上 下
15 / 104
第三章 博徒の雛と老剣士

霊泉の宵

しおりを挟む
岩風呂に滾々こんこんと湧いては注がれる熱い湯に体を滑らせ、草介は下町の年寄たちがそうしていたように長い呻き声を上げた。
「ぬあああ」とも「ぐわあああ」ともつかぬ爺むさい声と共に、体の芯に溜まってこびりついた疲労がゆるゆると溶け出していくかのようだ。

なにぶんにも御留郵便御用の配達任務では駆け通しで、しかも生命の危機にさらされるような立ち回りにもしばしば出っくわす。
秘境のような山間での湯治は、この務めでの貴重な骨休めだった。
もっとも主に戦うのは自分ではないが、それなりに体を張って天秤棒など振り回しているものだから、心身共に消耗しているのを後になって思い知るのだ。

少し遅れて湯に入ってきた男を横目で見ながら、常のこととはいえ瞠目する思いにいっかな慣れることがない。
おそらく自分の父親くらいの歳であろうこの片倉隼人という老剣士の身体には、動乱の時代を目に見える形にするとこうなるだろうと思わせる無数の傷跡が刻まれていた。
新しい傷、というのはほとんど見受けられない。
いずれも古く、肌色に風化してひそやかに在るだけだが、草介はついつい目が離せなくなってしまう。

「なにごとだ」

じっと見やる草介の視線に気付いた隼人が岩の浴槽で少し距離をとった。
そういう趣味を疑われたものかとおかしくなった草介だったが、無遠慮にずいっと近付く。

「いっつも思ってたけど…すっげえ傷だなぁ。維新の頃のかい」

隼人は一瞬自身の体に目を落としたが、すぐさま顔を上げて揺蕩う湯煙に視線をさまよわせた。

「その頃のものもあるし、もっと古いものもある」
「いつの傷、って覚えてるかい」
「ああ」
「全部?」
「全部だ。忘れはしない」

忘れようがない。そう小さく続けた言葉は、草介が立てた湯音に搔き消された。

「じゃあさじゃあさ、このでかい切り傷は?」
「武勲など一つもないぞ。傷自慢は好かん」
「いいじゃねぇかよ、減るもんでもねえし。ちっとくれぇ聞かせてくれよぅ」

隼人はなぜか、この博徒の雛みたいな男にねだられると多少甘やかす気になってしまう。
人徳などという綺麗な言葉では表せないが、ある種の可愛げのようなものが草介には備わっているようだ。

「これは儂が若い時分、七里飛脚の務め中に斬られたものだ」
「襲われたのかい。賊は斬った?」
「ああ。その時初めて人を斬った」

隼人は無意識に左の肩口に手をやり、ほんの少し遠い目をした。
紀伊の七里飛脚は龍があしらわれた半纏を羽織り、一本刀と朱房の十手を腰に備えて街道を駆けていた。
文字通り七里ごとに逓送するのが役目だが、城下に入る者は沿道に娘たちが詰めかけ、黄色い声を浴びせたものだった。
だが世情が不安定になっていた時代のこと、若かった隼人は賊徒の標的になることがあったのだ。

「こっちは弾の跡だよな。いつのだい」
「四境戦争。二度目の長州征討だ」

後にいう慶応元年(1865年)からの第二次長州征討は幕軍の大敗北に終わったことが知られている。
長州の近代化兵による戦術の前に鎧武者たちは太刀打ちできず、戦闘の様相を一変させた画期であったともいえよう。
御三家である紀伊の兵も当然参戦しており、隼人はそのうちの一隊で従軍していたのだという。
事実のみを端的に述べる隼人からはまだ多くのことを聞けていないが、草介は初めてこの老剣士と出会ったときのことを思い出していた。

郵便脚夫として勤めるきっかけともなった恩人の裏切りに動転していた草介に、隼人はただ一言、

「来るか」

と声をかけたのだった。
隼人からすれば、二人分の荷を担いで迅速に取扱所へ駆け戻った草介の判断力と脚の強さ、そしてほとんど反射的に敵の残弾数が零であることを伝えた機転を買ってのことだ。
それに何より、危機に遭ってそれを選べる責任感の強さにも感じ入っていた。
その時は隼人自身も組んでいた男に襲われてこれを斬り伏せていたため、草介の自ら生き延びる力を見込んだことも大きい。
だが、面と向かってはまだ本人にそれを伝えてはいない。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。

SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。 伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。 そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。 さて、この先の少年の運命やいかに? 剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます! *この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから! *この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

三國志 on 世説新語

ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」? 確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。 それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします! ※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

近江の轍

藤瀬 慶久
歴史・時代
全ては楽市楽座から始まった――― 『経済は一流、政治は三流』と言われる日本 世界有数の経済大国の礎を築いた商人達 その戦いの歴史を描いた一大叙事詩 『皆の暮らしを豊かにしたい』 信長・秀吉・家康の天下取りの傍らで、理想を抱いて歩き出した男がいた その名は西川甚左衛門 彼が残した足跡は、現在(いま)の日本に一体何をもたらしたのか ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載しています

処理中です...