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23 変転
しおりを挟む《貴様っ……レシェント!》
「俺をもうその名で呼ぶな」
《なに?》
「そりゃあ、このミッションのための偽名だろ。……お互いによ」
そうだった。この時点をもって自分はミッション用の名である「レシェント」を捨て、今後は「トラヴィス」に戻ろうと考えていたのだ。
「お前、考えが甘すぎたんだよ。皇帝ちゃんに言ったんだってな?『イヌワシ・チームや本部を説得する』ってよ。アホかっつーの」
《…………》
「あのな。お前がいつまでもそうやってゴネるんなら、あいつら最悪、お前を殺す気でいたんだかんな?」
これは事実だ。
人類全体の未来とエージェント一人の命。天秤に掛ける選択肢すら存在しないそんな話を、こいつは無理にも通そうと考えていた。
だが甘い。自分に言わせれば甘すぎる。そんな真正面からの力業だけでは潜り抜けられない局面というのは確かにあるのだ。
「当然だろ? この『未来』は、俺らがやっとつかんだ希望の糸だ。どんだけの費用と命をぶっこんできたと思ってんだ。俺らエージェントがあんだけ苦労して、やっと地球から脱出できる未来をつかみ取った。お前、それを無にするつもりだったのかよ」
《いや……ちがう》
「なんも違わねえんだよッ!」
トラヴィスは突然声を荒らげ、コンソールをブッ叩いた。隣にいた医療チームのメンバーが「ひいっ」と悲鳴をあげて飛びすさる。が、そんなものはガン無視だ。
「いいか。せっかくつかみ取ったこの『希望の糸』を逃すようなリスクはいっさい犯せねえ。どんな小さな齟齬も許さねえ。これは本部の一致した意見だった。当然だわな?」
《…………》
「で、そうなるぐらいならワガママなエージェントの一人や二人、消すこともやむなし、ってわけだ。クソッ!」
再び力任せにコンソールを殴りつけて、遂に「や、やめてくださいっ!」と必死の形相で医療スタッフに止められた。手首を握られた拳が怒りのあまりにまだビリビリ震えている。
頬を凍り付かせて黙り込んだモニター内の男の顔を見ているうちに、沸騰していた血が少しずつ落ち着いてきた。それでもようやく出たのは、笑みのまじった溜め息だけだ。
これほど表情のわかりにくい、頭に「バカ」がつくほどの朴念仁男が、いろんな障害を乗り越えてやっと見出した大切な存在。それを心ならずも、こんな風に引き裂かねばならなかった。この男の気持ちの一部を、それでもある程度は理解していたはずの自分が。ほかならぬ自分自身が。
……だれより、この男の命を守るために。
だれがこの葛藤を理解すると言うのだろう。
しかし。
「悪い。ちゃんと覚悟はしてっからよ。あとで好きなだけ殴りゃあいい。ほかの奴はともかく、俺のことは……な」
言ってやや凹んでしまったコンソールを離れ、レシェント──いや、今やトラヴィスに戻った男はくるりと踵を返した。そのまま背中へ投げられるスタッフの声を無視して、ポケットに両手を突っ込み、足早にセンターを後にする。
周囲を歩いている医療チームの面々も、街を歩く一般の人々も、まるでライオンのようなこの風貌をひと目見ると自然と道をあけた。
すでになつかしさすら覚える銀色を基調とした未来世界の街並みを、じっくり味わう余裕さえまだない。
自分は本部に対して、まだまだ山ほどの報告書をあげねばならないからだ。まだ使い物にならないシンジョウの分は、自分とリュクスとで手分けして行っている状態である。多忙の上にも多忙の状況。
その上、未来社会におけるいわゆる「マスコミ」も、「英雄」に祀り上げられてしまった自分たちを放っておくつもりはないようだった。まだ、すんでのところで本部が止めてくれている状態ではあるが、自分のところにも次々に取材の申し込みが舞い込んでいる。これから多忙になることは目に見えていた。
◆
それから数日後。様々な健康チェックを完了して、ようやくシンジョウが退院してきた。
結論から言えば、彼はトラヴィスを殴ることはなかった。
本部から与えられたトラヴィスの仮住まいに現れたシンジョウは、厳しい目つきで扉の前に立っていた。ほとんど「仁王立ち」というやつだ。
「よお。やっと来たのか」
いつもどおり軽い声で迎え入れたトラヴィスに、男は大股で近づいて来た。
殴られることは覚悟の上だった。だからトラヴィスはにやにや笑いながらも下腹に力を入れて待ち受けていた。
だが、いつまで待っても期待した重いパンチはやってこなかった。
(……うお!?)
むしろ凄まじい力で抱きしめられている自分を発見して面食らった。
「な……な~にをやってんのよ、お前は……」
肩透かしを食らいすぎて変な声が出る。
少し格好がつかない。いや、だいぶつかない。
「すまなかった。今回の件では、お前……いや、トラヴィス隊長には色々とご迷惑をお掛けしました」
男はただそれだけを言って、トラヴィスに向かって深々と一礼をしてきた。
(おいおい……)
なにかあちこちがくすぐったい。
「てめえ。もーちょっとカッコつけさせろや、俺に」
トラヴィスはしかたなく締まりのない笑みを返し、彼を自分の巣へと誘った。
一応彼には、「俺のことは二、三発殴ったことにしといてくれや」と釘を刺すことも忘れなかった。
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