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第三章 秘密
6 疑心
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「そうか。たとえばどんな風に」
シンケルスがやや身を乗り出して聞いてくれると、少年の胸は浮き立った。
このところのシンケルスの言葉や態度からは、最初のような鋭く冷たい棘は感じなくなっている。
決して「優しい」とまでは言わないが、雪と氷に閉ざされるかのようだった以前の態度に比べれば、多少の雪解けぐらいは始まっているような気がするのだ。
そしてこれまた気のせいかもしれないが、入浴時に少年を扱う手が前ほど厳しくぞんざいな感じではなくなっている。それに、眠るときに体をこちらに向けていることも増えてきた。以前は完璧なまでに背を向けて寝ていたというのにだ。
それだけではない。どうかした拍子に、あの太い腕が少年の体にやわらかく掛かっていることもある。さらにはその手が髪のあたりに伸びてきて、とんとんとあやすように後頭部を軽く叩いてくれることさえあるのだ。恐らく無意識だろうとは思うけれど。
そんな夜は一晩中どきどきして、少年は朝まで眠れなくなってしまうことも多かった。
今ではもう、気づいている。
この胸の内のおかしな動きが、特定の感情を表すものだというぐらいのことは。
いや、だからといって何ができるというわけでもないが。
シンケルスはさほど飲むほうではないが、こういう込み入った話がしたい夜には少しばかり葡萄酒をたしなむ。残念ながら少年の前に置かれているのは子ども向けの果汁だったが。柑橘類や林檎などを合わせて絞ったものである。
「実年齢の方はともかく、お前の体にはまだ早い」と言って、男は決して少年に酒を飲ませることはなかった。
少年は果汁をひとくち飲みくだして言葉を継いだ。
「貴族連中はみな、常にあの者の顔色と意向をうかがっている。皇帝などは名ばかりで、実質の権益はみなあの男の手のうちだ。実際、あれとて古くは皇族につらなる血筋でもあるし。たしか息子は──」
言いかけてはたと言葉をなくす。
そうだ。スブドーラには正妻のほかにも愛妾が多く、必然的に子が多い。が、そのほとんどが姫である。もちろん数名の男子がいたが、みな体が弱かったり早死にしたりするなどして、現在では幼い男子がひとりしか残っていない。
たしかその少年の年齢は──
そこまで考えたところでシンケルスの瞳がぎらりと光った。
「現在、やっと十におなりだな。三年後には十三歳。そろそろ成人の儀を行う頃合いになる。ひとたび現皇帝にことあらば、皇帝の座を襲うことも可能な血筋……」
「シ、シンケルス──」
どきん、どきんと胸の鼓動が早くなった。
まさか。本当にそうなのか……? 本当にあのスブドーラが反逆心を起こし、自分を暗殺しようと企んだのか。
が、シンケルスの目も声も冷静そのものだった。
「いや、決めつけるのは時期尚早だ。それを言うならほかの貴族連中の子弟にだって疑う理由はいくらでもある。スブドーラの家系は皇室からいえば傍系だが、他の貴族らにも同程度の血筋の者はいくらもいよう」
「うーん、そうか……。それは確かに」
「一応の筋を通すため、我が子を皇帝に立てておいて現皇帝の妹君のどなたかを娶らせる……という道筋も考えられなくはない。となれば、いずれの貴族にも悪しきたくらみを抱く動機があるわけだ」
「なるほど」
そういう道筋ならば、確かにほかの貴族連中にも疑いをかけることは可能である。つまり、誰だって疑えてしまうのだ。
「それに、他国の関与の問題もまだ捨てきれぬ」
「た、他国までもか?」
「そうだ。帝国アロガンスは周辺の国々をひととおり配下におさめた。とはいえ、まだまだ十分に安全といえる状況ではない。地下にもぐった反発勢力はいまだ各地で活動しているし、それらのどこかが反対派貴族のだれかと手を組む、あるいはすでに組んでいる可能性はある。すでにかなりの数の密偵や間諜がこの街や王宮に忍び込んでいることは想像に難くないしな」
少年はびっくりして目を剥いた。
「み、密偵が王宮にまで……? それは本当なのか!」
「そんなもの、どこの国でも普通のことだ」
シンケルスは眉も動かさないで言った。
そうなのか。なるほど、自分は相当世間知らずの皇帝だったらしい。背筋に冷たいものを覚えながら、少年はこくりと喉を鳴らした。
「まあ、なにしろあの皇帝陛下だったからな。身に覚えがあるだろう」
少年の様子を見ていたからなのかどうなのか、シンケルスはふっと緊張を解いてざっくばらんな顔つきになった。
「えっ?」
「覚えていないとは言わせんぞ。以前の皇帝どのは、『絶世の美姫や美少年を献上する』と言うだけで破格の権益や身分を褒美としてひょいと与えてしまうような御仁だった」
それは事実だ。覚えもある。だがそれに何の問題があったのだろう。
シンケルスはちらりとそんな少年を見返した。今度は少しだけ棘のある視線だった。
「わからないのか? だれかにそれを与えるということは、他のだれかを我慢させるということだ。本来その栄誉にあずかるはずだっただれかから取り上げて、別の者に与えるということにほかならない」
「…………」
「そんなこんなで、多かれ少なかれ貴族連中の不満は溜まっていた。もともとな」
「う、うう……」
少年は本当に鞭で打たれたかのように顔をしかめた。久しぶりの皮肉。かなり慣れてきているとはいえ、痛いものは痛い。
だが、これでは何もわからない。
この王宮に出入りするだれもかれもが疑わしい。信用できるのは、現在の皇帝の中にいるインセク少年と、身の回りを世話してくれる女たちぐらいのものか。
「ほかに信頼できる者は? おらぬのか」
少年は堪らなくなって、すがるような気持ちでそう訊いた。
シンケルスがやや身を乗り出して聞いてくれると、少年の胸は浮き立った。
このところのシンケルスの言葉や態度からは、最初のような鋭く冷たい棘は感じなくなっている。
決して「優しい」とまでは言わないが、雪と氷に閉ざされるかのようだった以前の態度に比べれば、多少の雪解けぐらいは始まっているような気がするのだ。
そしてこれまた気のせいかもしれないが、入浴時に少年を扱う手が前ほど厳しくぞんざいな感じではなくなっている。それに、眠るときに体をこちらに向けていることも増えてきた。以前は完璧なまでに背を向けて寝ていたというのにだ。
それだけではない。どうかした拍子に、あの太い腕が少年の体にやわらかく掛かっていることもある。さらにはその手が髪のあたりに伸びてきて、とんとんとあやすように後頭部を軽く叩いてくれることさえあるのだ。恐らく無意識だろうとは思うけれど。
そんな夜は一晩中どきどきして、少年は朝まで眠れなくなってしまうことも多かった。
今ではもう、気づいている。
この胸の内のおかしな動きが、特定の感情を表すものだというぐらいのことは。
いや、だからといって何ができるというわけでもないが。
シンケルスはさほど飲むほうではないが、こういう込み入った話がしたい夜には少しばかり葡萄酒をたしなむ。残念ながら少年の前に置かれているのは子ども向けの果汁だったが。柑橘類や林檎などを合わせて絞ったものである。
「実年齢の方はともかく、お前の体にはまだ早い」と言って、男は決して少年に酒を飲ませることはなかった。
少年は果汁をひとくち飲みくだして言葉を継いだ。
「貴族連中はみな、常にあの者の顔色と意向をうかがっている。皇帝などは名ばかりで、実質の権益はみなあの男の手のうちだ。実際、あれとて古くは皇族につらなる血筋でもあるし。たしか息子は──」
言いかけてはたと言葉をなくす。
そうだ。スブドーラには正妻のほかにも愛妾が多く、必然的に子が多い。が、そのほとんどが姫である。もちろん数名の男子がいたが、みな体が弱かったり早死にしたりするなどして、現在では幼い男子がひとりしか残っていない。
たしかその少年の年齢は──
そこまで考えたところでシンケルスの瞳がぎらりと光った。
「現在、やっと十におなりだな。三年後には十三歳。そろそろ成人の儀を行う頃合いになる。ひとたび現皇帝にことあらば、皇帝の座を襲うことも可能な血筋……」
「シ、シンケルス──」
どきん、どきんと胸の鼓動が早くなった。
まさか。本当にそうなのか……? 本当にあのスブドーラが反逆心を起こし、自分を暗殺しようと企んだのか。
が、シンケルスの目も声も冷静そのものだった。
「いや、決めつけるのは時期尚早だ。それを言うならほかの貴族連中の子弟にだって疑う理由はいくらでもある。スブドーラの家系は皇室からいえば傍系だが、他の貴族らにも同程度の血筋の者はいくらもいよう」
「うーん、そうか……。それは確かに」
「一応の筋を通すため、我が子を皇帝に立てておいて現皇帝の妹君のどなたかを娶らせる……という道筋も考えられなくはない。となれば、いずれの貴族にも悪しきたくらみを抱く動機があるわけだ」
「なるほど」
そういう道筋ならば、確かにほかの貴族連中にも疑いをかけることは可能である。つまり、誰だって疑えてしまうのだ。
「それに、他国の関与の問題もまだ捨てきれぬ」
「た、他国までもか?」
「そうだ。帝国アロガンスは周辺の国々をひととおり配下におさめた。とはいえ、まだまだ十分に安全といえる状況ではない。地下にもぐった反発勢力はいまだ各地で活動しているし、それらのどこかが反対派貴族のだれかと手を組む、あるいはすでに組んでいる可能性はある。すでにかなりの数の密偵や間諜がこの街や王宮に忍び込んでいることは想像に難くないしな」
少年はびっくりして目を剥いた。
「み、密偵が王宮にまで……? それは本当なのか!」
「そんなもの、どこの国でも普通のことだ」
シンケルスは眉も動かさないで言った。
そうなのか。なるほど、自分は相当世間知らずの皇帝だったらしい。背筋に冷たいものを覚えながら、少年はこくりと喉を鳴らした。
「まあ、なにしろあの皇帝陛下だったからな。身に覚えがあるだろう」
少年の様子を見ていたからなのかどうなのか、シンケルスはふっと緊張を解いてざっくばらんな顔つきになった。
「えっ?」
「覚えていないとは言わせんぞ。以前の皇帝どのは、『絶世の美姫や美少年を献上する』と言うだけで破格の権益や身分を褒美としてひょいと与えてしまうような御仁だった」
それは事実だ。覚えもある。だがそれに何の問題があったのだろう。
シンケルスはちらりとそんな少年を見返した。今度は少しだけ棘のある視線だった。
「わからないのか? だれかにそれを与えるということは、他のだれかを我慢させるということだ。本来その栄誉にあずかるはずだっただれかから取り上げて、別の者に与えるということにほかならない」
「…………」
「そんなこんなで、多かれ少なかれ貴族連中の不満は溜まっていた。もともとな」
「う、うう……」
少年は本当に鞭で打たれたかのように顔をしかめた。久しぶりの皮肉。かなり慣れてきているとはいえ、痛いものは痛い。
だが、これでは何もわからない。
この王宮に出入りするだれもかれもが疑わしい。信用できるのは、現在の皇帝の中にいるインセク少年と、身の回りを世話してくれる女たちぐらいのものか。
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