青が塗りこまれている。
全部で二十名しかいないため漕ぎ手が足りないので、調査隊の男たちも当たり前のように櫂をとった。交代制をとっていて、当番以外の時間には食事をしたり眠ったりするのだ。
船倉には旅に必要な荷物がぎゅうぎゅうづめになっており、少年も調査隊もごく狭い場所にみっしりとくっついて眠る場所があるだけだ。それでも足りず、壁から綱で作った網をはってその中で眠る者も多い。上も下も完全に雑魚寝の状態だ。
船長ウラムに言わせると「思った以上にいい波ですぜ。幸先がいい」ということになるらしく、海上は非常に穏やかだった。
……いや、彼らにとってだけはの話だ。
船に慣れない少年は、外海に出たとたんに胸のあたりがむかむかしてきて遂にもどし、それ以降はずっと船端にとりついて青い顔をしているばかりだった。
(ああ、情けない……)
そう思っても体調ばかりは自分の意思ではどうにもならない。
シンケルスはそれについて皮肉などはいっさい言わず、仕事の合い間にひたすら体調を気遣ってくれるばかりだ。
調査隊である兵士の面々は少年の元々の立場──つまりシンケルス専用の性奴隷──を当然知っているはずだったが、特に無礼な真似をしかけたり蔑むような目で見てくる者はいなかった。恐らくそういうことも考えてシンケルス自身が人選してくれたのだろう。
まあ、だからといって非常に尊敬してもらえているわけでないことは、彼らの目を見れば一目瞭然だったけれども。かれらは常に少年から一歩以上の距離を置き、心理的にもなるべく平板でいようと努力しているのがうかがわれた。
用事がなければいっさい話しかけても来ない。何かのことで近づいてきたとしても、話しかけるのは隣にいるシンケルスに対してばかりだった。
(……ふん。べつにいいけどさ)
彼らと仲良くするための旅ではないのだ。別に親交を深めておく必要などない。
ずっと船酔いをしていることもあり、少年は自分から彼らに話しかけることすらなかった。実際、それどころではなかったのだ。
だが、船員たちはわりと気安く話しかけてきてくれた。もちろん航海のための仕事が最優先なのだから、暇なときだけの話だったが。
「まだ悪いのかい、坊や」
「大変だなあ。だいぶ顔色が悪いぞ、大丈夫かよ」
「近衛隊長のダンナも言ってたが、ちゃんと水は飲まなきゃダメだぜ」
「少し慣れてきたら、ちょっとでも食わないともたねえよ?」
などなど、これまた意外と優しかったのだ。
王宮にいるような取り澄ました男たちとは違って、かれらはざっくばらんで友好的に見えた。戦争による捕虜となり、さらには性奴隷として異民族に飼われていたということはみんな知っているようだったが、わざわざそのことを口にすることもなく、むしろ慮ってくれているように感じられた。
「あっちじゃずいぶん苦労したんだろう、坊や」
「この航海じゃ、なんにも心配いらねえからよ」
「船長のウラムさんは信用できるお人だかんな」
「なんかあったら俺らに言えよ。ビシッと守ってやっかんな」
王宮で起こったあの事件のことを考えると実はあれこれと心配しないでもなかったのだが、それは全部杞憂に終わった。海の男たちはみな気持ちよく、他人に対して変に暗い欲望を押し付けるようなこともなかったのだ。もちろんこちらも、シンケルスの人選が大いに功を奏しているのだろうと思われた。
「それにしても、なんだってあんな海へ行こうとなさるんだろうねえ、シンケルスのダンナはよお」
海の男たちの話題は常にそこに終始した。
かれらにとって、そもそもあの《神々の海》は禁忌の海域なのだそうだ。
あの海へ行くと、船乗りを美しい歌でまどわすセイレーンや海の怪物スキュラなどが現れて船乗りたちの命を奪う。そんな噂はこの何十年というもの枚挙に暇がなかったというのだ。
船乗りたちにとっての禁忌は多いが、あの海域はその最たるものだ。
今回の船旅についても、彼らはシンケルス一行を途中まで送るだけという契約になっていた。《神々の海》に近づいたらそこで船を止め、そこから調査隊は曳航してきているもう少し小ぶりの船に乗り換えて島へ向かう手筈になっている。
そんな航海が十数日ばかり続いて、遂に彼らは目的の海域に近づいた。
《神々の海》のすぐ外である。
とはいえ、まだどこにも島影は見えなかった。
船の横腹をつけるようにしてとめると、間に板を渡して調査隊は乗り移った。食料や水などは最初からそちらにも積み込んである。
シンケルスと少年は、みなと一緒に手ずから自分たちの荷物を運びこんだ。荷物といっても、わずかな身のまわりの品と食料や武器が中心だった。
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