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第三章 秘密
1 疑心
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翌朝。
なんとなく何かに呼ばれたような気がして、少年はふっと覚醒した。とはいえ意識はまだぼんやりしている。薄目を開けてみても外はまだ暗いようだった。
《…………》
ぼそぼそと低い声が聞こえている。少し離れた場所で男がだれかと話をしているようだ。
《…………》
目を閉じたまま耳を澄ませてみる。が、なにも聞き取れない。
というか──
(なんだ……?)
それは少年が今まで聞いたことのない、珍妙な言語に聞こえた。
これでも自分は皇帝だ。諸外国の使節たちに謁見することもあれば、食事を共にすることさえある。意味は理解できないにしても、聞いた感じで「ああ、どこそこの国の言葉だな」ぐらいの見当はつくのだが。
それに。
(一体、だれと話しているのだ……?)
物音をたてないようにそうっと上掛けの端から声のする方を覗いてみる。すると、部屋の隅の暗がりに男の大きな背中がうっそりと蹲っているのが見えた。
男の声はあまりに低く、何を言っているかもさっぱりわからない。だが、その声はひどく真剣なものだった。男の声とはまた違う声──こちらは多少、高い声に聞こえた──も、ごく小さな音でぶつぶつとしゃべるだけだ。
そこにだれかいるのだろうか? 男よりも小柄な誰かがひそんでいるのか。
が、やがてその会話はふつりと途絶えた。
そうして音も気配もまったくさせないで、男がするりと少年の隣に戻ってきた。
少年は必死に寝たふりをした。
(なんなんだ……? いまのはいったい)
そこからはまんじりともせず、少年は朝を迎えてしまった。
◆
「出かける前に水浴びをするぞ」
今日は皇帝との剣術の日だ。早朝から意気込んで色々と身支度を整えていると、シンケルスがいきなりそう言ってきた。
少年がついついじいっとその顔を見返していたものだから、男は怪訝そうに眉間に皺をたてた。
「なんだ?」
「……なんでもない。それより水浴びだって? 別にいいだろう、もう服を着てしまったし。ゆうべだってちゃんと風呂に入ったのだし──」
「そういうことじゃない。尊い陛下に拝謁するときには、まずきちんと身を清める。これはお傍にあがる臣下としての義務であり常識だ」
「そうなのか?」
「実際、衛生面での効用もある」
「は? 衛生面? どういう意味だ」
きょとんとして返すと、男が珍しく「しまった」という顔になった……ような気がした。いや正直、あまりにも表情筋が動かないので読めないに近いのだが。
男は「なんでもない」とそっぽを向いて、そのまま少年を井戸のそばまで引っぱっていった。いつもながら有無を言わさない奴だ。
「ひゃあっ、つめたい!」
くみ上げた水を頭からぶちまけられて、裸の少年はその場で自分の胸を抱き、ぴょんぴょん跳びはねた。温かい地方だとは言え、地下水は非常に冷たい。肌がビリビリと痺れてきて、奥歯までがちがち震えてしまう。
「さっ、ささっ、寒い──」
「さっさと拭け。衣服はこっちだ」
体を拭くための布と新しい衣服をぐいと胸元に押し付けられて、少年はまた頬を膨らませた。
「わかってるよ! いちいち命令するなって言ってるだろう!」
「なら、命令されぬうちにさっさと動くんだな」
「きーっ。ああ言えばこう言う! 貴様、ほんとうに食えん男だなっ」
「少なくとも、貴様に食われるつもりはないな」
男がうっすらと口角を緩めたように見えたのは、たぶん自分の目のせいだろう。自分もさっさと水浴びを済ませて、男はいつもの近衛隊の装束を手早く身につけていく。
皇帝が外部の客人を迎える際などには鎧を着るのが決まりだが、内々で過ごす場合にはそこまでの重装備はしない。近衛隊の着る衣に紺のマントが通常の姿である。もちろん長剣は常に身に帯びているが。
少年の衣服も、以前とは少し違っていた。シンケルスは約束どおり、少年を彼の小姓または武具持ちの役職につかせることに成功したらしいのだ。
前の衣よりも少し質のいい軽い綿で、ほんのわずかだが銀糸を使った縁飾りまである。オリーブの新緑みたいな爽やかな緑色をした帯には美しい刺繍飾りが入っており、それは東方から来た唐草模様によく似ていた。
「剣術の訓練は二の刻からだ。それまで近衛隊の訓練を指導する。これからはお前にもれっきとした仕事があるのだ、ちゃんとついて来いよ」
「わかってるってば!」
いーっと歯をむき出しながら、少年は大急ぎで衣服を身につけはじめた。
なんとなく何かに呼ばれたような気がして、少年はふっと覚醒した。とはいえ意識はまだぼんやりしている。薄目を開けてみても外はまだ暗いようだった。
《…………》
ぼそぼそと低い声が聞こえている。少し離れた場所で男がだれかと話をしているようだ。
《…………》
目を閉じたまま耳を澄ませてみる。が、なにも聞き取れない。
というか──
(なんだ……?)
それは少年が今まで聞いたことのない、珍妙な言語に聞こえた。
これでも自分は皇帝だ。諸外国の使節たちに謁見することもあれば、食事を共にすることさえある。意味は理解できないにしても、聞いた感じで「ああ、どこそこの国の言葉だな」ぐらいの見当はつくのだが。
それに。
(一体、だれと話しているのだ……?)
物音をたてないようにそうっと上掛けの端から声のする方を覗いてみる。すると、部屋の隅の暗がりに男の大きな背中がうっそりと蹲っているのが見えた。
男の声はあまりに低く、何を言っているかもさっぱりわからない。だが、その声はひどく真剣なものだった。男の声とはまた違う声──こちらは多少、高い声に聞こえた──も、ごく小さな音でぶつぶつとしゃべるだけだ。
そこにだれかいるのだろうか? 男よりも小柄な誰かがひそんでいるのか。
が、やがてその会話はふつりと途絶えた。
そうして音も気配もまったくさせないで、男がするりと少年の隣に戻ってきた。
少年は必死に寝たふりをした。
(なんなんだ……? いまのはいったい)
そこからはまんじりともせず、少年は朝を迎えてしまった。
◆
「出かける前に水浴びをするぞ」
今日は皇帝との剣術の日だ。早朝から意気込んで色々と身支度を整えていると、シンケルスがいきなりそう言ってきた。
少年がついついじいっとその顔を見返していたものだから、男は怪訝そうに眉間に皺をたてた。
「なんだ?」
「……なんでもない。それより水浴びだって? 別にいいだろう、もう服を着てしまったし。ゆうべだってちゃんと風呂に入ったのだし──」
「そういうことじゃない。尊い陛下に拝謁するときには、まずきちんと身を清める。これはお傍にあがる臣下としての義務であり常識だ」
「そうなのか?」
「実際、衛生面での効用もある」
「は? 衛生面? どういう意味だ」
きょとんとして返すと、男が珍しく「しまった」という顔になった……ような気がした。いや正直、あまりにも表情筋が動かないので読めないに近いのだが。
男は「なんでもない」とそっぽを向いて、そのまま少年を井戸のそばまで引っぱっていった。いつもながら有無を言わさない奴だ。
「ひゃあっ、つめたい!」
くみ上げた水を頭からぶちまけられて、裸の少年はその場で自分の胸を抱き、ぴょんぴょん跳びはねた。温かい地方だとは言え、地下水は非常に冷たい。肌がビリビリと痺れてきて、奥歯までがちがち震えてしまう。
「さっ、ささっ、寒い──」
「さっさと拭け。衣服はこっちだ」
体を拭くための布と新しい衣服をぐいと胸元に押し付けられて、少年はまた頬を膨らませた。
「わかってるよ! いちいち命令するなって言ってるだろう!」
「なら、命令されぬうちにさっさと動くんだな」
「きーっ。ああ言えばこう言う! 貴様、ほんとうに食えん男だなっ」
「少なくとも、貴様に食われるつもりはないな」
男がうっすらと口角を緩めたように見えたのは、たぶん自分の目のせいだろう。自分もさっさと水浴びを済ませて、男はいつもの近衛隊の装束を手早く身につけていく。
皇帝が外部の客人を迎える際などには鎧を着るのが決まりだが、内々で過ごす場合にはそこまでの重装備はしない。近衛隊の着る衣に紺のマントが通常の姿である。もちろん長剣は常に身に帯びているが。
少年の衣服も、以前とは少し違っていた。シンケルスは約束どおり、少年を彼の小姓または武具持ちの役職につかせることに成功したらしいのだ。
前の衣よりも少し質のいい軽い綿で、ほんのわずかだが銀糸を使った縁飾りまである。オリーブの新緑みたいな爽やかな緑色をした帯には美しい刺繍飾りが入っており、それは東方から来た唐草模様によく似ていた。
「剣術の訓練は二の刻からだ。それまで近衛隊の訓練を指導する。これからはお前にもれっきとした仕事があるのだ、ちゃんとついて来いよ」
「わかってるってば!」
いーっと歯をむき出しながら、少年は大急ぎで衣服を身につけはじめた。
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