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第十一章 岩倉邸グラント将軍御前仕合
刺客肉迫
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強い――。
舞台上で激しく撃ち合う二人の男は、隼人の眼から見ても恐ろしいほどの遣い手だ。
木剣といえど達人が振るえば真剣と遜色のない殺傷力をもつ。
命を賭した斬り合いさながらの勝負を、主賓のグラント将軍も食い入るように見詰めていた。
自ら戦場を駆けた生粋の軍人である彼には、眼前で繰り広げられる東洋の剣闘に感じるところがあるのだろう。
だが、国内でもほぼ知られていない秘伝の武術をわざわざ披露する理由に、隼人は気が付いていた。
この時すでに武士の表芸であった剣術・槍術・弓術をはじめとする武芸十八般、ことごとく旧時代の遺物とする風潮が蔓延していたのだ。
もはや戦闘の趨勢を決めるのは個人の武技ではない。銃火器の性能と、統率された兵の数が結果となって表れる。
だが先頃の西南戦争でその考えにも変化が訪れていた。
薩摩兵による抜刀突撃の戦果から、近代兵の白兵戦でも剣術の有効性が再評価される動きがあったのだ。
特にもっとも薩摩兵と剣で斬り結んだ経験を持つ警視庁では戦後に剣術・柔術訓練の気風が勃興し、のちに「警視流」と呼ばれる独自の流派を創設するに至る。
これは薩摩の示現流を含む全国各派から採用した技をまとめたもので、剣術と立居合が制定された。
また「警視拳法」と称する柔術・捕縄術・活法からなる逮捕術も鍛錬され、警察官の格闘能力向上が企図されることとなってゆく。
これらが歴史の表舞台における武術復興の動きとすれば、今まさにグラント将軍の御前で行われている仕合はその裏側といえよう。
剣術者二名の立ち合いは勝負がつかなかった。
差配役の「やめ」の声で引き下がったが、そもそも勝ち負けではなく自流の技前を実戦形式で知らしめるのが主旨の催しだ。
その後も陸続と、あらゆる術の遣い手たちが舞台上で秘術の限りを尽くした。
大刀の技だけではない。小太刀、棒、十手、鎖鎌、薙刀、素手……まさしく武術の博覧会といっていい。
流儀は違うが、草介がかつて由良乃について学んだ杖術も披露された。
瞠目する思いの隼人の横で、当の草介もかぶりつくようにして仕合を観ている。
隼人は内心、草介のもつ鋭敏な観察眼に舌を巻いていた。
西南戦争の終盤に薩摩の山中で東堂隊と交戦した際、草介は薬丸自顕流の遣い手と剣を交えて生き延びている。
後でそれとなく尋ねたところ、隼人が一度だけ見せた無陣流の技を真似て受け流したというではないか。
無論、見ただけで誰でも使えるような術ではない。
しかし草介にはそうした「見取り」の能力と、死地においてその感覚に身を委ねられる胆力がある。
今目にしている技の数々も、この瞬間にも己が物としているのではないかとさえ隼人は思う。
その一方で、グラント将軍をはじめとする貴賓席周辺の異様なまでの警備体制の厚さも目に付いた。
将軍らが国賓待遇ゆえであることはいうまでもない。むしろその横に陣取っている、右大臣・岩倉具視の護衛も同等以上の重要性をもっているのだろう。
岩倉卿はこれより5年程前、皇居から屋敷への帰路で刺客の襲撃を受けている。世にいう「赤坂喰違の変」だ。
不平士族の矛先が直接向けられた事件で、卿は馬車を降りて橋から飛び降り、濠に身を潜めて難を逃れたという。
こののち1878(明治11)年には内務卿・大久保利通が紀尾井坂で暗殺されており、いまだ政府要人は身の危険と隣り合わせであったのだ。
岩倉卿とて、命を狙われる心当たりは枚挙に暇がないだろう。
隼人も草介も会場に入る際には厳重な検査を受けている。舞台上で仕合う武術者たちの道具もすべて運営で管理するという徹底ぶりだ。
が、隼人は入念な警備を前にしてなお、チリチリと嫌な胸騒ぎを覚えるのだった。
差配役が、次に仕合う者たちを呼び上げた。
東西から階を上ってきた両者が手にしているのは、六尺ほどの手槍だ。
かつて武勲の華として戦働きの象徴だった槍術だが、近代戦でも銃剣の扱いに応用できる部分が多く再評価が進んでいる術の一つといっていいだろう。
六尺という長さは槍としては短い部類だが、初めて観る草介は目を輝かせている。
そして刃挽きではあろうが、穂先には実戦同様の真槍が光っていた。
立ち合いが始まった。
実に精妙な操作で互いの正中線を取り合い、突くだけではなく擦り込み、張り、叩き、巻き、そして反対側の石突を返して打つなど多彩な技の応酬だ。
会場の皆が魅了されている。
いつの間にか舞台上で回り込んだ二人は、丁度グラント将軍の視点から一直線に並ぶ位置になった。
その瞬間に奥の男が突如として猛烈に突き込み、手前の者が舞台上から素っ飛ばされた。
どよめきが上がり、会場の視線が転がり落ちる男に向けて注がれた。
だがその刹那。
舞台上の男は柄を逆手に持ち替えると、全身を発条にして槍を投げ打った。
唸りを上げて一直線に飛ぶ槍の先には、英雄と称された元大統領が座っていた。
舞台上で激しく撃ち合う二人の男は、隼人の眼から見ても恐ろしいほどの遣い手だ。
木剣といえど達人が振るえば真剣と遜色のない殺傷力をもつ。
命を賭した斬り合いさながらの勝負を、主賓のグラント将軍も食い入るように見詰めていた。
自ら戦場を駆けた生粋の軍人である彼には、眼前で繰り広げられる東洋の剣闘に感じるところがあるのだろう。
だが、国内でもほぼ知られていない秘伝の武術をわざわざ披露する理由に、隼人は気が付いていた。
この時すでに武士の表芸であった剣術・槍術・弓術をはじめとする武芸十八般、ことごとく旧時代の遺物とする風潮が蔓延していたのだ。
もはや戦闘の趨勢を決めるのは個人の武技ではない。銃火器の性能と、統率された兵の数が結果となって表れる。
だが先頃の西南戦争でその考えにも変化が訪れていた。
薩摩兵による抜刀突撃の戦果から、近代兵の白兵戦でも剣術の有効性が再評価される動きがあったのだ。
特にもっとも薩摩兵と剣で斬り結んだ経験を持つ警視庁では戦後に剣術・柔術訓練の気風が勃興し、のちに「警視流」と呼ばれる独自の流派を創設するに至る。
これは薩摩の示現流を含む全国各派から採用した技をまとめたもので、剣術と立居合が制定された。
また「警視拳法」と称する柔術・捕縄術・活法からなる逮捕術も鍛錬され、警察官の格闘能力向上が企図されることとなってゆく。
これらが歴史の表舞台における武術復興の動きとすれば、今まさにグラント将軍の御前で行われている仕合はその裏側といえよう。
剣術者二名の立ち合いは勝負がつかなかった。
差配役の「やめ」の声で引き下がったが、そもそも勝ち負けではなく自流の技前を実戦形式で知らしめるのが主旨の催しだ。
その後も陸続と、あらゆる術の遣い手たちが舞台上で秘術の限りを尽くした。
大刀の技だけではない。小太刀、棒、十手、鎖鎌、薙刀、素手……まさしく武術の博覧会といっていい。
流儀は違うが、草介がかつて由良乃について学んだ杖術も披露された。
瞠目する思いの隼人の横で、当の草介もかぶりつくようにして仕合を観ている。
隼人は内心、草介のもつ鋭敏な観察眼に舌を巻いていた。
西南戦争の終盤に薩摩の山中で東堂隊と交戦した際、草介は薬丸自顕流の遣い手と剣を交えて生き延びている。
後でそれとなく尋ねたところ、隼人が一度だけ見せた無陣流の技を真似て受け流したというではないか。
無論、見ただけで誰でも使えるような術ではない。
しかし草介にはそうした「見取り」の能力と、死地においてその感覚に身を委ねられる胆力がある。
今目にしている技の数々も、この瞬間にも己が物としているのではないかとさえ隼人は思う。
その一方で、グラント将軍をはじめとする貴賓席周辺の異様なまでの警備体制の厚さも目に付いた。
将軍らが国賓待遇ゆえであることはいうまでもない。むしろその横に陣取っている、右大臣・岩倉具視の護衛も同等以上の重要性をもっているのだろう。
岩倉卿はこれより5年程前、皇居から屋敷への帰路で刺客の襲撃を受けている。世にいう「赤坂喰違の変」だ。
不平士族の矛先が直接向けられた事件で、卿は馬車を降りて橋から飛び降り、濠に身を潜めて難を逃れたという。
こののち1878(明治11)年には内務卿・大久保利通が紀尾井坂で暗殺されており、いまだ政府要人は身の危険と隣り合わせであったのだ。
岩倉卿とて、命を狙われる心当たりは枚挙に暇がないだろう。
隼人も草介も会場に入る際には厳重な検査を受けている。舞台上で仕合う武術者たちの道具もすべて運営で管理するという徹底ぶりだ。
が、隼人は入念な警備を前にしてなお、チリチリと嫌な胸騒ぎを覚えるのだった。
差配役が、次に仕合う者たちを呼び上げた。
東西から階を上ってきた両者が手にしているのは、六尺ほどの手槍だ。
かつて武勲の華として戦働きの象徴だった槍術だが、近代戦でも銃剣の扱いに応用できる部分が多く再評価が進んでいる術の一つといっていいだろう。
六尺という長さは槍としては短い部類だが、初めて観る草介は目を輝かせている。
そして刃挽きではあろうが、穂先には実戦同様の真槍が光っていた。
立ち合いが始まった。
実に精妙な操作で互いの正中線を取り合い、突くだけではなく擦り込み、張り、叩き、巻き、そして反対側の石突を返して打つなど多彩な技の応酬だ。
会場の皆が魅了されている。
いつの間にか舞台上で回り込んだ二人は、丁度グラント将軍の視点から一直線に並ぶ位置になった。
その瞬間に奥の男が突如として猛烈に突き込み、手前の者が舞台上から素っ飛ばされた。
どよめきが上がり、会場の視線が転がり落ちる男に向けて注がれた。
だがその刹那。
舞台上の男は柄を逆手に持ち替えると、全身を発条にして槍を投げ打った。
唸りを上げて一直線に飛ぶ槍の先には、英雄と称された元大統領が座っていた。
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