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第三章 秘密
3 剣術師範フォーティス
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ふたりがその練習場に着いたのは、ちょうど「時の塔」の鐘が二の刻を告げたときだった。
皇族だけが使用するこの練習場は、練兵場に比べるとぐっと狭い。だがそのぶん整備や手入れは行き届いている。敷石が綺麗に並べられ、隅の小さな武器庫には皇帝専用の様々な武器が置かれていた。シンケルス配下の近衛兵が五名ばかり、周囲を護るように立っている。
剣術師範はすでに到着しており、武器庫のところで剣や槍の点検をしている様子だった。
広い肩幅に、厚い胸板。シンケルスにも引けを取らないほどの鍛え上げられた体躯。刈り込んだ短髪はもとは濃い茶色だったが、いまはだいぶ灰色に変わっている。がっしりとした大きな顎は、この人物の頑固で真面目な人柄をそのまま表現しているかのようだ。
(フォーティス──)
少年は少しばかりの懐かしさを覚えつつ、ちらりと男の顔を盗み見た。
この男には、皇太子だった時分からずいぶんとしごかれた。いや自分はあの厳しく真摯で単調な訓練が大嫌いで、あれやこれやと理由をつけては訓練を怠けてばかりいたけれども。
フォーティスは、かつてはアロガンス軍の勇猛な将軍の一人だった男である。家門の頭首をやはり武人である息子に譲り、退役してからは皇族や貴族に武術を教える師範として働いている。退役して何年も経つにもかかわらず、いまだに兵らからの信頼と尊敬を集めていると聞いていた。
シンケルスがさっそく足早にそちらに近づいていき、フォーティスに向かってきりりと頭を下げる。
「遅れまして申し訳ありませぬ、フォーティス閣下。本日はご指南のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます」
どうやら年長者に対してはきちんとした礼を尽くすのがこの男の信条らしい。先日は「敬語などは表向きだけのこと」とかなんとか嘯いていたような気がするが、少なくともこのフォーティスには一目置いているのだろう。少年はなんとなく、またふくれっ面になってしまった。
「おお、こちらこそどうぞよろしく。というか、こんな引退したじじい相手に『閣下』呼ばわりはもう勘弁してくれと申しておるではないか、シンケルス閣下」
「とんでもない。自分にとって、閣下は永遠に将軍閣下にございますゆえ」
「相変わらずの石頭か。まことそなたにはかなわぬなあ──」
呵々と笑う声が枯れて明るい。この老人の方でも、シンケルスを見る瞳や声に不思議な温かみがにじんでいる。
さもあろう。この二人、五年ほど前まではともに戦場で肩を並べて戦った間柄なのである。年は親子ほど離れているものの、もはや「戦友」と呼んでよい関係なのではないだろうか。
「陛下はまだでいらっしゃるようにございますな」
「ああ、うむ。だが心配いらぬぞ」
老人は矍鑠とした体躯をゆったりと片足に預けてほんのりと笑った。
「すぐにいらっしゃるだろう。このところ、どういう風の吹き回しか非常にまじめに訓練を受けてくださっておるからな。まこと喜ばしい限りよ」
「そのようにございますな」
(くそうっ)
ちらりと一瞬だけこちらを見たシンケルスの瞳をにらみ返して、少年は心の中だけで歯ぎしりをした。いちいちあの《皇帝》と自分を比べないで欲しい。
もうわかった。わかってるよ。
前の自分は、本当に愚かだった。でも、今ではだんだんわかってきている。正直、殴りつけてやりたい気分だ。
政務で臣下たちから蚊帳の外に置かれていたのも事実だけれど、それが面白くないからといってあれほど無関心になるべきではなかった。御前会議を構成する貴族たちは、それをいいことに自分の家門にとって都合のいい法律を作っては好き勝手にやっていたらしいのだ。これもシンケルスから聞いたことだった。
それで庶民が重税に苦しむことになっていても、皇帝たる自分は少しもそのことを知らず、関心すら持たなかった。自分さえ安楽に暮らせていられれば、ほかのことはどうでもよかったし、放っておいてほしかったからだ。
あれには自分にだって責任がある。自分もきちんと帝国の意思決定者として、自分の実権を行使するべきだったのだ。今ではそれなりに反省している。
この訓練のことだってそうだ。
近衛隊がいつも守ってくれているとはいえ、最後の最後、自分の命を守るのは自分自身だ。最低限の護身術ぐらいは身につけておかねばまずい。その程度のこと、必須にきまっているではないか。それを、貴族たちがうるさく言わないのをいいことにさんざん怠けた。それは自分のためだったというのにだ。
(……どうして私は)
皇帝だったとき、こんな当然のことにも気がついていなかったのだろう?
シンケルスもシンケルスだ。そこまで不満に思っていたのだったら、もっと厳しく自分に諫言してくれてもよさそうなものだったのに。父も母もとうに亡くなり、自分を本気で諫めてくれる者など、そばにだれもいなかったのだから。
いや、それも難しかったのは分かっているのだが。すぐそばに重臣たち、とりわけあの宰相スブドーラがいたのでは。
などとあれこれ思ううちに、回廊の向こうからどすどすと重い足音が聞こえてきた。
「ああ、すまぬ。思った以上に着替えに手間どってしまって──」
《皇帝ストゥルト》──その実、少年インセクだった。
彼は皇帝が普段からするように侍従や小姓たちを数名引き連れている。
二人の武人はそれぞれに腰を折った。
「帝国の太陽にご挨拶をもうしあげまする」
「おはよう存じます、陛下」
「ああ、うん。おはよう、フォーティス。シンケルス」
急いで歩いてきたらしく、《皇帝》の息はすでにだいぶ上がっていた。上気した顔がひょいとこちらを向いて、少年の方を向いてぴたりと止まる。それと同時にぱっと明るいものになった。
「おお。今日はそなたも参加するのか? インセク」
「あ……はい。おはようございます、陛下。どうぞよろしくお願いします」
少年は慌てて床に片膝をつき、ひくく頭を垂れた。自分でやったことはほとんどないが、皇帝としていつも見ていた仕草なのだから真似するのは簡単だ。
《皇帝》インセク少年は、瞳をきらきらさせてにっこり笑った。
「そうか! それは楽しみだ。こちらこそよろしく頼むぞ、インセク」
「は、はい」
少年はしかたなく、ぎこちないお辞儀を返した。
皇族だけが使用するこの練習場は、練兵場に比べるとぐっと狭い。だがそのぶん整備や手入れは行き届いている。敷石が綺麗に並べられ、隅の小さな武器庫には皇帝専用の様々な武器が置かれていた。シンケルス配下の近衛兵が五名ばかり、周囲を護るように立っている。
剣術師範はすでに到着しており、武器庫のところで剣や槍の点検をしている様子だった。
広い肩幅に、厚い胸板。シンケルスにも引けを取らないほどの鍛え上げられた体躯。刈り込んだ短髪はもとは濃い茶色だったが、いまはだいぶ灰色に変わっている。がっしりとした大きな顎は、この人物の頑固で真面目な人柄をそのまま表現しているかのようだ。
(フォーティス──)
少年は少しばかりの懐かしさを覚えつつ、ちらりと男の顔を盗み見た。
この男には、皇太子だった時分からずいぶんとしごかれた。いや自分はあの厳しく真摯で単調な訓練が大嫌いで、あれやこれやと理由をつけては訓練を怠けてばかりいたけれども。
フォーティスは、かつてはアロガンス軍の勇猛な将軍の一人だった男である。家門の頭首をやはり武人である息子に譲り、退役してからは皇族や貴族に武術を教える師範として働いている。退役して何年も経つにもかかわらず、いまだに兵らからの信頼と尊敬を集めていると聞いていた。
シンケルスがさっそく足早にそちらに近づいていき、フォーティスに向かってきりりと頭を下げる。
「遅れまして申し訳ありませぬ、フォーティス閣下。本日はご指南のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます」
どうやら年長者に対してはきちんとした礼を尽くすのがこの男の信条らしい。先日は「敬語などは表向きだけのこと」とかなんとか嘯いていたような気がするが、少なくともこのフォーティスには一目置いているのだろう。少年はなんとなく、またふくれっ面になってしまった。
「おお、こちらこそどうぞよろしく。というか、こんな引退したじじい相手に『閣下』呼ばわりはもう勘弁してくれと申しておるではないか、シンケルス閣下」
「とんでもない。自分にとって、閣下は永遠に将軍閣下にございますゆえ」
「相変わらずの石頭か。まことそなたにはかなわぬなあ──」
呵々と笑う声が枯れて明るい。この老人の方でも、シンケルスを見る瞳や声に不思議な温かみがにじんでいる。
さもあろう。この二人、五年ほど前まではともに戦場で肩を並べて戦った間柄なのである。年は親子ほど離れているものの、もはや「戦友」と呼んでよい関係なのではないだろうか。
「陛下はまだでいらっしゃるようにございますな」
「ああ、うむ。だが心配いらぬぞ」
老人は矍鑠とした体躯をゆったりと片足に預けてほんのりと笑った。
「すぐにいらっしゃるだろう。このところ、どういう風の吹き回しか非常にまじめに訓練を受けてくださっておるからな。まこと喜ばしい限りよ」
「そのようにございますな」
(くそうっ)
ちらりと一瞬だけこちらを見たシンケルスの瞳をにらみ返して、少年は心の中だけで歯ぎしりをした。いちいちあの《皇帝》と自分を比べないで欲しい。
もうわかった。わかってるよ。
前の自分は、本当に愚かだった。でも、今ではだんだんわかってきている。正直、殴りつけてやりたい気分だ。
政務で臣下たちから蚊帳の外に置かれていたのも事実だけれど、それが面白くないからといってあれほど無関心になるべきではなかった。御前会議を構成する貴族たちは、それをいいことに自分の家門にとって都合のいい法律を作っては好き勝手にやっていたらしいのだ。これもシンケルスから聞いたことだった。
それで庶民が重税に苦しむことになっていても、皇帝たる自分は少しもそのことを知らず、関心すら持たなかった。自分さえ安楽に暮らせていられれば、ほかのことはどうでもよかったし、放っておいてほしかったからだ。
あれには自分にだって責任がある。自分もきちんと帝国の意思決定者として、自分の実権を行使するべきだったのだ。今ではそれなりに反省している。
この訓練のことだってそうだ。
近衛隊がいつも守ってくれているとはいえ、最後の最後、自分の命を守るのは自分自身だ。最低限の護身術ぐらいは身につけておかねばまずい。その程度のこと、必須にきまっているではないか。それを、貴族たちがうるさく言わないのをいいことにさんざん怠けた。それは自分のためだったというのにだ。
(……どうして私は)
皇帝だったとき、こんな当然のことにも気がついていなかったのだろう?
シンケルスもシンケルスだ。そこまで不満に思っていたのだったら、もっと厳しく自分に諫言してくれてもよさそうなものだったのに。父も母もとうに亡くなり、自分を本気で諫めてくれる者など、そばにだれもいなかったのだから。
いや、それも難しかったのは分かっているのだが。すぐそばに重臣たち、とりわけあの宰相スブドーラがいたのでは。
などとあれこれ思ううちに、回廊の向こうからどすどすと重い足音が聞こえてきた。
「ああ、すまぬ。思った以上に着替えに手間どってしまって──」
《皇帝ストゥルト》──その実、少年インセクだった。
彼は皇帝が普段からするように侍従や小姓たちを数名引き連れている。
二人の武人はそれぞれに腰を折った。
「帝国の太陽にご挨拶をもうしあげまする」
「おはよう存じます、陛下」
「ああ、うん。おはよう、フォーティス。シンケルス」
急いで歩いてきたらしく、《皇帝》の息はすでにだいぶ上がっていた。上気した顔がひょいとこちらを向いて、少年の方を向いてぴたりと止まる。それと同時にぱっと明るいものになった。
「おお。今日はそなたも参加するのか? インセク」
「あ……はい。おはようございます、陛下。どうぞよろしくお願いします」
少年は慌てて床に片膝をつき、ひくく頭を垂れた。自分でやったことはほとんどないが、皇帝としていつも見ていた仕草なのだから真似するのは簡単だ。
《皇帝》インセク少年は、瞳をきらきらさせてにっこり笑った。
「そうか! それは楽しみだ。こちらこそよろしく頼むぞ、インセク」
「は、はい」
少年はしかたなく、ぎこちないお辞儀を返した。
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