56 / 61
~元聖女の皇子と元黒竜の訳あり令嬢はまずは無難な婚約を目指すことにしました~
皇子の療養休暇 ⑫イ・サンス
しおりを挟む
マルノザ帝国が密かにアマリアーナ王女、現サリナス辺境伯夫人を狙っていると言うのは、結局、ガセネタだったようだ。
エントランス付近で満足げに帰っていく令嬢たちに頭を下げながら、彼は密かに胸を撫でおろしていた。
王都に滞在中のマルノザ帝国皇太子一行に潜ませた部下からも、茶話会会場に配置している者たちからも、今のところ、特に気になる連絡はない。
これほどの手間暇をかけて、彼女まで欺くような真似をする必要はなかったのかもしれない。
年甲斐もなくバカなことをしているのは、彼にも十分わかっていた。けれど、彼女が奪われるかもしれないと思うと、居ても立ってもおられなかった。
マルノザ帝国の皇子がずっと彼女を正妃に迎えたがっていたことは、帝国が伝説の勇者の血を引く王女は自国にこそふさわしいと主張してきたことは、彼とてよく知っていた。
今なお、皇国の一部の貴族が、由緒正しき帝国の皇子こそが、彼女の伴侶になるべきだったと考えていることも。
現王の政を不満に思う輩がマルノザと手を結び、王位継承権を持つ王女を、つまり現辺境伯夫人を、帝国へ拉致して王権を揺るがす手ごまにするかもしれないという考えは、一概に杞憂だとは言えない。
それほど気になるなら、本当に手に入れたいなら、力づくでも奪ってしまえばいいと、長は言う。秘密を知られるのを恐れるより、いっそ秘密を打ち明け、逃げられないように縛り付けてしまえばいいと。
弱肉強食を信奉する一族らしい考え方だ。
半端者の彼にはできない。
彼と彼女は違う。
彼女は、本来、彼が触れてはならない高貴な存在。このまま、辺境伯夫人でいるべき人ではない。
望むべきではないのだ。あの人のためを思うなら。たとえ、自分の公の立場がどうであれ。
自分を抑えるために、物理的に彼女と距離を置いた。なのに、自分の『立場』を手放したくなくて、ずるずると曖昧なこの関係を続けている。
彼女のふるまいを誤解してはならない。都合よく解釈してはならない。
得体のしれない辺境伯に彼女が嫁いだのは、ひとえに王命だったからだ。婚姻は、辺境伯と王家との絆を確固とするための手段。彼女は王家に生まれた者としての責任を果たしたに過ぎない。
辺境伯は、彼女をもっと自由にしてやるべきだ。こんな場所に閉じ込めるのではなく。彼女の安全を幸福を考えるなら。
十分にわかってはいるのだ。二度とあの悲劇を繰り返してはならないと。彼女を、絶対に、あんな目に遭わせてはならない。そのためには、自分の想いなど押し殺してしまうべきだ。
早く彼女が愛想をつかしてくれればいいのに、と思う。
辺境伯がいかに酷い夫であるかを知れば、王だって、実の娘の願いを踏みにじりはすまい。この4年間の夫婦関係が、俗に言う『白い結婚』~実質的な肉体関係のない結婚~であることを公表しさえすれば、彼女はふさわしい相手の下へ嫁ぐことができるはずだ。
そう、何が最善かはわかったいる。なのに・・・
招かれた令嬢のほぼすべてが引き上げ、残る客はアルフォンソ皇子の想い人だと噂される令嬢のみになり、堂々巡りから何とか覚めかけた頃・・・
大気を切り裂く高周波音が、イ・サンスの鼓膜を打った。
これは、人間の耳には聞こえない警笛。直属部下からの緊急連絡だ。
アマリアーナの身に何か!
イ・サンスは、会場を目指し、脱兎のごとく走った。
* * * * *
刃が交わされる音が間断なく響き、矢が大気を走る音がする。
自ら腰の剣を抜き放ち、階段を飛ぶように駆け上がった。
「若様!」
メイド長として潜り込ませていた部下が、彼に気が付いて表情を緩めた。
「夫人は?」
「奥様はあちらです。護衛が応戦中です」
応えながらも、手にした弓の弦を再び大きく引き絞る。
勢いよく放たれ矢が目指すその先。
大テーブルの向こう側で、一点に向かって剣を振り下ろす数人の護衛騎士らしき姿が見えた。
護衛たちの後ろで、木製の柵を背に立っているのは、間違いなくアマリアーナ。身を乗り出そうとしている彼女を護衛の一人が引き留めているようだ。
その横で彼女の手に縋りついている女には見覚えがある。確か彼女のそば仕えの一人だ。
イ・サンスは一瞥で状況を見て取ると、守るべき女主人の下へ全速力で走った。
剣を弾く軽い金属音が幾度も響き、護衛たちがよろめいた。断ち切られた矢が勢いを失って床に落ちた。
更に別の騎士が剣を振り上げ、相手に切りかかり、難なく剣を振り飛ばされた。
「どけ!」
イ・サンスは護衛たちの合間を縫って躍り出た。
たった一人で応戦している影を眼前にして、刹那、瞠目する。
踊るように床を蹴り、宙を飛ぶピンクのドレス。ふわりとなびく金色の長い髪。
右手に握った羽扇で飛び来る矢を払い、左手で護衛から奪ったらしい剣を振るう。
流れるような剣技でじりじりと包囲網を押しやり、崩しているのは、異国から来た令嬢だった。
ピンクの仮面を付けた顔が、表情もなく、イ・サンスの方を振り向く。
大きく踏み込むと、イ・サンスはその首筋に剣を斜めに振り下ろした。
エントランス付近で満足げに帰っていく令嬢たちに頭を下げながら、彼は密かに胸を撫でおろしていた。
王都に滞在中のマルノザ帝国皇太子一行に潜ませた部下からも、茶話会会場に配置している者たちからも、今のところ、特に気になる連絡はない。
これほどの手間暇をかけて、彼女まで欺くような真似をする必要はなかったのかもしれない。
年甲斐もなくバカなことをしているのは、彼にも十分わかっていた。けれど、彼女が奪われるかもしれないと思うと、居ても立ってもおられなかった。
マルノザ帝国の皇子がずっと彼女を正妃に迎えたがっていたことは、帝国が伝説の勇者の血を引く王女は自国にこそふさわしいと主張してきたことは、彼とてよく知っていた。
今なお、皇国の一部の貴族が、由緒正しき帝国の皇子こそが、彼女の伴侶になるべきだったと考えていることも。
現王の政を不満に思う輩がマルノザと手を結び、王位継承権を持つ王女を、つまり現辺境伯夫人を、帝国へ拉致して王権を揺るがす手ごまにするかもしれないという考えは、一概に杞憂だとは言えない。
それほど気になるなら、本当に手に入れたいなら、力づくでも奪ってしまえばいいと、長は言う。秘密を知られるのを恐れるより、いっそ秘密を打ち明け、逃げられないように縛り付けてしまえばいいと。
弱肉強食を信奉する一族らしい考え方だ。
半端者の彼にはできない。
彼と彼女は違う。
彼女は、本来、彼が触れてはならない高貴な存在。このまま、辺境伯夫人でいるべき人ではない。
望むべきではないのだ。あの人のためを思うなら。たとえ、自分の公の立場がどうであれ。
自分を抑えるために、物理的に彼女と距離を置いた。なのに、自分の『立場』を手放したくなくて、ずるずると曖昧なこの関係を続けている。
彼女のふるまいを誤解してはならない。都合よく解釈してはならない。
得体のしれない辺境伯に彼女が嫁いだのは、ひとえに王命だったからだ。婚姻は、辺境伯と王家との絆を確固とするための手段。彼女は王家に生まれた者としての責任を果たしたに過ぎない。
辺境伯は、彼女をもっと自由にしてやるべきだ。こんな場所に閉じ込めるのではなく。彼女の安全を幸福を考えるなら。
十分にわかってはいるのだ。二度とあの悲劇を繰り返してはならないと。彼女を、絶対に、あんな目に遭わせてはならない。そのためには、自分の想いなど押し殺してしまうべきだ。
早く彼女が愛想をつかしてくれればいいのに、と思う。
辺境伯がいかに酷い夫であるかを知れば、王だって、実の娘の願いを踏みにじりはすまい。この4年間の夫婦関係が、俗に言う『白い結婚』~実質的な肉体関係のない結婚~であることを公表しさえすれば、彼女はふさわしい相手の下へ嫁ぐことができるはずだ。
そう、何が最善かはわかったいる。なのに・・・
招かれた令嬢のほぼすべてが引き上げ、残る客はアルフォンソ皇子の想い人だと噂される令嬢のみになり、堂々巡りから何とか覚めかけた頃・・・
大気を切り裂く高周波音が、イ・サンスの鼓膜を打った。
これは、人間の耳には聞こえない警笛。直属部下からの緊急連絡だ。
アマリアーナの身に何か!
イ・サンスは、会場を目指し、脱兎のごとく走った。
* * * * *
刃が交わされる音が間断なく響き、矢が大気を走る音がする。
自ら腰の剣を抜き放ち、階段を飛ぶように駆け上がった。
「若様!」
メイド長として潜り込ませていた部下が、彼に気が付いて表情を緩めた。
「夫人は?」
「奥様はあちらです。護衛が応戦中です」
応えながらも、手にした弓の弦を再び大きく引き絞る。
勢いよく放たれ矢が目指すその先。
大テーブルの向こう側で、一点に向かって剣を振り下ろす数人の護衛騎士らしき姿が見えた。
護衛たちの後ろで、木製の柵を背に立っているのは、間違いなくアマリアーナ。身を乗り出そうとしている彼女を護衛の一人が引き留めているようだ。
その横で彼女の手に縋りついている女には見覚えがある。確か彼女のそば仕えの一人だ。
イ・サンスは一瞥で状況を見て取ると、守るべき女主人の下へ全速力で走った。
剣を弾く軽い金属音が幾度も響き、護衛たちがよろめいた。断ち切られた矢が勢いを失って床に落ちた。
更に別の騎士が剣を振り上げ、相手に切りかかり、難なく剣を振り飛ばされた。
「どけ!」
イ・サンスは護衛たちの合間を縫って躍り出た。
たった一人で応戦している影を眼前にして、刹那、瞠目する。
踊るように床を蹴り、宙を飛ぶピンクのドレス。ふわりとなびく金色の長い髪。
右手に握った羽扇で飛び来る矢を払い、左手で護衛から奪ったらしい剣を振るう。
流れるような剣技でじりじりと包囲網を押しやり、崩しているのは、異国から来た令嬢だった。
ピンクの仮面を付けた顔が、表情もなく、イ・サンスの方を振り向く。
大きく踏み込むと、イ・サンスはその首筋に剣を斜めに振り下ろした。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
能力値カンストで異世界転生したので…のんびり生きちゃダメですか?
火産霊神
ファンタジー
私の異世界転生、思ってたのとちょっと違う…?
24歳OLの立花由芽は、ある日異世界転生し「ユメ」という名前の16歳の魔女として生きることに。その世界は魔王の脅威に怯え…ているわけでもなく、レベルアップは…能力値がカンストしているのでする必要もなく、能力を持て余した彼女はスローライフをおくることに。そう決めた矢先から何やらイベントが発生し…!?

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる