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第八章 ハヤヒトの国

熊本城攻囲の夜

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「ひでぇ……」

そう言ったきり絶句した草介の眼前に広がるのは、砲煙に覆われた熊本鎮台の本拠・熊本城だ。
すでに2月23日深更。日付も変わろうかという夜の闇に赤々と燃える炎が、城のあちこちを照らしている。
砲火で類焼した樹々や家屋が篝火となり、痛ましく穿たれた城壁を浮かび上がらせていた。

西郷隆盛は2月15日付で熊本鎮台司令長官・谷干城たてき少将宛てに、政府問責の趣意書を送っていた。
軍を発するゆえ通行の際に鎮台は薩軍の指揮下に入るよう、陸軍大将名義での一方的な通告だったといえる。
この書状は同19日に届いたが、同日には既に太政大臣・三条実美により「賊徒征討令」が発せられていた。
幕末に錦の御旗を掲げた薩軍が、今度は賊軍と位置付けられたのだ。

薩軍実質上の司令官は陸軍少将・桐野利秋だったといえる。実際には複数存在する部隊長の合議によったともいえるが、その発言力・影響力は大であった。
北上のため熊本城攻略を企図した際、かつて熊本鎮台司令官を務めた桐野はその能力を取るに足らぬものと断じていた。
徴兵による鎮台兵の練度不足を熟知していた桐野は、まさしく鎧袖一触の体で陥落するものと高を括っていたのだ。

が、熊本鎮台は落ちなかった。谷少将以下約4,000の守備兵はその三分の二が徴募兵であったにもかかわらず、実によく持ち堪えている。
城外での戦闘も散発したが本城を落とすべく猛攻が加えられ、西端からの侵入口となり得る段山だにやまの掌握を巡って激戦が繰り広げられている。
薩軍は集中砲火を浴びせているが、攻撃から二日が過ぎた今も決定打を与えるには至っていない。

草介が見たのは、そうした激戦の渦中での巨大な爪痕の数々だ。

「今なら砲撃が少し止んじょりもす。おいが着任の報告と同時に、おまんさぁらぁを引っ捕らえたち体で村田先生に謁見ば求むると。その後のこつは頼み上げもす」

忠太は隼人と草介に手縄をかけ、袋に収めた二人の刀も担いだ。布陣している村田隊へと近付くと、哨戒の兵に向けて薩摩弁で何事かを大音声で呼ばわった。
すぐさま数人が駆け寄ってきて銃口をこちらへと向ける。訛りが強くて内容は分からないが、時折「村田せんせ」と聞こえることから手筈通りに事が運ぶよう必死で訴えかけているのだろう。

しばしの問答の後、忠太を先頭に隼人と草介は引っ立てられるように陣中へと通されていった。
そこかしこで焚かれている火明かりに、ある者は横たわりある者は殺気走った目を向ける兵たちの姿が照らされている。
ほどなく部隊の指揮所と思しき天幕が見えてきた。
するとその奥から何か笛のような、あるいは雅楽で使うしょうのような音色が聞こえてくる。
戦場にあってなお物悲しい、哀切な曲だ。

「村田先生」

天幕の奥、背を向けて楽器を奏でている男に忠太が声をかけた。
ぴたりと演奏を止めた手に持っているのは、一台の手風琴アコルディオンだ。
護衛の兵が警戒の目を光らせる中、男は品のある髭面をこちらに振り向けた。
野営の戦場においてもなお堂々としたフロックコート姿。
元宮内大丞にして薩軍二番大隊長、村田新八だ。
そして九州における御留郵便を統括するM卿の一人でもある。

「村田新八卿。駅逓局・御留郵便御用、片倉隼人にござります」
「同じく、草介でございやす」

この年の1月、駅逓寮は駅逓局へと名称を変更している。
突然の口上に護衛兵がジャキッと銃を上げたが、即座に村田卿がそれを手で制した。

「御留郵便……?剣客逓信か」

驚いた表情を見せたものの、すぐさま近侍の兵らを下がらせ人払いをした。
忠太にも目を留めたがその決死の表情からすべてを理解したのか、隼人と草介の手縄を解くことを命じ近くへ寄るよう手招きした。

「よくぞここまで。だが、詳細はいい。要件を伺おう」

賢人の雰囲気を持つこの男は、声を潜めて隼人と草介を交互に見た。
隼人は片膝をつき、制服の内かくしから取り出した書状を差し出す。

「郵便でござる」

黙って受け取った村田卿は差出人の筆跡に目を細め、焚火の仄かな明かりにかざしてその場で書面に目を通した。
その間、しばし。ぱちっ、と粗朶の爆ぜる音以外は不思議と何も聞こえない。

「龍馬君……」

文を読み終えた村田卿は、天を仰いだ。
書状に何が書かれていたのか、同じ生まれ年で幕末に命を散らした風雲児とどのような関係だったのか、隼人と草介には知る由もない。が、村田卿は端正な顔に悲し気な笑みを浮かべ、御留郵便二人に向き直った。

「すまない。私にはこの戦を止める力はなかった。いつ龍馬君の書状を受け取っていてもそれは変わらなかっただろう。だが……これを」

コートのポケットから取り出したのは、墨痕鮮やかな一通の文。

「頼む、剣客逓信。私にできる最後の足掻きだ。どうか」

その宛先には流麗な筆で、“大久保利通”と記されていた。
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