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第十一章 岩倉邸グラント将軍御前仕合

秘曲と裏仕合

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1879(明治12)年7月8日――。

右大臣・岩倉具視は丸の内馬場先門内の自邸に、ユリシーズ・グラント将軍を招いていた。
旧江戸城、現在の皇居の目と鼻の先である。
この日、和洋心づくしの料理と共に、グラント将軍のため能と狂言の披露が行われたのだ。
維新の動乱、そして幕藩体制の崩壊により、能楽師たちも禄を失って衰退の一途を辿っていた。
しかしこの外国からの貴賓をもてなすため、当代随一の名手が一堂に会したのだった。

半能「望月」は宝生九郎、狂言「釣狐」は三宅庄市、能「土蜘蛛」は金剛泰一郎。
さらには「花筐」「春栄」「鞍馬天狗」「猩々」といった仕舞も演じられ、観世清孝・梅若実・梅若六郎・梅若万三郎がそれぞれ舞台に立った。

この様子を、武者溜まりとなった控えの空間から隼人と草介はじっと見ている。
任那少佐から届いた招待状はもちろんこの後の非公式な二部のものであるが、思わぬ観能に二人はすっかり魅入られてしまっていた。
初めて能を観る草介に詳しいことは分からないが、隼人が粗筋を説明してくれるので物語は追ってゆける。
しかし理屈を超えた圧倒的な演の力を前にして、訳もわからず魂が揺さぶられるような感覚に呑み込まれるばかりだ。

最後の曲が終わると、万雷の拍手が巻き起こった。
グラント将軍をはじめ来賓もいたく興を惹かれた様子で、しばしこの極東の古典演劇が醸す幽玄の世界に遊ぶことができたようだ。
因みに能・狂言はこれを機に「国劇」として復興し、その総称を能楽と呼ばれるようになってゆくのだった。

と、能舞台の周囲の設えが替えられた。
岩倉家の紋である笹竜胆をあしらった幔幕が張り巡らされ、濃くなった夜の闇に合わせて篝火が大きく焚かれた。
仮設の舞台に屋根はない。目を凝らせば無数の星々が天蓋となっているのだろう。
公式な記録には残らない、裏の二部開演の合図だ。

まずは一曲、歴史の裏で伝えられてきた能が舞われるという。

橋掛かりから、翁の面をかけたシテが進み出てきた。
顔はもちろん分からないが、任那征士郎少佐が演じているはずだ。
流派の名前すらない、紀伊の秘曲「高倉下たかくらじ」。
無論、隼人も初めて観るものだが、熊野にまつわるこの神話はよく知っている。
グラント将軍一行向けに用意された英語の案内を、草介にも訳して聞かせた。

日向を発ったのち、長い旅の果てに紀伊へとたどり着いた神武天皇一行。
しかし熊野の神の力を前に、その軍は山中を突破できずにいた。
そこへ一人の男が一振りの剣を捧げ持って現れる。
高倉下たかくらじと名乗った男は夢で神託を得、高天原から遣わされた神剣・布都御霊ふつのみたまを託されたのだという。
神武はこの剣の力で熊野を抜け、やがて大和へと至るのだった――。

高倉下を演じる任那少佐の重厚で荘厳な動作。一切の隙もない、神がかった舞い。
神々から託された剣を手に熊野の杜を走り、傷付いた神武に恭しく献上する国津神の翁。
高く鋭く打ち鳴らされるつづみ、緊迫感を煽るように叫ぶ横笛の能管、神話の情景をありありと描写する地謡じうたい
舞台は混然一体となって、神代の昔の物語を人々の眼前に現出させた。

草介も、そして隼人でさえも、魂が遊離したように夢幻の世界に惹き込まれていた。

神剣を手に熊野の奥へと向かうワキの神武が橋掛かりへ引き、その後を音もなく高倉下――任那少佐が続いてゆく。

拍手が巻き起こった。岩倉卿はおろか、グラント将軍までも立ち上がって惜しみない喝采を送っている。
鳴り止まない万雷の中、やがて東西から舞台へと至るきざはしが架けられ裃姿に短刀を手挟んだ壮年の男が進み出てきた。どうやら差配役のようだ。

東西とざい、東西ーい。東西ーい、東西とざい、東西ーい」

皆々様御静粛に、といった意味を込めた東西声が響き渡り、ついに二部の武術上覧の幕が切って落とされた。
呼び出しに従って舞台に上がった男たちの手には木剣。
定められた攻防の動作を繰り返す鍛錬用の“かた”ではなく、防具も着用せぬ撃ち合いの勝負のようだ。

「かたや、和泉の秘太刀。こなた、兵法大峰流」

グラント将軍が見守る席に向けて一礼した男たちは向かい合い、それぞれの木剣を中段に構える。

「はじめっ!」

空を裂く差配役の声と同時に、対峙する東西の剣士が裂帛の気合を発した。
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