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第三章 秘密
8 マント
しおりを挟む翌朝。
その日、少年はいつものように皇帝の午前の剣術稽古に参加した。
このところはようやく少年も少しはまともに剣を振れるようになってきて、皇帝と手合わせさえさせてもらえるようになっている。まあ本当に時たまだが。
まだ背の低い少年は、自分の身丈にあった短めの木剣を使っている。
シンケルスに言わせると、少年の体格なら先に短剣のあつかいに慣れたほうがいいらしい。剣の重みで体が振り回されにくいし、有事の際のためには懐に隠し持っておきやすいほうがいいからだ。
それに短剣は、狭い場所での戦闘には長剣よりもはるかに適している。どちらも使えるに越したことはないのだ。そんなわけで、少年はなんとか時間を捻出して短剣の訓練もおこなっていた。
ついでながら、近衛隊長シンケルスの付き人であるのをいいことに、ちゃっかりと皇帝陛下の勉強時間にもそばにつくことになり、耳をそばだてて授業の内容を心に刻むようにしている。この三か月はそんなこんなで、あっというまに過ぎたのだった。
「そこまで」
師範フォーティスの静かな声がかかって、少年と皇帝は同時に剣をひいた。さっと一歩引き、互いに礼をかわす。
本来、皇帝は誰によらず頭など下げぬものだ。それで誰にも文句を言われる筋合いはない。それだけの隠れもなき尊いご身分だからだ。
だが今の《皇帝》たるインセク少年はそれをよしとはしなかった。「それは筋が違うというものだろう」という鶴の一声で、これまでの慣例を一掃したのだ。
よってこの場では、たとえ皇帝といえども相手の剣士に礼を尽くす。フォーティスは口や表情にこそ出さないけれども、大いに評価し満足している様子に見えた。
《皇帝》も少年もほどよく息があがり、額に汗が光っている。
そろそろ冬の到来を感じる季節になっており、動きを止めたとたんにすっと背中の汗が冷たくなったのを感じた。
「陛下、ますますのご上達です。まことに筋がおよろしい。しかし踏み込みはもう少し、緩急をつけられたほうがよろしいかと」
「はい」
《皇帝》インセクは、この師範に対して常に必ず敬語を用いる。
「それから、まだ少々脇が甘いようにございます。このようにすばしっこく、ご自分よりも小柄な者を相手にする場合にはとりわけお気をつけを。一瞬で脇に入られ、鎧の隙間を狙われまするぞ」
「なるほど。わかりました」
この場合の「すばしっこい者」というのはもちろん少年のことである。もともとの体が鍛えられたものであったおかげで、少し訓練に参加するだけでも、少年の体術は随分と上達してきているのだ。嬉しいことに、シンケルスからさえ「お前も決して筋は悪くない」とのお言葉を頂戴している。
実際、シンケルスから言われている毎日の訓練もこれまでなんとか欠かさず行ってこられた。素振りは日に千回になり、体幹を鍛える運動の回数も二倍、三倍と増えてきている。
そしてなにより、この身体は足が速い。今では王宮のどんな兵よりも早く走れるようになっているかもしれないほどだ。ひとたび少年が走り出せば、以前の鈍重な自分の体では決して感じることのなかった風が、ぴゅんぴゅんと頬や耳のあたりを切って気持ちがよかった。いままで決して知ることのない世界だった。
フォーティスがさらに細かく指導するごとに、《皇帝》は「うん、うん」と極めて真摯に耳を傾けている。以前の皇帝だったら考えられない光景だった。少年のほうでも学問のときと同じく、わずかなりとも技を盗もうとばかり必死に耳をそばだててフォーティスの言葉を聞いている。
実はフォーティスの方でも、わざわざ少年に聞かせるために言葉を選び、大きめの声を出しているふしさえあった。こういったところにも、胆力のすばらしさや心の広さが窺われる。
「お疲れ様にございました、陛下。お体の冷えぬうちに、どうぞ中へ。すぐにお着替えを」
「ああ、うん。ありがとう、シンケルス」
シンケルスの差し出した布で汗をぬぐいながら《皇帝》は優しく微笑んだ。自分で言うのもなんだが、なんとなく「花のような」といいたくなるような人好きのする笑みだった。「あれが本当に私の顔か?」と少年は何度も心のなかで首をかしげている。中身が変われば、人はああまで見た感じが変わるものなのだろうか。
驚くなかれ、あれからこの《皇帝》はさらに脂肪を減らしている。今では「すこしばかり横幅が大きいかな」と見られる程度の体格にまで変貌しているのだ!
これには少年自身もびっくりしていた。インセク少年の努力たるや、凄まじいものがある。
シンケルスがいつものように《皇帝》にぴたりと寄り添い、侍従たちを伴って王宮の建物へ戻っていく。少年ももう慣れたもので、陛下の武具やなにかを抱えてシンケルスの後ろからすたすたとついていく。
ここから《皇帝》は湯をつかい、少し休んでから昼餉の間に向かうのだ。
と、ひゅるりと吹いてきた風が首元を撫でたとたん、急に鼻がむずむずした。
「……っくしゅ!」
我慢しようと思ったがダメだった。少年はわりと大きな音でくしゃみの音を響かせてしまっていた。即座にシンケルスが振り向いた。こちらにやってくる。そしてなんと自分のマントを肩から外し、そのまま着せかけてくれた。
「えっ……あの」
「着ておけ」
少年はびっくりして立ち止まってしまった。
……なんだか優しい。変に優しい。
びっくりしすぎて棒立ちになっていたため、礼なんて言う暇もなかった。男はもうこちらを振り向く様子もなく、さっさと《皇帝》とともに歩き去っていってしまう。
「あ。ま……まって」
「ああ、お待ちを」
慌ててその後を追いかけかかったところで、聞き慣れぬ声に呼び止められた。
「それでは長すぎて引きずってしまうでしょう。こちらをお使いなさい」
「えっ?」
見上げると、どこかで見た覚えのある亜麻色の髪の青年が立っていた。服装からして文官らしい。にこにこといかにも優しそうな笑顔だが、笑っていなくてもかなり目が細い。男前とまでは言えないが、平凡と言うほどでもない整った顔立ちだ。
「さあ、そのマントはこちらに。私がシンケルス閣下にお返し申しますゆえ」
「おま……あなたは?」
男の細い目がさらに細くなった。
「おやおや。まだ言葉遣いが完璧ではないのかい」
「え?」
急に相手の言葉がぞんざいになって、少年はたじろいだ。
なんだろう。こいつは何者だ?
マントの代わりにと差し出された上等な布地の上衣と男の顔とをかわるがわる見比べる。シンケルスが去っていった方へ、ちらちらと救いを求めるように視線を走らせた。
どうしよう。思い切り走って逃げようか。
「ああ。ごめんよ。警戒させちゃったね」
青年はにこりと笑って腰を少しかがめ、顔をぐっとこちらに近づけてきた。
「なっ……! ん?」
思わず身構えた少年の目の前に、見たことのあるようなものが揺れていた。
美しくて浅い海の色のような、明るい緑色をした宝玉。ペンダントになったその鎖は男の首にかかっている。
「これで信用してもらえるかな?」
「…………」
少年は声を失った。
宝玉の真ん中に、あの奇妙な鳥の絵がうっすらと浮かび上がっていた。
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