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第六章 昔がたり

嘉永六年の夢

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――黒い、巨大な船が四隻浮かんでいた。

浦賀を走り抜けようとしていた時、いつもとは明らかに異なる海に釘付けとなり足が止まった。

紀伊殿の御役で大切な書状を疾く届けねばならぬというのに、もう随分長いこと海を見続けてしまっている。

正確には海を、ではなく黒い船が浮かんでいるその現実を、だ。

何が起こっているのかはすぐに理解できたが、俺は心がそれに追い付かず、ただただ立ち尽くすのみだったのだ。

「どうすればいいのだ、俺たちは」

誰に言うともなく独りちた風を装い、その実は傍らに佇む男に向けて問いかける。

艶のある細い髪を総髪髷にしたその男は、細面の秀麗な顔をゆっくり俺に巡らせると薄く微笑んだ。

「あるがままさ。歴史の流れに」

ただそう言うとふいと顔を背け、道の先行きへと再び駆け出してゆく。

「待ってくれ、東堂」

俺は黒い船団を名残り惜しく横目で見つつ、慌ててその男の後を追った――。



「おはよ。隼人さん。急に起き上がっちゃだめよ」

夢から覚めて薄く目を開けた隼人の頭上には、しのぶの姿があった。
洋服ではなく、和装に白いたすきをかけた出で立ちで、隼人が身を起こさないようふんわりと額に手を当てて押さえている。

「――明光丸か」

見慣れた丸い船窓と天井材の模様から、すぐに自分が船室の寝台に横たわっていることが分かった。
が、直後に胸元に引き攣るような痛みが走り、息が詰まる。
そうだ。火の山の頂上で東堂靫衛と戦い、そして斬られて……その後は?

視線をさまよわせると、寝台の足元に寄りかかって由良乃が眠っている。
そして狭い床では仰向けになった草介が盛大ないびきをかいている。

「いい子たちね。あなたのお弟子さんは」

しのぶはそれだけしか言わなかったが、この老体のために若者たちが何をしてくれたのかは一目瞭然だ。

「弟子などではござらぬ」

瞑目した隼人は込み上げるものを懸命に抑えつつ、穏やかな表情で応える。

「仲間だ」


意識が戻った隼人と顔を合わせた草介と由良乃は、飛びついて喜びたいのをこらえてできる限り平静でいるよう努めていた。
ドクターからは傷口が塞がるまではなるべく動いてはならず、大量に血を失っているため体力が戻るまでは絶対安静をきつく言い含められていたためだ。
何くれとなく世話を焼こうとして入れ替わり立ち替わり二人が隼人の枕頭に侍っていたが、ほどなくしてその船室をおとなう者があった。
陸奥宗光卿だ。

「そのままでいい」

反射的に威儀を正そうとした隼人を手で制し、陸奥卿はその長身を少し折り曲げるようにして視線を向けた。

「まずは助かって何より。状況は全てこの二人から聞いた」

草介と由良乃を顎で示し、あまり感情を読み取れない平坦な声で短く見舞いの言葉をかける。

「君の命令違反が、結果的に君ら三人の命を救った。龍馬の書状は奪われはしたが」
「それがしの責にござる」

制止を振り切って隼人が身を起こし、頭を下げた。
しかし陸奥卿はそれにもかぶりを振って、再び楽にするよう命じた。

「死地とわかっていて君らを送ったのは私だ。敵の方がはるかに上手だったのだ。尾根の一本道での待ち伏せ。狙撃された場合にはすぐさま身を隠せる木立を背に、常に優位を保って戦った。それにもし君たち三人が一斉にかかっていたら、おそらく彼の仲間のもとまで誘い込まれて消されただろう」

あえて“仲間”という言葉を用いた陸奥卿には、敵が一人ではないことの確信があるようだった。
正確にこちら側の動きを把握していたこと、呼子笛による確固たる指揮系統があったこと、それにそもそも、明光丸を鞆の津沖で襲撃した不審船の罠は到底個人で扱えるものではない。

「敵の背後にはおそらく軍がいる。陸軍にも海軍にも、御留郵便を取り込んで乱を誘発しようとする勢力がいるのだ」

彫りの深い陸奥卿の面立ちに、昏い翳のようなものが差した。

「話してくれるかね、片倉。Y.Todo――東堂靫衛との因縁を」
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