ライオン顔の猫

HarukaR

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ちょっと変わった「ライオン顔の猫」と「彼女」と「Hさん」の物語

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 Hさんはライオン顔の猫を飼っている。

 名前はケンケン。

 正式名はケインなのだが、実際に彼をケインという洒落た名前で呼ぶ者はいない。本人(本猫?)だって、自分の名前はケンケンだと信じているに違いない。
 ケンケンあるいはケンちゃん、ケン坊と呼ばれると、面倒くさそうに耳やしっぽをぴくぴくさせて応えたり、小首を傾げて大きな目で見つめてきたりするから。


 ケンケンは、甘えんぼうでフレンドリーな猫だ。

 初めてHさんの家に押しかけた時から、先住猫の2匹、お姉ちゃん猫のラグとお兄ちゃん猫のクロムに、旧知の仲のように懐きまくっていた。

 最初は警戒していた二匹は、ケンケンの無邪気な押しの強さに根負けし、すぐに彼を末の弟として受け入れた。
 自分の分のキャットフードを分けてやったり、ケンケンの猛攻を往なしながら遊んでやったり、添い寝して顔をなめてやったり。
 のら猫がガラス戸の向こうから喧嘩をふっかけてきたときなんか、しっぽを股にはさんで怯えるケンケンの前に進み出て庇ってやったこともある。

 あの頃からずっと、姉弟猫にとって、ケンケンは愛すべき末っ子。守るべき対象だ。今でも、そのポジションは変わらない。

 たとえ、ケンケンが、自分たちより二回りは大きなデカ猫に成長してしまったとしても。


 そう。ケンケンは、控えめに言っても、バカでかい猫だ。

 長い尻尾を伸ばせば全長80センチ以上、体重は8キロ強。
 いわゆる座敷犬よりはるかに大きい。 

 初めてその姿を見た人は、皆一応にコメントする。
「あら、まあ。大きいふとか猫やね」とか「犬かと思いました」とか。


 身体はでかいが、ケンケンは極めて穏やかな性格の持ち主だ。

 鳴き声はまさかの高音ボイスハイトーン
 まるで子猫のように可愛らしい。

 ふだんはおっとりしていて何をするにもスローモー。鷹揚に構えていて、大抵のことには怒らない。
 訪問客の前でもマイペースで、気が向けば、身体に触れさせてやることもある。
 他の2匹は、一目散に猫部屋の隅に隠れてじっとしているのに。

 獣医から処方してもらった錠剤を、口をこじ開け、無理やり突っ込んだ時はさすがに怒ったようだったが。


 ケンケンの毛並みは柔らかで、その手触りは絶品だ。

 長毛種と短毛種の中間くらいの長さの、ふにゃっとした肉の上に広がるオレンジ色とも茶色ともつかぬ毛皮は、得も言われぬ撫で心地でほっこりする。

 夏用仕立てとでも言うのだろうか?
 不思議なことに、ケンケンの毛は暑い夏はひんやりと感じられ、手のひらに心地よい。

 そのせいなのか、ケンケンはとっても寒がり。
 3匹の中で一番豊かな、純毛100パーセントの毛皮コートを纏っているくせに。

 夏でも猫部屋と化したサンルームで日光浴を楽しむし、冬はストーブの真ん前に陣取って動かない。やかんをかけるときは、つまづかないよう要注意だ。

 冬場に気をつけなくてはならないことがもう一つ。
 ケンケンの身体に迂闊うかつに触ると静電気がピリッと来る。


 夏でも冬でも、ケンケンは撫でてもらうのが大好きだ。

 Hさんがソファーに腰を下ろすとすぐに、ケンケンはおしりを撫でろとやってくる。

 彼女や母が座っている時には、膝に乗ってきて~大きすぎてお尻の一部がずり落ちてしまうけど~喉を撫ぜろと要求するくせに、Hさんには必ず尻を向けるのだ。

 しっぽを上げて尻の穴をまともに見せることもある。
 専門家によるとお尻を向けるのは親愛の情だというが、Hさんとしては尻を向けられるより、膝に乗ってほしいのだが。
 今のところ、ケンケンがHさんの膝に乗ってくれたことはない。


 ケンケンは、飼い主泣かせのちょび食いでもある。

 ちょっと食べて残しては、エサ入れが片付けられた頃になって、ちょこんとキャットフードが保管されているキャビネットの前に座ってご飯の催促をする。
 一日に何度も。

 同じキャットフードばかり与えると、ハンストしてもっとおいしいものをくれと強請る。
 実にめんどくさい奴である。

 子猫のように愛らしい声とつぶらな瞳でお願いされると、拒絶するのは実に難しい。
 たとえ、ダイエットさせるようにかかりつけの獣医に強く命じられていても。


 ケンケンは綺麗好きだ。

 用を済ませた後は必ず鳴いて『トイレをきれいにして』と訴える。

 他の二匹は糞に砂をかけて埋めるのに、ケンケンだけが、なぜ、おしっこをしたときに砂をかけ、糞をしたときはそのままにしているのかは、大きな謎だけど。


 ケンケンは図体に似合わぬ、臆病者でもある。

 風や雨が強い日は怯えた目をして耳を立て、見るからにびくびくしている。

 雷が鳴り響いた夜は、洗濯機の上か、洗濯機と壁の間の隙間に潜り込んで震えている。
 ケンケンにとって、夜中に勝手に動くドラム式洗濯機は一番頼りがいがある存在らしい。
 どういうわけか。


 変なところ満載だが、ケンケンはHさん一家のアイドルだ。

 たとえ、他の猫とは違う体格で、客観的に見て可愛い顔立ちとは言えないライオン顔をしていても。

 だって、ケンケンは彼女が見つけた猫で、出会いからして普通じゃなかった。


*  *   *   *   *


 ケンケンの顔を『ライオンみたいだ』と最初に言ったのは、彼女だった。

 確かにその、妙にでかい子猫は、一見してふつうの子猫とは違っていた。

 猫にしては丸っぽい輪郭。間隔がやや広めの幅広の耳。ひときわ目立つ、潰れたような大きな鼻。奥行きが浅めだががっちりとした口。よくよく見ると、ピンクの鼻の下の方には黒ゴマに似た雀斑そばかすが3つ。縁取りのあるくっきりした明るい茶色の目は、猫にしては垂れ気味のアーモンド形だ。

「確かに、変わった顔だね。たぶん洋猫が混じってるせいじゃないかな?」

 Hさんは彼女の言葉に頷いた。

 顔立ちは個性的だが、よくある茶虎の、お腹と手足が白い子猫だ。ふつうより手足が大きく、骨太ではあるが。
子猫のことは詳しくないが、子犬だったら大きくなるタイプだと断言できた。

 偉そうにしっぽをピーンと立てて彼女の後をドタドタくっつき回る姿は、子猫と言うより大型犬の子犬のようで、微笑ましくも、可笑しくもあった。

 ケンケンは初対面の時から彼女が大好きだった。
 初めて会ったあの時、ケンケンは喜び勇んで飛びついてきたのだった。まるで生まれた時から一緒に過ごした主人に再会したかのように。


*  *  *  *  *


 7年前のあの日のことを、Hさんは今でもよく覚えている。

 その日は梅雨入り直前の生ぬるい風が吹いていた。

『そろそろ平家ボタルが見られるかもしれない』

 Hさんは、彼女と母を、徒歩15分ほど離れた大きなバスターミナルの下にある田んぼ地帯クリークへ誘った。

 役場の近くの川で数年前まで普通に見られたゲンジボタルは河岸工事ですでに姿を消していた。が、当時は、ターミナル側を流れる細い川はまだ手つかずでカワニナが生息し、小さなヘイケボタルの乱舞が梅雨入り前の一週間ほど楽しめたのだった。

 3人でたわいない話をしながら、のんびりと暮れなずむ小道を歩いていると・・・
 ナーン、ナーン、ナーン・・・

 前方から、妙に甲高い鳴き声が聞こえてきた。

 ナーン、ナーン、ナーン・・・

 何度も何度も、途切れることなく続く叫びは、まるで誰かを必死に探しもとめているようだった。

 偶然出くわした近所の奥さんが、挨拶ついでに、後ろを気づかわし気に振り返って言った。

「駐車場に子猫が捨てられているみたいなの。かわいそうに、ずっと泣いているのよ。拾ってやりたいけど、うちには犬がいるから。誰かが助けてあげるといいのだけど」

 その瞳が期待するように、Hさんたちに向けられた。

 犬がいたって、猫一匹くらい飼えるんじゃないか?

 Hさんは思ったが、母親は『そうですね』と頷いて世間話を続けた。

 すぐ横にいた彼女は会釈だけして、何も言わずに耳を澄ませて、何事か考えていた。

 ナーン、ナーン、ナーン・・・

 その間も続く子猫の声。
 不思議なほど響き渡っているのに、妙に拡散してどこからするのかよくわからない。


 会話が終わって奥さんが背を向けるや否や、彼女が足早に歩きだした。
 声が聞こえてくる方に一直線に。

 Hさんは、慌ててその背を追った。 
 ここらへんには、カラスが多い。か弱い子猫はカラスにとっては御馳走だ。

 ナーン、ナーン、ナーン・・・

 声を枯らして子猫は叫び続けていた。

 子猫の声が聞こえるのは、高速バス利用者用駐車場<パークアンドライド>あたりに思えた。

 平日のせいか、駐車場はガランと空いていた。
 どんなに目を凝らしてもアスファルトの上には子猫らしきものは見当たらない。

 どこからか声は聞こえ続けているのに。

 突然、あんなに響いていた声がピタリと止んだ。

 耳をじっと澄ませても、聞こえるのは、近くを流れる水の音。時折吹く風の音。
 微かなバスや車のエンジンらしき音だけ。

 それでも、彼女はあきらめなかった。

 何度もかがみこんでは、駐車場の隅や藪を探し続けた。
 蛍のことはあきらめて、仕方なく、Hさんもその後を追いかけて猫を探した。

 やっぱり、子猫の姿はない。

「もしかして、あっちかも」

 彼女は駐車場の向かい側、バスターミナルに続く緩い斜面を駆け上がった。

「駐車場に声が反響してたのかも」

 徐々に空が暗くなる。
 雨になりそうな予感がした。
 
 湿り気を帯びた風に髪をなびかせ、切れかけた街灯の明りの余韻でぼんやりと浮かぶ斜面に、草むらに、彼女は一生懸命に目を凝らす。
 もはや何の音もしない、駐車場をも見下ろして。

「いい加減、もう、帰ろうよ。蛍もまだいないし」

 漸く追いついた母が、息を切らして斜面の下から言うのが聞こえた。

「かわいそうだけど、もう諦めよう。仕方ないよ」

 Hさんが呼びかけた時、彼女が叫んだ。

「いた!あそこ、あの草むら。茶色の子猫!」

 指さした斜面の一点に、確かに茶色の塊が見えた。

 座り込んだまま、置物のように静止して。
 大きな瞳は瞬きもせずに彼女の方に向けられていた。

 彼女は、驚かせないようにゆっくりと子猫に近づいた。
 しゃがみこんで舌を鳴らしながら、そっと手を差し伸べた。

 子猫はおずおずとその白い手を見つめ、それから彼女の顔を見た。

 ニャニャニャニャニャア!

 次の瞬間、子猫はダッシュ。彼女に猛然と飛びついた。
 その腕に、膝に、肩に、飛び上がるようにして、騒がしく声を上げ、小さな身体を何度もこすりつけた。
 
 彼女が高速の売店で猫缶を買って戻るまで、Hさんがその猫の相手をした。

 おそらく捨て猫だろう子猫は、予想外にガタイが大きくて、4か月くらいに見えた。

 あまり汚れてはいなかったが、手足はしっとり濡れていた。
 猫は余程うれしかったのか、一時も黙らず、膝に飛び乗り、頭に飛びつき、離れようとはしなかった。
 彼女が買ってきた猫缶を差し出すと、ウニャウニャウニャと喉の奥で唸りながら、アッという間に平らげた。

 その後のことは、Hさん一家では長い間語り草になった。

 子猫は15分以上かかる道のりを、後になり先になり、彼女の後をついてきた。
 まるで、子犬が大好きなご主人様の後を追いかけるように。

 その間も、子猫はしゃべり続けていた。
 置いていかないで。一人にしないで。まるで必死に訴えるように。

 玄関の扉を開けると、猫は至極当然な顔で家の中へ飛び込んで。階段の踊り場に、わがもの顔で陣取った。

「蛍を見に行って見つけた猫だから、ケインって名前はどう?蛍は音読みでケイだし、中国語でインだから、くっつけて、ケイン。どうかしら?」

 中国語をラジオ講座で勉強していた母がそう言い、結局、猫の名前はケインとなった。
 その名は犬猫病院の診察券以外で使われることはなかったけれど。

 こうして、ちょっと変わった子猫は、Hさんファミリーの一員になった。

 犬猫病院でチェックをした結果、寄生虫はおらず、白血病の因子も持っていなかったので、一安心。が、案の定、猫風邪はひいていた。
 
 子猫はすぐに他の二匹にも風邪をうつし、予想外の出費に、Hさんはため息を吐いたのだった。


*  *  *  *  *


 子猫はずんずん大きくなった。

 相変わらず彼女にべったりで、彼女が見当たらないとナンナン騒いで探し回る。彼女がトイレに入るとその前で、入浴している間は脱衣所のカーペットの上に横たわって、彼女が出てくるのを待ち続けた。

「忠猫ケンケンね」

 彼女は笑った。

 週末、Hさんと彼女がドライブしたり、趣味の食べ歩きに出かけたりすると、ケンケンは玄関で出迎えてくれた。置いてきぼりをされたことに文句を言いながら、外の匂いを纏わせた彼女の衣服やカバンをクンクンとしきりに嗅ぎまわった。

「ただいま、ケンちゃん」

 彼女が居間のソファーに座ると、ケンケンは当然な顔でさっさと膝に乗る。時折、前足をにぎにぎしながら、嬉しそうにゴロゴロ喉を鳴らした。

 贅沢ではないけど、穏やかな幸せな日々。
 Hさんはずっとこんな日が続けばいいと思った。

 心からそう願っていた。


*  *  *  *  *


 梅雨が始まって1週間くらいたったある日。

 腰から下が動かなくなり、彼女が何度目かの入院をした。

 検査が終わってしばらく後、Hさんは、密かに看護師に呼ばれ、診察室へ向かった。

 検査結果とレントゲン写真を説明し、慣れ親しんだ主治医が同情を滲ませた優しい声で訊ねた。

「自宅療養されますか?それともK病院の緩和ケア病棟を紹介しましょうか?緩和ケアを受けられれば、痛みはかなり改善されますが」

 緩和ケアがホスピスと同意語であることを、Hさんは知っていた。

「緩和ケアをお願いします」

 かすれた声でHさんは言った。


*  *  *  *  *


 定期的に治療に通ったこの10数年。
 彼女は辛いとも痛いとも、一言も言わなかった。
 吐き気がひどくて何も食べられない時も。足の裏の皮がむけ水ぶくれができた時も。急に髪が抜けて慌てた時も。

 たぶん、Hさんが知らない後遺症もあったはずだ。

 彼女はいつだって「大丈夫。なんとかなる」と笑って耐えて、持ちこたえた。


 仕事だって、母の反対を押し切って、週二日は続けた。

 仕事のない日も、彼女は実に活動的で・・・。

 DIYでサンルームを猫部屋にリノベし、トイレの壁を塗りなおし、Hさんの部屋にホームセンターで買った金属ポールなどを使って多目的棚を組み立ててくれた。趣味の絵を描き、買いためた料理本のレシピをせっせと試して食卓に出した。
 掃除や洗濯はあまり得意ではなかったけれど、彼女の料理の腕は、Hさんの見解では、超一流、プロ並みだった。

 週末の度、一緒に季節の花を見に出かけたり、高原の貸別荘で自炊したり、紅葉狩りや蛍狩りに遠出したり。温泉にも度々ドライブした。

 彼女はいつだって前向きで、とても勇敢な人だった。

「どうせなら、人生、楽しまなくっちゃ。無駄にしちゃもったいない」

 そう言って、彼女は笑った。

 Hさんと彼女、互いの仕事の時以外、いつも二人はいっしょだった。
 不安を口にすることなく、楽しい時間を分かち合った。

 彼女と笑い合いながらも、Hさんは心の隅で奇跡を願っていたけれど・・・

 結局、奇跡は起きなかった。


*  *  *  *  *


 最上階にある個室ばかりの緩和ケア病棟は、日当たりがよくこぎれいで、看護師さんは皆明るく親切だった。

 シミ一つない真っ白な病室は、テレビも冷蔵庫も洗面所も備え付けられ快適だった。扉を開けるとナーズルームと大きめのリビングめいたロビー。誰もが使える簡易キッチンもあった。

 ロビーには、居心地の良いソファーや自由に読める小説や漫画が置かれていた。
 誰が置いていったのか。明らかに自費出版の個人名入りの写真集まで。

 もしかすると、ここで最期を迎えた人の形見なのかもしれない、とHさんは思った。

 Hさんは、雨の日も風の日も、仕事をできるだけ早く切り上げて、コンビニ弁当持参で彼女の部屋を訪れた。母の作った彼女の好物を差し入れし、彼女のお気に入りのカフェからお菓子やジュースをテイクアウトし、彼女が読みそうな本を持って。
 ひとしきり彼女のおしゃべりを聞いた後、ワゴン棚から、彼女の名札が置かれた食事トレイを取ってきて、一緒にテレビを見ながら夕食を食べた。

 仕事のない日に母を連れてくることもあった。
 できる限り長く病棟で過ごし、車いすに乗った彼女を連れて病院の一階にあるファミマやパン屋で買い物をした。

 彼女は一度も泣きはしなかった。
 全てわかっていたはずなのに、不安も恐怖も口に出さなかった。
 その代わり、よく下手なダジャレを言い、冗談でHさんや看護師さんを笑わせた。

 毎日やってくるHさんには、時には、あれが欲しい、これを買ってきてと、ちっぽけな要望を言うことはあったけど。

「皆勤賞だねって、看護師さんが誉めてたよ」と彼女は笑った。

 3か月が過ぎた頃、窓越しによく晴れた青空を見て、彼女がぽつりと呟いた。

「ここからは、空しか見えないの・・・家に帰りたいな。家なら、私にできることは、まだあるもの。ケンケンに会いたいなあ」

 それは、彼女の初めての本当の『我儘』だった。

 この白い部屋に彼女をこれ以上、閉じ込めちゃだめだ。
 Hさんはそう思った。

 すぐに役所に連絡して、介護保険を申請した。
 訪問診療をしてくれる医院を選び、ケアマネージャーと話し合い、訪問介護サービスの手続きをした。介護ベッドや車いす、介護用品を一式そろえた。
 自宅では難しいと渋る主治医を説得するため、庭に車いす用のスロープも設置した。

 Hさんは、半ば強引に彼女を退院させ、自宅介護に切り替えた。

 ラグとクロムの姉弟猫は久々に会う彼女の、以前とは違う姿に、しばらく寄ってはこなかった。
 ケンケンは胡散臭そうに彼女の匂いを嗅ぎまわった後、結局、彼女の膝の上でいつものように喉を鳴らした。

 ベッドの角度を調節して上半身を起こし、Hさんが見つけてきたオーバーベッドテーブルを利用して、彼女はいろんなことをした。

 パソコンでメールのやり取りしたり、高価なチョコレイトやクリスマスカードを通販で購入したり、写真や録りだめしていたビデオの整理をしてみたり。

 彼女は小さなIHヒーターで毎日のように料理をした。ベッドの横に折りたたみテーブルを広げて、3人で彼女の力作をわいわいと楽しんだ。

 話題のドラマを見て感想を言い合ったり、HさんがレンタルしてきたDVDやCDを楽しんだりした。

 ケンケンは、彼女の膝やクッションの上で、ベッドの傍らの床の上で、甘えた声で鳴いたり、ゴロゴロ喉を鳴らしりしていた。

 医者は年を越すのは難しいと言ったけど、彼女は1週間以上頑張った。
 最後の10日間はほとんど眠り、そのまま安らかに逝ってしまった。

 最後まで彼女もHさんも互いに別れを告げはしなかった。
 「さよなら」も「ありがとう」も言いはしなかった。


*  *  *  *  *


 ナーン、ナーン、ナーン・・・

 彼女のベッドがあった部屋で。
 いつも彼女を出迎えた玄関で。
 彼女が出てくるまで張り付いていたトイレの前や風呂場の脱衣所で。

 彼女の去った家の中で、ケンケンが彼女を探す悲しげな声が響いた。
 
 Hさんは1週間ほど仕事を休み、彼女を送る手続きを済ませた。

 もうドライブに出かけはしなかった。
 食べ歩きもすっぱりやめた。

 彼女のいない世界はあまりにも静かすぎて…。
 母が用意してくれた料理の味さえしなかった。

 買い込んだ本の山を自室に持ち込み、ひたすらに文字の羅列を頭に詰めこむ作業に没頭した。


*  *  *  *  *


 3か月が過ぎた頃、ケンケンは彼女を追って鳴くのを止めた。そして彼女の代わりとばかりに、Hさんの後をついて回るようになった。

 ジュクジュクジュク・・・ツィーツィーツィー

 久しぶりに耳にしたシジュウカラのさえずりに、Hさんはふと出窓の向こうへ目をやった。

 いつの間に咲いたのか。
 窓の外にはピンクのハナミズキが咲いていた。

 いつだっただろう?
 桜もきれいだけど、ハナミズキも可愛くて好き。そう彼女が言ったのは。

 視線を感じて振り向くと、キャットタワーの上で香箱座りをしたケンケンと目があった。

 ケンケンは、ゆっくりと瞬きをした。
 Hさんに視線を据えたまま、何度も、何度も繰り返し。

『頑張って!』

 どこからか声がした気がした。
 寝ても覚めても焦がれ続けた、忘れられない声が。

『人生、楽しまなくっちゃ。無駄にしちゃもったいない』

 Hさんは絵画教室へ通い始めた。
 オンラインで英会話も始め、初心者向けの料理の本をいくつも買い集めて料理にも取り組み始めた。
 近くのショッピングモールで開校したトレーニングジムにも入会した。

 母は大いに当惑したが、Hさんの抽象的なのか漫画的なのか判断に苦しむ水彩を真剣に眺め、創作性に富んだ個性的な料理を文句も言わずに口にしてくれた。

 やることが見つからない週末は、Hさんはジムで一日汗を流し、苦手なヨガにも参加した。

 二人で通ったバーガーショップへは、まだ行けなかったけれど、彼女のお気に入りのベーカリーでサンドイッチを買えるようになった。

 それでも…。
 どうして寝つけない夜には、母が寝室に上がった後に、リビングでたった一人、Hさんはケンケンの巨体をぎゅっと抱きしめる。
 柔らかなその毛皮に顔を埋め、日なたの暖かさを思わせる微かに甘い匂いで鼻孔を満たす。
 彼女がよくしていたように。

 そんな時、ケンケンは、しっぽを大きく振りながらも、じっと動かないでいてくれる。
 ざらざらした舌で、Hさんの指を、手のひらを、熱心に舐めてくれる。

 Hさんはバカでかい、ちょっと変わった茶虎の猫を飼っている。
 彼女が見つけた、彼女が救った猫。彼女が愛した、彼女を愛したライオン顔の猫を。

                                ―END―

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