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第三章 博徒の雛と老剣士
霊泉の宵
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岩風呂に滾々と湧いては注がれる熱い湯に体を滑らせ、草介は下町の年寄たちがそうしていたように長い呻き声を上げた。
「ぬあああ」とも「ぐわあああ」ともつかぬ爺むさい声と共に、体の芯に溜まってこびりついた疲労がゆるゆると溶け出していくかのようだ。
なにぶんにも御留郵便御用の配達任務では駆け通しで、しかも生命の危機にさらされるような立ち回りにもしばしば出っくわす。
秘境のような山間での湯治は、この務めでの貴重な骨休めだった。
もっとも主に戦うのは自分ではないが、それなりに体を張って天秤棒など振り回しているものだから、心身共に消耗しているのを後になって思い知るのだ。
少し遅れて湯に入ってきた男を横目で見ながら、常のこととはいえ瞠目する思いにいっかな慣れることがない。
おそらく自分の父親くらいの歳であろうこの片倉隼人という老剣士の身体には、動乱の時代を目に見える形にするとこうなるだろうと思わせる無数の傷跡が刻まれていた。
新しい傷、というのはほとんど見受けられない。
いずれも古く、肌色に風化してひそやかに在るだけだが、草介はついつい目が離せなくなってしまう。
「なにごとだ」
じっと見やる草介の視線に気付いた隼人が岩の浴槽で少し距離をとった。
そういう趣味を疑われたものかとおかしくなった草介だったが、無遠慮にずいっと近付く。
「いっつも思ってたけど…すっげえ傷だなぁ。維新の頃のかい」
隼人は一瞬自身の体に目を落としたが、すぐさま顔を上げて揺蕩う湯煙に視線をさまよわせた。
「その頃のものもあるし、もっと古いものもある」
「いつの傷、って覚えてるかい」
「ああ」
「全部?」
「全部だ。忘れはしない」
忘れようがない。そう小さく続けた言葉は、草介が立てた湯音に搔き消された。
「じゃあさじゃあさ、このでかい切り傷は?」
「武勲など一つもないぞ。傷自慢は好かん」
「いいじゃねぇかよ、減るもんでもねえし。ちっとくれぇ聞かせてくれよぅ」
隼人はなぜか、この博徒の雛みたいな男にねだられると多少甘やかす気になってしまう。
人徳などという綺麗な言葉では表せないが、ある種の可愛げのようなものが草介には備わっているようだ。
「これは儂が若い時分、七里飛脚の務め中に斬られたものだ」
「襲われたのかい。賊は斬った?」
「ああ。その時初めて人を斬った」
隼人は無意識に左の肩口に手をやり、ほんの少し遠い目をした。
紀伊の七里飛脚は龍があしらわれた半纏を羽織り、一本刀と朱房の十手を腰に備えて街道を駆けていた。
文字通り七里ごとに逓送するのが役目だが、城下に入る者は沿道に娘たちが詰めかけ、黄色い声を浴びせたものだった。
だが世情が不安定になっていた時代のこと、若かった隼人は賊徒の標的になることがあったのだ。
「こっちは弾の跡だよな。いつのだい」
「四境戦争。二度目の長州征討だ」
後にいう慶応元年(1865年)からの第二次長州征討は幕軍の大敗北に終わったことが知られている。
長州の近代化兵による戦術の前に鎧武者たちは太刀打ちできず、戦闘の様相を一変させた画期であったともいえよう。
御三家である紀伊の兵も当然参戦しており、隼人はそのうちの一隊で従軍していたのだという。
事実のみを端的に述べる隼人からはまだ多くのことを聞けていないが、草介は初めてこの老剣士と出会ったときのことを思い出していた。
郵便脚夫として勤めるきっかけともなった恩人の裏切りに動転していた草介に、隼人はただ一言、
「来るか」
と声をかけたのだった。
隼人からすれば、二人分の荷を担いで迅速に取扱所へ駆け戻った草介の判断力と脚の強さ、そしてほとんど反射的に敵の残弾数が零であることを伝えた機転を買ってのことだ。
それに何より、危機に遭ってそれを選べる責任感の強さにも感じ入っていた。
その時は隼人自身も組んでいた男に襲われてこれを斬り伏せていたため、草介の自ら生き延びる力を見込んだことも大きい。
だが、面と向かってはまだ本人にそれを伝えてはいない。
「ぬあああ」とも「ぐわあああ」ともつかぬ爺むさい声と共に、体の芯に溜まってこびりついた疲労がゆるゆると溶け出していくかのようだ。
なにぶんにも御留郵便御用の配達任務では駆け通しで、しかも生命の危機にさらされるような立ち回りにもしばしば出っくわす。
秘境のような山間での湯治は、この務めでの貴重な骨休めだった。
もっとも主に戦うのは自分ではないが、それなりに体を張って天秤棒など振り回しているものだから、心身共に消耗しているのを後になって思い知るのだ。
少し遅れて湯に入ってきた男を横目で見ながら、常のこととはいえ瞠目する思いにいっかな慣れることがない。
おそらく自分の父親くらいの歳であろうこの片倉隼人という老剣士の身体には、動乱の時代を目に見える形にするとこうなるだろうと思わせる無数の傷跡が刻まれていた。
新しい傷、というのはほとんど見受けられない。
いずれも古く、肌色に風化してひそやかに在るだけだが、草介はついつい目が離せなくなってしまう。
「なにごとだ」
じっと見やる草介の視線に気付いた隼人が岩の浴槽で少し距離をとった。
そういう趣味を疑われたものかとおかしくなった草介だったが、無遠慮にずいっと近付く。
「いっつも思ってたけど…すっげえ傷だなぁ。維新の頃のかい」
隼人は一瞬自身の体に目を落としたが、すぐさま顔を上げて揺蕩う湯煙に視線をさまよわせた。
「その頃のものもあるし、もっと古いものもある」
「いつの傷、って覚えてるかい」
「ああ」
「全部?」
「全部だ。忘れはしない」
忘れようがない。そう小さく続けた言葉は、草介が立てた湯音に搔き消された。
「じゃあさじゃあさ、このでかい切り傷は?」
「武勲など一つもないぞ。傷自慢は好かん」
「いいじゃねぇかよ、減るもんでもねえし。ちっとくれぇ聞かせてくれよぅ」
隼人はなぜか、この博徒の雛みたいな男にねだられると多少甘やかす気になってしまう。
人徳などという綺麗な言葉では表せないが、ある種の可愛げのようなものが草介には備わっているようだ。
「これは儂が若い時分、七里飛脚の務め中に斬られたものだ」
「襲われたのかい。賊は斬った?」
「ああ。その時初めて人を斬った」
隼人は無意識に左の肩口に手をやり、ほんの少し遠い目をした。
紀伊の七里飛脚は龍があしらわれた半纏を羽織り、一本刀と朱房の十手を腰に備えて街道を駆けていた。
文字通り七里ごとに逓送するのが役目だが、城下に入る者は沿道に娘たちが詰めかけ、黄色い声を浴びせたものだった。
だが世情が不安定になっていた時代のこと、若かった隼人は賊徒の標的になることがあったのだ。
「こっちは弾の跡だよな。いつのだい」
「四境戦争。二度目の長州征討だ」
後にいう慶応元年(1865年)からの第二次長州征討は幕軍の大敗北に終わったことが知られている。
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事実のみを端的に述べる隼人からはまだ多くのことを聞けていないが、草介は初めてこの老剣士と出会ったときのことを思い出していた。
郵便脚夫として勤めるきっかけともなった恩人の裏切りに動転していた草介に、隼人はただ一言、
「来るか」
と声をかけたのだった。
隼人からすれば、二人分の荷を担いで迅速に取扱所へ駆け戻った草介の判断力と脚の強さ、そしてほとんど反射的に敵の残弾数が零であることを伝えた機転を買ってのことだ。
それに何より、危機に遭ってそれを選べる責任感の強さにも感じ入っていた。
その時は隼人自身も組んでいた男に襲われてこれを斬り伏せていたため、草介の自ら生き延びる力を見込んだことも大きい。
だが、面と向かってはまだ本人にそれを伝えてはいない。
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