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第10章 臨海学校と真白良媛の悲恋。蘇る西牟婁の牛鬼たち

牛鬼と心

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文化財調査のサポートという名目で一時離れていたわたしは、市街で歴史クラブのメンバーおよび岩代先生と合流する手はずだった。

たしか自由行動のタイミングで、これなら指定の集合時間に十分間に合いそうだ。

と、ユラさんの車から、琴の滝の下流にあたる川沿いを手をつないで歩く男女の姿が認められた。
昨夜浜辺で見かけた生徒のカップルだ。

見つかったらなんだか気まずいかなあ、などと思っていた、その時――。

向こう岸から次々と黒い膜のようなものが立ち上がり、にわかに泡だった川面の一部が隆起していった。

「そんな…まさか……!」

驚愕するユラさんの視線の先には、川から屹立する巨大な牛の頭が。そしてその身体は、女郎蜘蛛のような禍々しい姿をしている。

「牛鬼……!」

生徒たちを見つけた牛鬼は八本の肢を蠢かし、岸へと這い上がろうとしていた。
が、2人には妖異の姿も異空間の黒い膜すらも見えていないのか、まったく異変に気付いた様子はない。

ユラさんはアクセルを踏み込み、強引に牛鬼と生徒たちとの間に車を滑り込ませようとした。
が、瞬間的に長く伸ばされた牛鬼の舌が、何としたことか生徒たち2人の影を舐め取ってしまった。

「くっ!あかんっ!!先生、あの子らを車ん中へ!!」

車から見えたのは、倒れ込む生徒たちの痛苦に歪むその顔。
刹那の間に人の姿をとったコロちゃんマロくんとともに、すごい勢いで軽バンのドアを開けて2人を中に担ぎ込んだ。

再びドアを閉める直前に急発進したものの、今度は牛鬼の舌が車の影へと伸びていた。

ガクンとスピードを落として止まってしまった車は、何度キーを回してもエンジンがかからない。
牛鬼の呪いは命のないものにまで影響するというのか。

「闘わなあかんか…。護法さん、合力願います。どうにもならんときは結界開くさかい、子どもらと先生をあわいの外へ!」
「ユラさん、わたしも!」

いつもひそませている檜扇を握りしめ、わたしも一緒に外へ飛び出そうとした。
けれどユラさんはそれを押し留め、

「万が一のとき、闘える人がこの子らに付いといたらな。大丈夫、任せといて」

そう言い残して、一人車から降り立った。

「あかりんはここで!」
「この子たちを守ってあげて!」

コロちゃんとマロくんが、一ツ蹈鞴と闘ったときのような大型犬くらいの獣の姿に変じてユラさんの後を追う。
臍を噛む思いだけれど、わたしの務めはたしかにこの子たちを守ることに違いない。

ユラさんもその手に檜扇を握り、牛鬼に向けて走り込んでゆく。
閉じた扇そのものが柄となり、霧雨のような白い霊気の粒子が凝集して太刀の姿を象ろうとしている。

が、次の瞬間、まったくあらぬ方向からユラさん目がけて鋭い爪が振り下ろされた。

間一髪でそれをかわしたユラさんだったけれど、川から上がってきたものの他にもう一体、いつの間にか牛頭の妖異が気配もなく這い寄っていたのだ。

こちらはその身体が虎のような、あるいは巨大な猫のような姿をしている。

牛鬼が、2体も――。

2大精霊が牙を剥き、吼えた。

が、再び激しく泡立った川面を割って、あろうことか更にもう一体、巨人のような体躯をもつ牛鬼が出現した。

ユラさんと2大精霊はあわいの黒い膜の内側で、3体もの牛鬼たちに包囲されてしまった。

「そんな…なんで……」

3体の牛鬼と闘うユラさんたちを前に、思わずそう独りごちていた。
たしかに琴の滝の再地鎮は完了して、そこの牛鬼は八塩折の酒で鎮まったはずだ。

けれどいま現実に、種類の違う牛鬼たちが襲ってきたのだ。
わたしは以前に読んだ、紀伊の牛鬼伝承のことをようやく思い出していた。

紀伊にはこのすさみ町だけではなく、各地に牛鬼の存在が伝わっている。
牛の頭をもつことは共通しているものの、それぞれに身体は異なっていてまさしく目の前の3体がそのバリエーションだ。

なかには2体に分裂して、うち1体が美女に化けて人間を誘い込むというパターンも記述されていた。
しかし、紀伊各地の伝承にある牛鬼がこうもピンポイントに集まって同時に襲撃してくるなんて――。

歴戦の結界守であるユラさんと2大精霊だけど、戦力を三分割されて苦戦を強いられている。
蜘蛛型はカワウソ姿のマロくん、虎型は猫のコロちゃん、そして鬼型はユラさんと、巧妙に体格差で勝るよう相手取っているようだ。
ユラさんの檜扇から伸びる霊気の刃は鬼の肉体に通らず、2大精霊の爪も牙もそれぞれの牛鬼に届かない。

やがてじりじりと3人はあわいの中心へと追い込まれ、牛鬼たちがそれを取り囲む形となった。
ユラさんたちが激しく消耗している様子が見て取れ、いたたまれない。

ユラさんが呼吸を整え、檜扇の刃を構え直したその時――。

川面が、もう一度激しく泡立った。

が、それに鋭敏な反応を示したのは、3体の牛鬼たちだった。
瞬間的にそちらへ牛頭を振り向け、攻撃の手を止めてしまっている。

水面に浮かび上がったのは、想像もしなかったものだった。

「あの時の――?」

それは先夜ユラさんが食べ物と飲み物を差し出した、女性の姿のあやかし。
そして彼女は見る間に变化して、3体よりもさらに大きな蜘蛛型の牛鬼が出現した。

「みんな!逃げ――」

わたしが絶叫すると同時に、大牛鬼は水面を蹴って跳躍した。
それはユラさんたちのいる場所へと凄まじい勢いで飛び来たり、空中で肢を一閃させるとすれ違いざまに鬼型の首を刎ねた。

巨大な牛頭が宙を舞い、川に向けて倒れた身体から一瞬遅れて大量の血が噴き上がる。

大牛鬼は着地と同時にさらに残り2体へと鋭利な肢を突き立て、勝負は瞬きする間に決してしまった。

「助けてくれたん……ですか…?」

驚愕の目で見上げるユラさんを前に、大牛鬼はぐらりと体勢を崩して、みるみるうちにその身体を萎ませていった。
あとに倒れていたのは、まさしくあの女性だった。

赤い水煙のようなものを吹き上げながら、牛鬼たちが蒸発してゆく。
そしてその女性もまた、徐々に身体が消滅していっている。
駆け寄って抱き起こしたユラさんを一瞬見上げ、その人は最後ににこっと笑うと完全に蒸発してしまった。

思い出した。
紀伊の牛鬼伝承には、人を助けた事例も残っていたのだ。

昔ある若者が飢えた女に食べ物を分けた。
後日、災害で濁流に飲まれた若者の前にその女が現れ、妖異の本性を現して彼を救った。
女の正体は牛鬼で、恩に報いたものの人を助けた妖異は蒸発する定めだったという――。

あわいの黒い膜が晴れていき、恐ろしい妖異たちはみな消え去った。
呪いを受けた2人の生徒は無事で、牛鬼の消滅によって解呪されたのか穏やかな表情となっている。

上空に最後の黒膜が消えようという一瞬、その裂け目からじっとこちらを見下ろしている者たちが見えた。

鈴木秀。そして、シララさん――。

だが彼らは膜とともに消え、あとにはユラさんが牛鬼だった女性を抱きかかえた時の姿のまま、涙を流していた。
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