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第九章 南龍のドライゼ
散華に添う文
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少し背を丸めるようにして、大きな男が実に大切そうに手紙へと目を落としている。
花林糖のような太い眉の下でどんぐり眼が大きく見開かれたり、細められたり、豊かな感情を隠そうともせず夢中で文を読んでいるのだ。
元・陸軍大将、西郷隆盛――。
邪気の無い、堅肥りの巨躯。
さすがに面やつれして砂鉄をまぶしたような無精髭を生やしているが、その魂が童子の如く無垢であることを見る者の心に刻み付ける魅力がある。
隼人と草介が、ついに大久保利通から西郷に宛てた手紙を届けた先は鹿児島城裏手、城山の洞窟であった。
西郷は読み終えた文から目を上げると、まるで子どものような笑みを振り向けた。
――1877(明治10)年8月28日、薩軍は日向・小林に到着し政府軍を駆逐。以降政府軍の邀撃をかわしつつ9月1日、とうとう鹿児島城への入城を果たしたのだった。
だが城山に籠城する薩軍戦力、その数372名。
そのうち戦える者を10隊に分けて城山の守備に当たったが、政府軍は参軍・山縣有朋中将の方針によりこれを大軍で押し包んだ。
その兵、実に8個旅団約5万名。
300名ばかりとなった薩摩の将兵らを5個旅団が包囲し、あとの3個は後詰の第二線を張るという念の入れようだ。
異常、といって差し支えない様相。
だが、このもはや位詰めともいえぬ長囲には最後の願いのようなものが込められていることを、戦場にあるすべての者が感じ取っていた。
西郷隆盛という存在。
歴史を俯瞰する身からは、とてもこの人間一人の重さを推し量ることは困難であろう。
しかし薩軍側も政府側も、この男の代え難き価値を惜しんだ。
9月22日、薩軍から二人の使者が城山南西の新照院越方面に展開していた別働第一旅団の哨戒線に姿を現した。
使者は河野主一郎と山野田一輔。彼らが面会を願ったのは同じ薩摩出身の、海軍中将・川村純義だった。
翌日に川村への面会が叶った薩摩側の願いは、端的にいえば西郷の助命嘆願だ。
薩軍決起の理を述べ、西郷の命だけは長らえるよう訴えた。
だが、すでに翌早暁の総攻撃は決定事項であった。
川村は攻撃中止はあり得ないとしつつも、この日17時までに西郷が訪問するならば言い分を聞くという体裁で機会を設けた。
使者のうち河野主一郎の身柄を預かり、山野田一輔にその言伝てを託して薩軍へと帰還させたのだ。
この時山野田は何通か西郷宛の書状も預かっている。
そして先の戦闘を生き延びて前線に待機していた隼人と草介もこの機を捉え、彼に随行する形で共に西郷の元を訪れたのだった。
「――回答無用」
川村からの伝言を聞いた西郷は、ただ一言そう声を発した。
起居する洞穴には、村田新八や桐野利秋ら主だった将が参集している。
西郷の言葉は、この場で全員が散華するという意思表示だった。
続いて、山野田が預かった西郷宛ての書状類に目を通してゆく。
「山縣さぁがの」
山縣有朋から届いた手紙を読み終え、西郷は居並ぶ将らを見回した。
「おいに“ないごて腹ば切らんか”ち言うちょりもすなあ」
困ったように太い眉を下げる御大将に、皆がどっと笑った。
草介がこの洞穴にやって来てから感じている違和感の正体。それは、これが最期だと分かっているはずの薩軍部隊に蔓延するからりとした明るさだ。
これから命を散らすのだという気負いも悲壮感もまるでない。
何が彼らをそうさせるのか。
それはやはり、この西郷隆盛とその屋台骨を支える男たちの気性としかいいようがないのだろう。
そして、西郷は大久保利通の手紙を手に取った。
少し押し戴くようにしてから封を開き、丁寧に、丁寧に、文面を目で追ってゆく。
西郷は読み終えた文から目を上げると、まるで子どものような笑みを――。
「一どんがの……」
その後の薩摩言葉は、隼人にも草介にも聞き取れなかった。
だが西郷の発した語を受けて、場はより一層に沸いた。
どっ、と最前より大きな笑い声が響き、手を打って喜んでいる者もいる。
隼人はその様子を端座して見守り、草介はぐっと唇を嚙みしめた。
「じゃっどん。そいにしてん、政府軍の布陣の見事なこつ」
「おお、猫の子一匹逃しもはんな」
「そん通りじゃ」
将らが口々に、敵であるはずの政府軍を称えている。
鎧袖一触と断じた、惰弱と思われた兵たちが自分たちをここまで追い詰めた。
心からそれを寿いでいるのだ。
「これならば、どんな敵がきても日本は心配いりませんな」
村田新八卿がしみじみと呟き、皆が笑顔で頷いている。
「……郵便屋さぁ。ほんのこて、おやっとさぁじゃした。ないもお構いできもはんが、焼酎がちびっと残っちょりもす」
隼人と草介に向き直った西郷が、傍らの徳利を掲げてみせた。
労いの言葉に、将兵らもわっと楽しそうな声を上げる。
だが、草介は我慢ならなかった。
「おい、てめえら」
憤然と立ち上がり、ばんっ、と足を踏み出して西郷はじめ薩摩の将らを睨み下ろした。
「さっきから何がおかしれぇってんでえ!」
西郷が、どんぐり眼をさらに丸くして草介を見上げた。
花林糖のような太い眉の下でどんぐり眼が大きく見開かれたり、細められたり、豊かな感情を隠そうともせず夢中で文を読んでいるのだ。
元・陸軍大将、西郷隆盛――。
邪気の無い、堅肥りの巨躯。
さすがに面やつれして砂鉄をまぶしたような無精髭を生やしているが、その魂が童子の如く無垢であることを見る者の心に刻み付ける魅力がある。
隼人と草介が、ついに大久保利通から西郷に宛てた手紙を届けた先は鹿児島城裏手、城山の洞窟であった。
西郷は読み終えた文から目を上げると、まるで子どものような笑みを振り向けた。
――1877(明治10)年8月28日、薩軍は日向・小林に到着し政府軍を駆逐。以降政府軍の邀撃をかわしつつ9月1日、とうとう鹿児島城への入城を果たしたのだった。
だが城山に籠城する薩軍戦力、その数372名。
そのうち戦える者を10隊に分けて城山の守備に当たったが、政府軍は参軍・山縣有朋中将の方針によりこれを大軍で押し包んだ。
その兵、実に8個旅団約5万名。
300名ばかりとなった薩摩の将兵らを5個旅団が包囲し、あとの3個は後詰の第二線を張るという念の入れようだ。
異常、といって差し支えない様相。
だが、このもはや位詰めともいえぬ長囲には最後の願いのようなものが込められていることを、戦場にあるすべての者が感じ取っていた。
西郷隆盛という存在。
歴史を俯瞰する身からは、とてもこの人間一人の重さを推し量ることは困難であろう。
しかし薩軍側も政府側も、この男の代え難き価値を惜しんだ。
9月22日、薩軍から二人の使者が城山南西の新照院越方面に展開していた別働第一旅団の哨戒線に姿を現した。
使者は河野主一郎と山野田一輔。彼らが面会を願ったのは同じ薩摩出身の、海軍中将・川村純義だった。
翌日に川村への面会が叶った薩摩側の願いは、端的にいえば西郷の助命嘆願だ。
薩軍決起の理を述べ、西郷の命だけは長らえるよう訴えた。
だが、すでに翌早暁の総攻撃は決定事項であった。
川村は攻撃中止はあり得ないとしつつも、この日17時までに西郷が訪問するならば言い分を聞くという体裁で機会を設けた。
使者のうち河野主一郎の身柄を預かり、山野田一輔にその言伝てを託して薩軍へと帰還させたのだ。
この時山野田は何通か西郷宛の書状も預かっている。
そして先の戦闘を生き延びて前線に待機していた隼人と草介もこの機を捉え、彼に随行する形で共に西郷の元を訪れたのだった。
「――回答無用」
川村からの伝言を聞いた西郷は、ただ一言そう声を発した。
起居する洞穴には、村田新八や桐野利秋ら主だった将が参集している。
西郷の言葉は、この場で全員が散華するという意思表示だった。
続いて、山野田が預かった西郷宛ての書状類に目を通してゆく。
「山縣さぁがの」
山縣有朋から届いた手紙を読み終え、西郷は居並ぶ将らを見回した。
「おいに“ないごて腹ば切らんか”ち言うちょりもすなあ」
困ったように太い眉を下げる御大将に、皆がどっと笑った。
草介がこの洞穴にやって来てから感じている違和感の正体。それは、これが最期だと分かっているはずの薩軍部隊に蔓延するからりとした明るさだ。
これから命を散らすのだという気負いも悲壮感もまるでない。
何が彼らをそうさせるのか。
それはやはり、この西郷隆盛とその屋台骨を支える男たちの気性としかいいようがないのだろう。
そして、西郷は大久保利通の手紙を手に取った。
少し押し戴くようにしてから封を開き、丁寧に、丁寧に、文面を目で追ってゆく。
西郷は読み終えた文から目を上げると、まるで子どものような笑みを――。
「一どんがの……」
その後の薩摩言葉は、隼人にも草介にも聞き取れなかった。
だが西郷の発した語を受けて、場はより一層に沸いた。
どっ、と最前より大きな笑い声が響き、手を打って喜んでいる者もいる。
隼人はその様子を端座して見守り、草介はぐっと唇を嚙みしめた。
「じゃっどん。そいにしてん、政府軍の布陣の見事なこつ」
「おお、猫の子一匹逃しもはんな」
「そん通りじゃ」
将らが口々に、敵であるはずの政府軍を称えている。
鎧袖一触と断じた、惰弱と思われた兵たちが自分たちをここまで追い詰めた。
心からそれを寿いでいるのだ。
「これならば、どんな敵がきても日本は心配いりませんな」
村田新八卿がしみじみと呟き、皆が笑顔で頷いている。
「……郵便屋さぁ。ほんのこて、おやっとさぁじゃした。ないもお構いできもはんが、焼酎がちびっと残っちょりもす」
隼人と草介に向き直った西郷が、傍らの徳利を掲げてみせた。
労いの言葉に、将兵らもわっと楽しそうな声を上げる。
だが、草介は我慢ならなかった。
「おい、てめえら」
憤然と立ち上がり、ばんっ、と足を踏み出して西郷はじめ薩摩の将らを睨み下ろした。
「さっきから何がおかしれぇってんでえ!」
西郷が、どんぐり眼をさらに丸くして草介を見上げた。
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