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第十章 追憶観桜

献杯の春

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「――で、その後なのかい。紀伊の軍に入ったってぇのは」

幾度も隼人の猪口に差した酒が切れ、空になった徳利を耳元で振りながら草介が尋ねた。
心地よく酔ったようでいながら、いまだなお頭は冴えて物語の続きを所望している。

「ああ。維新後の藩治職制に版籍奉還、目まぐるしく世が変わっていく中でどの国も藩政改革は急務だった。そのうち重要な事案の一つが兵制だ。その頃はまだ、日の本全体としての常備軍はなかったのでな」

猪口を脇に置き、隼人が燻銀の顎髭を撫でた。
まださほど長い付き合いではないが、草介にとってはすっかり見慣れた仕草だ。
だが出会った頃より、もう少し白くなってしまっていることには気が付いている。

「紀伊は幕末からすでに洋式兵を採用していたが、江戸表と本国では組織そのものが違っていた」
「なんでぇそりゃあ」
「江戸ではフランス式、本国ではオランダ式ののちイギリス式。これらを一つにしようにも反目しあって、なかなか上手くはいかなんだのだ」
「てんでバラバラってわけかい」
「まさしくな。そこで兵制の統一を主導したのが、津田いずる閣下……現在の陸軍少将だ。津田閣下は紀伊の兵制をプロイセン式にすることを決め、明治2年、1869年の11月にカール・ケッペンという元プロシア軍人を教官として雇い入れた。その交渉には陸奥宗光卿があたっておられたな」
「また陸奥のおいちゃんかよ。しぶてぇなあ」

隼人は少し笑ったが、陸奥卿の「しぶとい」ことは否定しない。
当時の記憶が、ありありと蘇ってくる。

「当時のプロイセンはオーストリアを撃破し、欧州で強国として台頭していた。彼らの使った銃がドライゼだ。ケッペン教官は当初ドライゼの弾薬を内製化するための技術指導に来られたのだが、やがて軍制そのものの指導を任されるようになったのだ」
「それではーさんはプロシアの言葉やら英語やら習ったってのかい」
「うむ。訓練はすべてプロシア語だったな。Marschマルシュは進メ、haltハルトは止マレ。草鞋は行軍に向かぬということで洋靴になり、軍服と合わせてそれらを作るプロイセンの職人も招かれた。眠るのは寝台ベッド、食事には牛肉が出された」

この軍は日本初の徴兵制によって営まれ、薩摩や長州など国内はおろか、アメリカ・イギリス・プロイセンといった海外諸国も観兵に訪れている。
非常に注目された近代兵制だったが明治4年の廃藩置県により、戍営じゅえいと呼ばれたこのプロイセン式紀伊軍は解体され一部は鎮台兵などに編入されていく。

「――で、その後が御留郵便御用ってわけかい」
「ああ」

草介は、この五十がらみの男に対して抱く畏敬の念の正体が分かったような気がしていた。
激動という言葉すら生ぬるい歴史の、生き証人。
剣の強さや孤高の風格だけでなく、そうした時代のうねりを乗り越えてきたことに純粋な凄みを感じていたのだ。

風が吹いた。
残っていた猪口の中身も乾し、しばし途切れた会話。
だがはらはらと零れる桜花に目を細める老剣士と若者は、共に充足していた。
と、岬に続くこみちの奥から、土を踏む足音が聞こえてきた。
それに気付いた草介が「おう、こっちこっち!」と手招きしている。

「由良乃どの」

まさかの訪問に驚いた隼人は、いつの間にか崩していた膝を揃え威儀を正した。

「片倉先生、草介さん。お帰りなさいませ」

墓参を思ってであろうか身に着けている着物は控えめだが、娘らしく結い上げた髪は軽やかで、そこにもう一輪花が咲いたかのようだ。

「草介、どうやって連絡を」
「へへっ、電報ってやつ打ってみたのさ」
「電報?いつの間に……」
「あのしとたちにおせえてもらってよ」

見ると由良乃の後から、明光丸の高柳艦長、岡本副長、成瀬ドクター、そしてしのぶが続いてきている。
隼人は、言葉もなかった。

「ちょうどいいあんべぇだよう!さっき酒切らしちまってよう」
「これはお供えです!なんですか草介さん、ふらふらではありませんか」

わいわいと騒がしい若者たちを前に、隼人はもう一度まきの墓に目をやった。

――賑やかだ、まき。

一際強く風が巻いて、花びらが渦になった。

――俺はこの通りだよ。もう少し……そちらへ参るのはもう少し先になるやもしれぬ。
それまでは、精々走り続けるよ――。

春の日はただ暖かく、海空の青がどこまでも広がっていた。
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