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第二章 呪詛
6 謁見
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謁見の間は、もちろん少年もよく知る場所だった。だが当然、こちら側に立ったことは一度もない。自分はいつも、あの雛壇の側にいた。
磨かれた敷石の張られた広々とした床の周囲に、ずらりと円柱が並んでいる。天井は高く、玉座背後の上方には智恵と戦の女神アテナ像が据えられている。神殿のものほど巨大ではないものの、見る者に玉座に座る者がアテナの、ひいてはその父ゼウスの意思を反映していることを示す重要な意匠である。
円柱ごとに衛兵らが立ち並び、玉座のそばには重臣ら数名が立ってこちらを見下ろしている。そしてもちろん玉座には、この国の皇帝たるストゥルト陛下が鎮座ましましている。
ふたりは本日最初の拝謁のため、扉が開かれてから雛壇の下でひざまずき、相当の時間待たされた。少年は膝や腰が痛くなってくるのに堪えながら、皇帝のおでましをじりじりと待った。
「ちっ。いつ出てくるんだ、あいつ」
遂に辛抱たまらなくなって小さく罵ると、隣で同様にひざまずいているシンケルスが「黙れ」と小声でたしなめてきた。
「重臣どもの中には恐るべき地獄耳の持ち主がいくらでもいるぞ。あれらにちらとでも聞かれてみろ。お前の細首など、あっというまに胴とおさらばする羽目になるのだからな」
「ひぐぅっ」
白目をむいて少年は黙った。
「それにお前ほどではない。お前は嘆願に来た人々を、平気でこの場に丸一日でもほっぽっていたではないか。その間、自分は性奴隷どもと乱れた放蕩の限りを尽くしていただけだというのにな。結局最後まで現れずに、疲れ切った姿で追い返された民らは相当な数に及ぶだろう」
「うう~……」
それを言われると弱い。
ぶすったれた顔だけはどうしようもなかったが、少年は仕方なく膝の痛みをこらえて沈黙に戻った。
やがてようやく「皇帝陛下のおなーりー」といういつもの先触れの声が響いた。
男と少年はあらためて頭を低く垂れる。やがてようやく遠くから、のそのそと歩く重たい足音と絹地のこすれる軽い音が聞こえてきた。非常に重たいなにかがずしりと玉座におさまる音がすると、係の者が変に形式ばった高い声で訪問者の来歴を報告した。
「近衛隊隊長シンケルスと、その側付き奴隷インセクにござりまする。このたびは嘆願の儀があって罷り越したとのことにございます」
「うむ。すまぬが人払いを」
即座にゆったりとした青年の声が応えた。優しいが、どこか気弱に響く声だ。
少年はびっくりして思わず目を上げそうになった。が、隣からがしっと後頭部をおさえつけられ、それはまったく叶わなかった。
「なにをおっしゃいますか、陛下」
宰相スブドーラの驚く声がした。
こちらは別に顔を見るまでもなくよく知っている。豪奢な金糸銀糸、色とりどりの糸で刺繍をほどこされた長衣に上着をまとい、さらに軽い絹地のヒマティオンをゆったりと体に巻き付けた初老の男だ。
態度はいたって柔らかいが、その目はいつも炯々として、まるで獲物を狙う鷹のごとし。長めの真っ黒な髪と口髭をたくわえたいかつい顔。皇帝たる自分ですら、この男に真正面から盾突くことは難しい。
「近衛隊長のほうはともかく、かたほうは敵国から来た性奴隷にございまするぞ。斯様な者との面談に、なにほどの気を遣う必要がありましょうや。こやつらはほんの挨拶に来たにすぎませぬ。どうか、素早く終わらせておしまいに──」
「人払いをと申しておる。しばらく我ら三名だけにしてくれ」
宰相の言葉を遮った声は、まだ気弱ながらもやや芯が通ったように聞こえた。
「そこな奴隷の少年と、気楽にじっくり話がしたいのだ。ほかの者が聞いていては話しにくいこともあるだろう。そんなに手間は取らせぬ。すぐに皆々をさがらせよ」
「……は。では数名の護衛を残しまするゆえ──」
「いらぬ。護衛ならほかならぬシンケルスがいる」
「し、しかし」
「そなたもだぞ、スブドーラ。しばらくの間さがっておれ」
「はっ? ……はは」
宰相は一瞬だけぎょっとしたように硬直したが、すぐに「おほん」としわぶきをして乱れたあれこれを取り繕うと、さっと片手を上げた。
「みなの者。皇帝陛下の仰せのままに」
さすがのスブドーラの声にも戸惑いが現れている。そして少しのいらだちも。
《皇帝陛下》の望みは速やかに叶った。ほんのわずかの間のうちに、列席していたすべての者らが退室したのだ。
がらんとなった謁見の間に残されたのは《皇帝》と《奴隷の少年》、そして近衛隊長シンケルスのみである。
最後の一名が退室して扉が閉じる音がしてから、玉座からまたのしのし、さらさらという音が聞こえはじめた。足音が近づいてくるに従って、床がどすどすと揺れるのが分かる。
目の前の床に影が落ちたかと思ったら、そこにふくよかな膝がどしんと突かれた。
「……皇帝陛下にあらせられますか」
少年はやっと目を上げた。
ぶくぶくと醜く太りきったにきびだらけの青年が、豪華な衣服に埋もれるようにしてこちらを見つめて座り込んでいた。
どこもかしこも以前のままの醜い姿。だがただ一点、恐らく以前とはあきらかに違うところがあった。
(瞳が……)
そうなのだった。
この《皇帝》は瞳がとても優しくて美しかった。以前であれば飽食の挙げ句、どろんと濁った生気のない目をしていたはずだ。わがままで無責任で性に奔放な子どもじみた皇帝。それが以前の自分だったと認めるのは正直胸が苦しくなる。なるが、それが事実なのだから仕方がなかった。
だが今の《皇帝》には鼻持ちならない性格など微塵も見えない。そうして、いまは奴隷の少年に過ぎない自分に向かってただただ謙虚に頭を下げている。
「こ、このたびは……まことに申し訳もなきことにございます。このようなことになってしまって」
「あ……いや。そんな」
それは別に、インセク少年の責任でもないだろう。
「大変なご苦労をなさったでしょう。その穢れた体では、まわりの人々からひたすらに蔑まれるばかりでしたから……僕も」
「いや……えっと」
少年は戸惑いすぎて、自分でも何を言っていいのかわからなくなった。
いや、本当はあれこれと考えていた。この場になったら、「よくも私から王位を簒奪してくれたな」などと散々にこの少年を詰り、非難の限りを浴びせてやろうとさえ息巻いていた。しかし。
目の前にいる自分の姿をした少年を見たとたん、なんだかそんな気勢は完全にそがれ、雲散霧消してしまったのだ。
磨かれた敷石の張られた広々とした床の周囲に、ずらりと円柱が並んでいる。天井は高く、玉座背後の上方には智恵と戦の女神アテナ像が据えられている。神殿のものほど巨大ではないものの、見る者に玉座に座る者がアテナの、ひいてはその父ゼウスの意思を反映していることを示す重要な意匠である。
円柱ごとに衛兵らが立ち並び、玉座のそばには重臣ら数名が立ってこちらを見下ろしている。そしてもちろん玉座には、この国の皇帝たるストゥルト陛下が鎮座ましましている。
ふたりは本日最初の拝謁のため、扉が開かれてから雛壇の下でひざまずき、相当の時間待たされた。少年は膝や腰が痛くなってくるのに堪えながら、皇帝のおでましをじりじりと待った。
「ちっ。いつ出てくるんだ、あいつ」
遂に辛抱たまらなくなって小さく罵ると、隣で同様にひざまずいているシンケルスが「黙れ」と小声でたしなめてきた。
「重臣どもの中には恐るべき地獄耳の持ち主がいくらでもいるぞ。あれらにちらとでも聞かれてみろ。お前の細首など、あっというまに胴とおさらばする羽目になるのだからな」
「ひぐぅっ」
白目をむいて少年は黙った。
「それにお前ほどではない。お前は嘆願に来た人々を、平気でこの場に丸一日でもほっぽっていたではないか。その間、自分は性奴隷どもと乱れた放蕩の限りを尽くしていただけだというのにな。結局最後まで現れずに、疲れ切った姿で追い返された民らは相当な数に及ぶだろう」
「うう~……」
それを言われると弱い。
ぶすったれた顔だけはどうしようもなかったが、少年は仕方なく膝の痛みをこらえて沈黙に戻った。
やがてようやく「皇帝陛下のおなーりー」といういつもの先触れの声が響いた。
男と少年はあらためて頭を低く垂れる。やがてようやく遠くから、のそのそと歩く重たい足音と絹地のこすれる軽い音が聞こえてきた。非常に重たいなにかがずしりと玉座におさまる音がすると、係の者が変に形式ばった高い声で訪問者の来歴を報告した。
「近衛隊隊長シンケルスと、その側付き奴隷インセクにござりまする。このたびは嘆願の儀があって罷り越したとのことにございます」
「うむ。すまぬが人払いを」
即座にゆったりとした青年の声が応えた。優しいが、どこか気弱に響く声だ。
少年はびっくりして思わず目を上げそうになった。が、隣からがしっと後頭部をおさえつけられ、それはまったく叶わなかった。
「なにをおっしゃいますか、陛下」
宰相スブドーラの驚く声がした。
こちらは別に顔を見るまでもなくよく知っている。豪奢な金糸銀糸、色とりどりの糸で刺繍をほどこされた長衣に上着をまとい、さらに軽い絹地のヒマティオンをゆったりと体に巻き付けた初老の男だ。
態度はいたって柔らかいが、その目はいつも炯々として、まるで獲物を狙う鷹のごとし。長めの真っ黒な髪と口髭をたくわえたいかつい顔。皇帝たる自分ですら、この男に真正面から盾突くことは難しい。
「近衛隊長のほうはともかく、かたほうは敵国から来た性奴隷にございまするぞ。斯様な者との面談に、なにほどの気を遣う必要がありましょうや。こやつらはほんの挨拶に来たにすぎませぬ。どうか、素早く終わらせておしまいに──」
「人払いをと申しておる。しばらく我ら三名だけにしてくれ」
宰相の言葉を遮った声は、まだ気弱ながらもやや芯が通ったように聞こえた。
「そこな奴隷の少年と、気楽にじっくり話がしたいのだ。ほかの者が聞いていては話しにくいこともあるだろう。そんなに手間は取らせぬ。すぐに皆々をさがらせよ」
「……は。では数名の護衛を残しまするゆえ──」
「いらぬ。護衛ならほかならぬシンケルスがいる」
「し、しかし」
「そなたもだぞ、スブドーラ。しばらくの間さがっておれ」
「はっ? ……はは」
宰相は一瞬だけぎょっとしたように硬直したが、すぐに「おほん」としわぶきをして乱れたあれこれを取り繕うと、さっと片手を上げた。
「みなの者。皇帝陛下の仰せのままに」
さすがのスブドーラの声にも戸惑いが現れている。そして少しのいらだちも。
《皇帝陛下》の望みは速やかに叶った。ほんのわずかの間のうちに、列席していたすべての者らが退室したのだ。
がらんとなった謁見の間に残されたのは《皇帝》と《奴隷の少年》、そして近衛隊長シンケルスのみである。
最後の一名が退室して扉が閉じる音がしてから、玉座からまたのしのし、さらさらという音が聞こえはじめた。足音が近づいてくるに従って、床がどすどすと揺れるのが分かる。
目の前の床に影が落ちたかと思ったら、そこにふくよかな膝がどしんと突かれた。
「……皇帝陛下にあらせられますか」
少年はやっと目を上げた。
ぶくぶくと醜く太りきったにきびだらけの青年が、豪華な衣服に埋もれるようにしてこちらを見つめて座り込んでいた。
どこもかしこも以前のままの醜い姿。だがただ一点、恐らく以前とはあきらかに違うところがあった。
(瞳が……)
そうなのだった。
この《皇帝》は瞳がとても優しくて美しかった。以前であれば飽食の挙げ句、どろんと濁った生気のない目をしていたはずだ。わがままで無責任で性に奔放な子どもじみた皇帝。それが以前の自分だったと認めるのは正直胸が苦しくなる。なるが、それが事実なのだから仕方がなかった。
だが今の《皇帝》には鼻持ちならない性格など微塵も見えない。そうして、いまは奴隷の少年に過ぎない自分に向かってただただ謙虚に頭を下げている。
「こ、このたびは……まことに申し訳もなきことにございます。このようなことになってしまって」
「あ……いや。そんな」
それは別に、インセク少年の責任でもないだろう。
「大変なご苦労をなさったでしょう。その穢れた体では、まわりの人々からひたすらに蔑まれるばかりでしたから……僕も」
「いや……えっと」
少年は戸惑いすぎて、自分でも何を言っていいのかわからなくなった。
いや、本当はあれこれと考えていた。この場になったら、「よくも私から王位を簒奪してくれたな」などと散々にこの少年を詰り、非難の限りを浴びせてやろうとさえ息巻いていた。しかし。
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