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第四章 海に棲むもの
2 相談
しおりを挟む「海の彼方から呼ぶ声の夢ですって? あなたにも見えたのですか……?」
翌朝。いつものようにシンケルスについて皇族のための訓練場に出かけた少年は、皇帝ストゥルト──もちろん中身は本物のインセク少年だ──から、驚いた目で見つめられていた。わずかの休憩時間中、隙をみつけて皇帝に近づき、こっそりとあの夢の話をしたのだ。
「あなたもって、まさか……」
皇帝はこくりとうなずく。最近ではずいぶんと痩せてきて、もう普通の青年の体格と変わらなくなっている。今は果汁を数滴たらした炭酸水を手にして座っているが、シンケルス以外の者はそばにいなかった。
肉の落ちた自分の顔ははじめて見るが、「自分はこんな顔だったのか」という感慨は否めない。やわらかに波うった金の髪はあでやかな色で太陽の光をはねかえしている。食生活が整っためなのか、砂色の瞳には叡智をまとった輝きがともり、あれほどひどかった肌の吹き出ものもかなりきれいになってきている。
こうして見ると、実は自分はけっこう男前だったのかもしれない。今までは不健康な生活による肉に埋もれてなにも見えなくなっていただけのことで。
昔、まだ少年だったころ、母や側づきの者らから容姿を褒められていたものだけれど、あながち間違いでもなかったようだ。父はさほどでもなかったが、母は国の内外で評判の非常に美しい人だった。幸いにして、自分は母側の特徴を受け継いでいたらしい。
今や脂肪もかなり落ち、きれいに筋肉のついた肢体は全体にしなやかで、足取りもきびきびと軽い。中身がインセク少年になったため、臣下たちにも広い心で慈愛をもって接している。そのため、周囲の者らの戸惑いようは相当なものだと聞く。
そうなのだ。
王宮の内外で、いまや皇帝に関する評判が少しずつ変わりはじめている。下働きをしている今の少年には、その噂が直接耳に入ってくるのだ。とりわけあのおしゃべりな女たちの口から。
とは言えこれらはすべて、このインセク少年の功績だ。それでもなんとなく誇らしい気持ちになるから、人間というのは勝手なものだと思う。
「もしやお前も、同じ夢を見たというのか?」
「そのもしやなのですよ」
ふたりはさっきからぼそぼそと低い声で話しつづけている。少年は皇帝陛下のための給仕をしている体で皇帝のそばに跪いている。
今この会話を聞いているのはシンケルスのみだ。男はいつものように眉間に皺を立て、目では周囲を監視しながら耳はしっかりこちらを向いているはずだった。
「《神々の海》に浮かぶ小島群の向こうでしょう? 恐ろしい海の獣が守る海域の奥に、火の山を背にして浮かぶ島。その洞窟から声がした……。ちがいますか」
「そ、そのとおりだ!」
思わず声を高くしかかって、ぎろりとシンケルスに睨まれる。少年は慌ててまた声を低くした。
「不思議な声が『おいで』って言うんだ。そうだよな?」
「はい。あれは何だったのでしょう。そのあとは急に気分が悪くなって……」
「そう、そうそう!」
「ふたりで同じ夢を見たとなると、これはもうただの夢とは思われませんね」
少年はそこで、今まで考えてきたことを相手に告げた。実は一度シンケルスに言って反対されたのだが、やっぱり押し通すことにしたのだ。
「私は、行ってみたいと思うんだ。もしかしたら私たちの意識が入れ替わったことと大いに関係があるんじゃないかと思うし」
「えっ。あそこへ行かれるのですか」
皇帝はびっくりした目でこちらを覗きこんだ。
「うん。皇帝のお前には無理だろうが、いまの私なら行けるだろう。もしかしたら、もとに戻る方法もわかるかもしれぬし。あ、ただし護衛の者らをつけてほしいが……お前の体になにかあってはいけないし」
ここでちらちらとシンケルスの顔色を窺うのは、これが昨夜この男がまず反対し、心配した理由だからである。
「あっ、あと船と案内人と漕ぎ手たちも頼む……いや、頼めると助かるのだがっ」
「もちろんです。皇帝陛下の御身をお守りするためではありませんか。僕にできることでしたらなんなりとご協力させていただきます」
「そうか! 感謝するぞ」
「ただし」
そう言って、中身がインセクである皇帝はさりげなく少年の手を握った。
「本当に本当に、気をつけて行ってくださいませね。少しでも危険と思えばすぐに引き返してください。それをお約束ください。でなければ許可などはできませぬ」
皇帝の瞳は優しくて真剣そのものである。
まったく、なんていいヤツなんだ。これでは周囲の者たちが驚くのも無理はない。どれだけ以前の皇帝と様変わりしてしまったことか。
「う、うん……わかった」
と、そこで剣術師範フォーティスが「陛下、そろそろ休憩は終わりといたしましょうぞ」と声を掛けてきて、この会話は打ち切られた。あとのことはいつものように、シンケルス経由で進むはずである。
少年は皇帝の手から飲み物のカップを受け取ってすすっと退くと、いつものようにシンケルスの背後に控え、武具などを抱えて目を伏せた。小姓としての行動の仕方にもずいぶんと慣れたものだ。
と、フォーティスがちらっとこちらを見て言った。
「本日はまた、そこのインセクと手合わせをしていただきましょうか。おい!」
「あっ、はい!」
呼ばれてぴょこんと立ち上がる。
こんな感じで一緒に稽古をさせてもらうことも増え、近頃ではだいぶ剣術の腕もあがってきた。なんと、あのシンケルスが手ずから教えてくれることも多い。それがなにより密かな楽しみだった。
この少年の体は軽く、以前のようにすぐに疲れてしまうこともない。少年は自分用の木製の剣をとると、大喜びで皇帝のそばへ飛んでいった。
皇帝が明るく声を掛けてくる。
「よし、インセク。今日も頼むぞ。いつも言っているが手加減なしでな!」
「はい、陛下! どうぞよろしくお願いします!」
シンケルスが自分の背中を見つめていることには気づいている。あの男の視線は独特だからだ。とはいえもちろん、男が気配を消した時にはその限りではないが。
その視線にどういう理由があるのかは知らない。
今は考えることを諦めている。そんなことより、今は目の前の訓練だ。
「では、はじめ!」
重々しいフォーティスの声がかかり、少年は瞬間的にぴりっと手元に集中した。
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