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第10章 臨海学校と真白良媛の悲恋。蘇る西牟婁の牛鬼たち

きこし召せ

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かなわぬ恋を胸にひっそりと生きた少女の伝説。

その想いに引き寄せられるように、また多くの者の念がこの地には凝集している。

生徒たちを連れて巡る史跡の数々は、わたしにとってすべてが初めて訪れる場所だった。
けれども行く先々でどういうわけか、ずっと前にもここに来たかのような既視感に包まれていた。

わたしの祖先は紀伊の人だったという。
この血に眠るその記憶が、南紀という土地に呼び起こされているのだろうか。

白浜の千畳敷や、熊野水軍の舟隠しだったとされる三段壁、熊野三所神社に境内の火雨塚古墳……。
そのどれもがわたしの心を揺り動かす。

岩代先生が昔教えた卒業生が経営している旅館は、浜のすぐ側にあった。
毎年恒例で歴史クラブの生徒たちを受け入れていることもあり、1年生の子たち以外は勝手知ったる打ち解けた雰囲気だ。

修学旅行と違って少人数で、部活としての統率もばっちりとれているため、

「雑賀先生、なんやったら飲みに行ってってもええさかいよ」

と夕食のあと岩代先生がこっそり言ってくれて苦笑してしまう。
ぜひそうしたいけど、これでも教員のはしくれなのでお酒はやめておく。
その代わり、一応の消灯時間の10時を過ぎた頃、夜の海辺へと散歩に出かけさせてもらった。

旅館は繁華街をはずれたちょっと穴場的な場所にあり、浜辺もほとんど人の影がない。
街灯は少なく控えめで、びっくりするくらい星空がよく見える。
沖の漁火は暗い水平線の彼方で星々と溶け合い、海はまるで天球の一部かのようだ。

と、防波堤の影により添い、星空を眺める男女の姿があった。
街灯の薄明かりに一瞬だけ見えたその顔は、たしかに歴史クラブの生徒だ。

どうしよう。

戻りなさいと声をかける?

逡巡したのはまさしく刹那のことで、わたしはなるべくなにげない風を装ってそのまま通り過ぎた。

わたし普通の観光客ですー。星につられて夜のお散歩してるだけですー。

そんな気配を醸し出そうとしている時点でもう怪しいのだけど、若い二人の姿が有間皇子と真白良媛に重なってしまったのだ。

教員としては失格なのかもしれない。夜の浜辺に子ども達だけでいるのを放置するなんて。そう責められても仕方ない。

でも、彼ら彼女らには今この一瞬がすごく大切な時間に決まっているではないか。
わたしはなるべく目の届く範囲で(でもじろじろ見ないように)落ち着ける場所を探してきょろきょろしてみた。

するとどうだろう。
海沿いの遊歩道の先にうっすら明かりがともっており、どうやら何かの移動販売の車のようだ。
何か飲み物でも売ってるかもと思い、生徒たちの方を気にしながらてくてくと近付いていった。

ああ、そうだ。念のため岩代先生には状況をメールしとこう。先生ならきっと、わたしの判断も尊重してくれるはずだ。

全貌が見えてきた車には、タープを張って椅子を3脚だけ並べたカウンターのようなものが設えられている。
まるでバーを屋台にでもしたかのような。
そう思っていると……

「いらっしゃいませ」

ふいに影から現れた人に、思わずヘンな声が出てしまった。

「ユラさん!なんで!?」
(しーっ。あの子らに見つかったらあかんのやろ)
(おっ、ほぶっ……、な、にゃ、にゃんでここに?)
(もちろん再地鎮のために来たんもあるけど、岩代先生に頼まれて。毎年だいたい何組かカップルできてこの浜辺でデートするさかい、こっそり見守ったってほしいって。せやけどあかり先生も見回りなんて、なかなか先生らしいやん)
(え。あは…えへへ)

小声ですっとぼけたことを言いつつ、わたしはすっかり安堵していた。
なんだあ、大人たちしっかりしてるじゃない。

安心したところで、まったく思いもしない場所でユラさんに会えたことが嬉しくなっていそいそと屋台の椅子に腰掛ける。

明かりの下に移ったユラさんは、ネクタイにウエストコートというバーテンダーの正装。
夜の海辺でbar暦の出張屋台だなんて、なんて素敵なんだろう!

「あ。でも飲めないんだった……」

急に現実に戻って、ちょっと悲しくなってしまった。
そうだ、わたし教員。いまは引率の身。

「ノンアルコールのカクテルもあるんよ」

涼やかな声で、ユラさんが事もなげに言う。

「えっ、うそ!そんなのあるんですか?」
「もちろん。ミルクセーキやレモネードもその一種といわれてるさかい。お酒だけがカクテルと違うんよ」

例えばこんなん。
そう言ってユラさんはシェーカーに赤いシロップとジンジャーエール、そして氷を入れてしゃくしゃくしゃくと目の前でシェークしてくれた。
これほんとにかっこいい。

大振りで縦長のタンブラーに注がれたのは、たっぷりのクラッシュドアイスが涼しげなピンク色のカクテル。

「どうぞ。"シャーリー・テンプル"です」

アメリカ映画史上もっとも有名ともいわれる名子役の名が付けられたこの飲み物は、かわいらしい色と冷たく爽やかな味わいが夏の夜にぴったりだった。

「この赤いのんはグレナデン・シロップ。昔はザクロと砂糖でつくったらしんやけど、今はカシスやニワトコの実で色付けしてるみたい。ほんまはシャンパングラスで出すことが多いんやけど、のど渇いてるやろから」

やばいやばい。すごくおいしい。
アルコールは入ってないけど、ほんとうにカクテルの雰囲気を満喫できる。
これなら浜辺の生徒たちに注意を払いつつ、楽しんじゃってもだいじょうぶそう。

と、ユラさんが反対方向の暗い浜辺に目を凝らしている。
つられてわたしもそちらを見やると、誰かがそこにうずくまっているようだ。

「あの子は……」

ユラさんが呟き、先生ちょっと待っててな、と言い残してそっちへすたすた向かっていってしまった。

ほどなく戻ってきた彼女は、傍らに誰かをいざなってきていた。
それは若い女性のようで、俯き加減の表情はよく見えないけれど、ランプ調の灯りの下でもそうとわかるほどに頬がこけていた。

「どうぞ。お掛けください」

ユラさんがやさしく椅子へと導き、備え付けの冷蔵庫から食材を取り出して素早くサンドイッチをこしらえた。
そしてカクテル、以前に日本酒でつくってくれたモスコ・ミュールのバリエ、キイ・ミュールを添えてその女性の前にことんと置いた。

「どうぞ……。"きこし召せ"」

ユラさんのその言葉を聞いて、わたしははっとした。

そうか。
この人……。

人間ではないんだ。
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