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第一章 転生
4 近衛隊長シンケルス
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「待ってください。わっ、私は本当は、こ──こ、こ」
皇帝だぞ。本物の皇帝だぞ。
みな、その場に控えおろう。無礼なるぞ!
そこにいるのはニセモノだ。
私こそが真の皇帝──!
そう叫ぼうとした時だった。唇が急にひきつり、喉からあらゆる水分が蒸発したようになった。次いで、ひどい痛みがやってくる。
「む、ぐぐ……うううっ」
どうなったのかよく分からない。とにかく、うまくしゃべれなくなったのだ。少年は息が吸えないのと痛みとで真っ青になり、必死に喉や胸をかきむしった。
どうしてだ。なぜしゃべれない?
兵士はうんざりした顔で少年を見下ろした。
「なんだその顔は。まさか不服だとは言うまいな」
「う、うぐううっ」
「貴様、ありがたく思えよ。閣下はいかに身分の低い奴隷が相手とはいえ、決して無体な真似をなさる方ではない。もしもこのままほかの貴族どもに与えられてみろ。散々に無茶をされて、三日と生きていなかった奴隷がいくらでもいるのだ。せいぜい可愛がっていただくのだな」
言って兵士は、少年の腰を縛っていた革ひもの端を恭しくシンケルスに差し出した。
愕然として見上げると、見下ろしてくる氷のようなシンケルスの灰色の双眸とまともに目が合った。
(なんてことだ。なんてこと……!)
性奴隷だと!
この、皇帝ストゥルトたるこの私が……!
少年はふたたび眼前が暗くなった。そして文字通りくらりとめまいを覚えたかと思ったら、あっさりと意識を手放していた。
◆
目が覚めたとき、少年は柔らかな寝具の上に寝かされていた。
なんだか全身にひからびたような感覚がある。喉がひりひりと痛んで、ようやく気を失う前のことを思い出した。
(そうだ。私は──)
いそいで起き上がろうとしたが、あまりうまくいかない。手足に力が入らないのだ。結局、かなり時間をかけて上体を起こし、柔らかい絹地の上掛けから抜けだして床に足をのばした。
皇帝だった自分がもともと寝ていたものほどの豪華さはなかったが、やはり天蓋のついた広い寝台である。部屋の調度もごく地味な色目で統一され、落ち着いた雰囲気だ。
一瞬「男の部屋」という単語が脳裏をかすめて、なぜか胸がどきんと高鳴る。日よけ布を通して入ってくる光の加減から、もう夕刻の時間ではないかと思われた。
少年はきょろきょろと周囲を見回しながらそっと寝台をおりると、部屋のすみの丸テーブルに駆けよった。その上の水差しを目ざとく見つけたのだ。喉がもうからからだった。
「んく、んくっ……」
水差しから金属製のカップに注ぐ手間も惜しかった。少年は直接、陶製の水差しから喉をならして存分に飲んだ。口のはしからびしゃびしゃと水がこぼれるのにも構ってはいられなかった。
やっとひと心地がつき、手の甲で口もとをぬぐいながらふと見ると、すぐ脇に布のかかった皿がある。布をとりのけると、羊肉と芋や豆などを煮込んだスープが置かれてあった。少年はそばの匙をひっつかむと、無我夢中でそれを食べた。乾きが癒されたら、つぎに満たすのは空腹である。
ごく素朴な味のスープだったが、冷めていても美味かった。全身に力がみなぎってくるようだ。がつがつと食事に夢中になっているうちに、そいつは忍び寄ってきていたらしい。
「たいした食欲だな。安心した」
「ひいいっ!」
いきなり声が降ってきて、少年は猫の子みたいに跳びあがった。食器もなにもかも放り出し、驚いた拍子にカップなどもはねとばして寝台にとんで戻る。文字通り猫かなにかがやるように、頭から上掛けにつっこんで体を隠した。
やっと目だけを出してうかがうと、扉を背にして長身の男が腕組みをし、傲然と立っていた。こちらを見下ろしている男の冷ややかな眼光とかちあうと、少年の背にはぞうっと鳥肌がひろがった。
「ひいっ!」
もちろん近衛隊長シンケルスだ。
少年はびっくりしてまた上掛けに隠れたが、あっさりとそれを取り上げられてしまった。
「猫の子のかくれんぼか。いい加減にしろ」
さも面倒くさげな物言いだった。そしてなぜか、男の声はやや疲れて聞こえた。
少年は寝床から反対側へ転がり落ちるようにして逃れると、次のかくれ場所をさがして窓際の日よけ布まで走った。
派手ではないが分厚い織り地をぐるぐると体に巻きつけ、歯をむきだして、せいいっぱい男を睨む。
「くっ、来るな。来るんじゃない!」
「別に行かぬ」
男はやっぱり面倒くさそうだった。
そして少年の方を見ようともせず、肩から紺地のマントを外して無造作に近くの椅子に放り投げた。
皇帝だぞ。本物の皇帝だぞ。
みな、その場に控えおろう。無礼なるぞ!
そこにいるのはニセモノだ。
私こそが真の皇帝──!
そう叫ぼうとした時だった。唇が急にひきつり、喉からあらゆる水分が蒸発したようになった。次いで、ひどい痛みがやってくる。
「む、ぐぐ……うううっ」
どうなったのかよく分からない。とにかく、うまくしゃべれなくなったのだ。少年は息が吸えないのと痛みとで真っ青になり、必死に喉や胸をかきむしった。
どうしてだ。なぜしゃべれない?
兵士はうんざりした顔で少年を見下ろした。
「なんだその顔は。まさか不服だとは言うまいな」
「う、うぐううっ」
「貴様、ありがたく思えよ。閣下はいかに身分の低い奴隷が相手とはいえ、決して無体な真似をなさる方ではない。もしもこのままほかの貴族どもに与えられてみろ。散々に無茶をされて、三日と生きていなかった奴隷がいくらでもいるのだ。せいぜい可愛がっていただくのだな」
言って兵士は、少年の腰を縛っていた革ひもの端を恭しくシンケルスに差し出した。
愕然として見上げると、見下ろしてくる氷のようなシンケルスの灰色の双眸とまともに目が合った。
(なんてことだ。なんてこと……!)
性奴隷だと!
この、皇帝ストゥルトたるこの私が……!
少年はふたたび眼前が暗くなった。そして文字通りくらりとめまいを覚えたかと思ったら、あっさりと意識を手放していた。
◆
目が覚めたとき、少年は柔らかな寝具の上に寝かされていた。
なんだか全身にひからびたような感覚がある。喉がひりひりと痛んで、ようやく気を失う前のことを思い出した。
(そうだ。私は──)
いそいで起き上がろうとしたが、あまりうまくいかない。手足に力が入らないのだ。結局、かなり時間をかけて上体を起こし、柔らかい絹地の上掛けから抜けだして床に足をのばした。
皇帝だった自分がもともと寝ていたものほどの豪華さはなかったが、やはり天蓋のついた広い寝台である。部屋の調度もごく地味な色目で統一され、落ち着いた雰囲気だ。
一瞬「男の部屋」という単語が脳裏をかすめて、なぜか胸がどきんと高鳴る。日よけ布を通して入ってくる光の加減から、もう夕刻の時間ではないかと思われた。
少年はきょろきょろと周囲を見回しながらそっと寝台をおりると、部屋のすみの丸テーブルに駆けよった。その上の水差しを目ざとく見つけたのだ。喉がもうからからだった。
「んく、んくっ……」
水差しから金属製のカップに注ぐ手間も惜しかった。少年は直接、陶製の水差しから喉をならして存分に飲んだ。口のはしからびしゃびしゃと水がこぼれるのにも構ってはいられなかった。
やっとひと心地がつき、手の甲で口もとをぬぐいながらふと見ると、すぐ脇に布のかかった皿がある。布をとりのけると、羊肉と芋や豆などを煮込んだスープが置かれてあった。少年はそばの匙をひっつかむと、無我夢中でそれを食べた。乾きが癒されたら、つぎに満たすのは空腹である。
ごく素朴な味のスープだったが、冷めていても美味かった。全身に力がみなぎってくるようだ。がつがつと食事に夢中になっているうちに、そいつは忍び寄ってきていたらしい。
「たいした食欲だな。安心した」
「ひいいっ!」
いきなり声が降ってきて、少年は猫の子みたいに跳びあがった。食器もなにもかも放り出し、驚いた拍子にカップなどもはねとばして寝台にとんで戻る。文字通り猫かなにかがやるように、頭から上掛けにつっこんで体を隠した。
やっと目だけを出してうかがうと、扉を背にして長身の男が腕組みをし、傲然と立っていた。こちらを見下ろしている男の冷ややかな眼光とかちあうと、少年の背にはぞうっと鳥肌がひろがった。
「ひいっ!」
もちろん近衛隊長シンケルスだ。
少年はびっくりしてまた上掛けに隠れたが、あっさりとそれを取り上げられてしまった。
「猫の子のかくれんぼか。いい加減にしろ」
さも面倒くさげな物言いだった。そしてなぜか、男の声はやや疲れて聞こえた。
少年は寝床から反対側へ転がり落ちるようにして逃れると、次のかくれ場所をさがして窓際の日よけ布まで走った。
派手ではないが分厚い織り地をぐるぐると体に巻きつけ、歯をむきだして、せいいっぱい男を睨む。
「くっ、来るな。来るんじゃない!」
「別に行かぬ」
男はやっぱり面倒くさそうだった。
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