17 / 72
第4章 空海の大蛇封じと、裏高野の七口結界
裏高野
しおりを挟む
なんだか久しぶり、というよりはきっぱりとまだ2回目だ。「bar 暦」のカウンター席に着くのは。
なので白いシャツにネクタイ、そしてウエストコートというバーテンダー姿のユラさんを見るのも、これが2回目。
まったくあたり前のことなのだけど、初めて彼女に会ったときのこの衣装への印象がすごく強くて、なんともいえない感慨のようなものを感じてしまう。
「あかり先生、なに飲まはる?」
「うーん、何かさっぱりしたのがいいです」
「ほいたらモスコ・ミュール…のバリエは?」
「お願いします!」
長身に長い黒髪をきりりと束ねたユラさんが、くるくるとお酒を調えてくれる。
ハンサムな顔にほのかな笑みを浮かべていて、すごく楽しそうだ。
「どうぞ。モスコ・ミュールのバリエーション、"キイ・ミュール"です」
"モスクワのラバ"という意味を持つオリジナルは、ウォッカとライムジュース、そしてジンジャーエールをステアするのが一般的なレシピだ。
でもユラさんが出してくれたこのキイ・ミュールは、ひと口含むとさっぱりしつつもふくよかな風味が広がっていく。
「ウォッカならモスコ・ミュール、テキーラならメキシカン・ミュール。バーボンだとケンタッキー・ミュールで、和歌山の地酒やとキイ・ミュールやね」
わたしはユラさんの説明に思わず笑いながら、同じものをもう一杯つくった彼女と乾杯した。
瀬乃神宮が経営しているこのお店は、普段は「cafe 暦」の看板を出して喫茶店をしている。
けれど、あやかしが絡むお話や紀伊の結界に関わる相談事を受ける時だけ、バーとしてひっそりとオープンするのだった。
わたしがグラスにもう一度口をつけようとした時、かりんこりんっ、とドアベルがレトロな音を立てた。
入ってきたのは年季の入ったスラックスに腕まくりしたシャツ、赤いネクタイ姿の中年男性だった。
「おう。梅雨時近いんかして、なんやよう冷えらなあ」
地元の言葉全開で元気よく席に着いたのは、わたしにここのことを教えてくれた歴史課の大先輩、岩代先生だ。
「いらっしゃいませ。岩代先生、いつものでええやんな?」
ユラさんが親しげに声をかけ、カウンター下の冷凍庫からきんきんに冷えたウイスキーの瓶を取り出した。
それをストレートでショットグラスになみなみ受けた先生は、きゅーっと冷酒でもあおるように飲み干してしまう。
"うわばみ"という言葉を思い出して、わたしはひとり忍び笑いをもらした。
かなり無頼な感じのこの人は中世史の専門家で、近隣の古文書解読などを一手に引き受ける研究者でもある。
瀬乃神宮との関わりも古く、結界守の秘密を知る数少ない人物の一人だ。
けれど、わたしが陵山古墳や妖刀の件で危険な目に遭ったことを知って、いたく気にかけてくれていたのだった。
「せやけど、こないなった以上は確かにオサカベさんの言う通りじょ。ユラさんらと一緒におったしか、なんぼか安心やして」
そう言って、わたしのことをよくよく頼んでくれたのも岩代先生だったそうだ。
見た目はバンカラだけれども、ものすごく面倒見がよくて在学生ばかりか卒業生からもいまだに慕われているのだ。
「ほんでねえ、今日寄せてもろたんはほかでもないんよ。ユラさん、ちょっと高野山へいてってくれへんか」
「いてって」が「行ってきて」の意味だと遅れて気付いたわたしにもわかるように、岩代先生がゆっくり語ったところによるとこうだ。
山と海に囲まれた紀伊の国には名だたる霊場があり、常時結界が張り巡らされている。
もちろんそこには、ユラさんのような結界守の存在も欠かせない。
しかし今、紀伊の各所で同時にいくつかの結界が力を弱め、あやかしの引き起こす怪異な事件が県下で多発しているのだという。
先日の陵山古墳に出現した鬼たちや、妖刀となった南紀重國の封印が簡単に解かれたのも、どうやら結界の弱体化が関係しているらしい。
「裏高野の七口でも突然結界が破れたとこがあって、ほれ、黒河道の龍仙寺さんじょ。あっこは先だって住職代わって、先代の孫が継いだんやけど、少々頼んないらしんよ。顔合わせがてらに、結界張り直すんてっとうたってよ」
それを聞いたユラさんは、カウンター下から一冊の和綴じ本を取り出した。
わたしが初めてここに来たとき見せてもらった、「完全な暦」だ。
ユラさんの細い指が頁の上をすうっと滑って、文字列をなぞっていく。
「杣山入吉日……。甲辰…丙午…丙子…丙辰…丙寅…丙戌…丁未…戊寅…戊申…己酉…庚辰…庚戌…辛酉…壬申…壬寅…癸未…癸丑…癸巳……」
なにやら呪文にしか聞こえないけれど、おそらく日ごとに割り振られた十干十二支の組み合わせだ。
"六十干支"と呼ばれるこれは陰と陽、そして木・火・土・金・水の"五行"の属性関係を表しているという。
本来は陰陽道で日々の吉凶や行動を占うために用いられ、現在では詳しいカレンダーにその痕跡が残っている。
そういえば子どもの頃、おばあちゃんちにあった日めくりカレンダーにはそんなことが載っていたような気がする。
よくわからずに眺めていたけれど、ユラさんが結界守の仕事を行う際には本来の暦である"旧暦"から日取りを決める必要があるとのことだ。
このお店の「暦」という名は、ユラさんの前任者がそうしたことから命名したのだという。
綴じ本の頁の一点でユラさんの指がぴたりと止まり、ゆっくり円を描いた。
「あかり先生。次の週末、あいてはる?」
地名とか固有名詞とかほとんどわからないことばかりだったのだけれど、かくしてわたしはユラさんにくっついて高野山を訪れることになったのだった――。
なので白いシャツにネクタイ、そしてウエストコートというバーテンダー姿のユラさんを見るのも、これが2回目。
まったくあたり前のことなのだけど、初めて彼女に会ったときのこの衣装への印象がすごく強くて、なんともいえない感慨のようなものを感じてしまう。
「あかり先生、なに飲まはる?」
「うーん、何かさっぱりしたのがいいです」
「ほいたらモスコ・ミュール…のバリエは?」
「お願いします!」
長身に長い黒髪をきりりと束ねたユラさんが、くるくるとお酒を調えてくれる。
ハンサムな顔にほのかな笑みを浮かべていて、すごく楽しそうだ。
「どうぞ。モスコ・ミュールのバリエーション、"キイ・ミュール"です」
"モスクワのラバ"という意味を持つオリジナルは、ウォッカとライムジュース、そしてジンジャーエールをステアするのが一般的なレシピだ。
でもユラさんが出してくれたこのキイ・ミュールは、ひと口含むとさっぱりしつつもふくよかな風味が広がっていく。
「ウォッカならモスコ・ミュール、テキーラならメキシカン・ミュール。バーボンだとケンタッキー・ミュールで、和歌山の地酒やとキイ・ミュールやね」
わたしはユラさんの説明に思わず笑いながら、同じものをもう一杯つくった彼女と乾杯した。
瀬乃神宮が経営しているこのお店は、普段は「cafe 暦」の看板を出して喫茶店をしている。
けれど、あやかしが絡むお話や紀伊の結界に関わる相談事を受ける時だけ、バーとしてひっそりとオープンするのだった。
わたしがグラスにもう一度口をつけようとした時、かりんこりんっ、とドアベルがレトロな音を立てた。
入ってきたのは年季の入ったスラックスに腕まくりしたシャツ、赤いネクタイ姿の中年男性だった。
「おう。梅雨時近いんかして、なんやよう冷えらなあ」
地元の言葉全開で元気よく席に着いたのは、わたしにここのことを教えてくれた歴史課の大先輩、岩代先生だ。
「いらっしゃいませ。岩代先生、いつものでええやんな?」
ユラさんが親しげに声をかけ、カウンター下の冷凍庫からきんきんに冷えたウイスキーの瓶を取り出した。
それをストレートでショットグラスになみなみ受けた先生は、きゅーっと冷酒でもあおるように飲み干してしまう。
"うわばみ"という言葉を思い出して、わたしはひとり忍び笑いをもらした。
かなり無頼な感じのこの人は中世史の専門家で、近隣の古文書解読などを一手に引き受ける研究者でもある。
瀬乃神宮との関わりも古く、結界守の秘密を知る数少ない人物の一人だ。
けれど、わたしが陵山古墳や妖刀の件で危険な目に遭ったことを知って、いたく気にかけてくれていたのだった。
「せやけど、こないなった以上は確かにオサカベさんの言う通りじょ。ユラさんらと一緒におったしか、なんぼか安心やして」
そう言って、わたしのことをよくよく頼んでくれたのも岩代先生だったそうだ。
見た目はバンカラだけれども、ものすごく面倒見がよくて在学生ばかりか卒業生からもいまだに慕われているのだ。
「ほんでねえ、今日寄せてもろたんはほかでもないんよ。ユラさん、ちょっと高野山へいてってくれへんか」
「いてって」が「行ってきて」の意味だと遅れて気付いたわたしにもわかるように、岩代先生がゆっくり語ったところによるとこうだ。
山と海に囲まれた紀伊の国には名だたる霊場があり、常時結界が張り巡らされている。
もちろんそこには、ユラさんのような結界守の存在も欠かせない。
しかし今、紀伊の各所で同時にいくつかの結界が力を弱め、あやかしの引き起こす怪異な事件が県下で多発しているのだという。
先日の陵山古墳に出現した鬼たちや、妖刀となった南紀重國の封印が簡単に解かれたのも、どうやら結界の弱体化が関係しているらしい。
「裏高野の七口でも突然結界が破れたとこがあって、ほれ、黒河道の龍仙寺さんじょ。あっこは先だって住職代わって、先代の孫が継いだんやけど、少々頼んないらしんよ。顔合わせがてらに、結界張り直すんてっとうたってよ」
それを聞いたユラさんは、カウンター下から一冊の和綴じ本を取り出した。
わたしが初めてここに来たとき見せてもらった、「完全な暦」だ。
ユラさんの細い指が頁の上をすうっと滑って、文字列をなぞっていく。
「杣山入吉日……。甲辰…丙午…丙子…丙辰…丙寅…丙戌…丁未…戊寅…戊申…己酉…庚辰…庚戌…辛酉…壬申…壬寅…癸未…癸丑…癸巳……」
なにやら呪文にしか聞こえないけれど、おそらく日ごとに割り振られた十干十二支の組み合わせだ。
"六十干支"と呼ばれるこれは陰と陽、そして木・火・土・金・水の"五行"の属性関係を表しているという。
本来は陰陽道で日々の吉凶や行動を占うために用いられ、現在では詳しいカレンダーにその痕跡が残っている。
そういえば子どもの頃、おばあちゃんちにあった日めくりカレンダーにはそんなことが載っていたような気がする。
よくわからずに眺めていたけれど、ユラさんが結界守の仕事を行う際には本来の暦である"旧暦"から日取りを決める必要があるとのことだ。
このお店の「暦」という名は、ユラさんの前任者がそうしたことから命名したのだという。
綴じ本の頁の一点でユラさんの指がぴたりと止まり、ゆっくり円を描いた。
「あかり先生。次の週末、あいてはる?」
地名とか固有名詞とかほとんどわからないことばかりだったのだけれど、かくしてわたしはユラさんにくっついて高野山を訪れることになったのだった――。
0
お気に入りに追加
61
あなたにおすすめの小説
「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。
桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。
「不細工なお前とは婚約破棄したい」
この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。
※約4000文字のショートショートです。11/21に完結いたします。
※1回の投稿文字数は少な目です。
※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。
表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。
❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
1ページの文字数は少な目です。
約4500文字程度の番外編です。
バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`)
ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑)
※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
七日目のはるか
藤谷 郁
SF
女子大に通う春花は、純情硬派なイケメン女子。
ある日、友人の夕子(リケジョ)が【一週間だけ男になる薬】という怪しい錠剤を持ってきた。
臨床試験を即座に断る春花だが、夕子の師である真崎教授の「ただのビタミン剤ですよ」という言葉を信じ、うっかり飲んでしまう。
翌朝、パニックに陥る春花に、真崎は思いも寄らぬ提案をしてきて……
(2023/11/15 最終話を改稿しました)
ズボラ通販生活
ice
ファンタジー
西野桃(にしのもも)35歳の独身、オタクが神様のミスで異世界へ!貪欲に通販スキル、時間停止アイテムボックス容量無限、結界魔法…さらには、お金まで貰う。商人無双や!とか言いつつ、楽に、ゆるーく、商売をしていく。淋しい独身者、旦那という名の奴隷まで?!ズボラなオバサンが異世界に転移して好き勝手生活する!
〈完結〉この女を家に入れたことが父にとっての致命傷でした。
江戸川ばた散歩
ファンタジー
「私」アリサは父の後妻の言葉により、家を追い出されることとなる。
だがそれは待ち望んでいた日がやってきたでもあった。横領の罪で連座蟄居されられていた祖父の復活する日だった。
十年前、八歳の時からアリサは父と後妻により使用人として扱われてきた。
ところが自分の代わりに可愛がられてきたはずの異母妹ミュゼットまでもが、義母によって使用人に落とされてしまった。義母は自分の周囲に年頃の女が居ること自体が気に食わなかったのだ。
元々それぞれ自体は仲が悪い訳ではなかった二人は、お互い使用人の立場で二年間共に過ごすが、ミュゼットへの義母の仕打ちの酷さに、アリサは彼女を乳母のもとへ逃がす。
そして更に二年、とうとうその日が来た……
【完結】異世界で小料理屋さんを自由気ままに営業する〜おっかなびっくり魔物ジビエ料理の数々〜
櫛田こころ
ファンタジー
料理人の人生を絶たれた。
和食料理人である女性の秋吉宏香(あきよしひろか)は、ひき逃げ事故に遭ったのだ。
命には関わらなかったが、生き甲斐となっていた料理人にとって大事な利き腕の神経が切れてしまい、不随までの重傷を負う。
さすがに勤め先を続けるわけにもいかず、辞めて公園で途方に暮れていると……女神に請われ、異世界転移をすることに。
腕の障害をリセットされたため、新たな料理人としての人生をスタートさせようとした時に、尾が二又に別れた猫が……ジビエに似た魔物を狩っていたところに遭遇。
料理人としての再スタートの機会を得た女性と、猟りの腕前はプロ級の猫又ぽい魔物との飯テロスローライフが始まる!!
おっかなびっくり料理の小料理屋さんの料理を召し上がれ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる