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空き部屋とトマトゼリー

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 朝、気付いたら10時近かった。
 慌てて起きると、考紀は既に起きていて、遊びに出た後だった。

 テーブルには考紀が作ったと思わしき茹で卵が2つ皿に乗っていて、近くに『楓のところに行ってきます。たまご食べてね!』と書き置きがある。
 星來はコーヒーを入れると、書き置きをぼんやりと見ながら卵を剝いた。

 昨夜は部屋へ戻ってから、色々考えてしまって中々眠る事ができなかった。
 リヒトはこんな自分のどこが気に入ったのだろう。
 姿かたちも、種族も全く違うのに。
 そう言えば、竜弥に会った時も様子がおかしかった。
 あの時には既に好きでいてくれたのだろうか。
 

 考えれば考える程、自分が悪の側になって、心の綺麗な人を騙している図に思えて仕方がない。
 恋人はもう懲り懲りなんて言いつつ、そう言う素振りを見せて様子を窺っているような。
 
 そう思うなら、早く断って諦めてもらった方が良いに決まっているが、断ったらリヒトは間違いなくショックを受けるだろう。
 それを思ったら心が痛くなる。
 本当の事を言えば自分が嫌われるのも嫌なのだ、矛盾している。
 
 結局、自分がリヒトを好きか嫌いかと言ったら、多分前者だろう。
 でも、こんな汚れた人間があんなに綺麗な人を……。
 
 また思考がグルグルし始めた。

 コーヒーと茹で卵を食べて暫くしたら、何となく頭がすっきりしてきた。
 今日は隣の203号室の掃除をしようと思っていたのを思い出し、星來は顔を洗うと、エプロンを身に付け、掃除用具を手に家を出た。


 実はこのあいだ海で竜弥に会うまで、星來はこの203号室の事をすっかり忘れていた。

 以前、203号室は、10年近く前に一度だけ人が入ったが、その人は直ぐに部屋を出てしまったと星來は母から聞いた事があった。
 改めて母の記録ノートを読んでみると、その後に何人か内覧へ来たが契約までは行かなかったと書かれている。
 理由は主に「奇妙な感じがする」「視線を感じる」で、それを知った星來は緊張しながら203号室へ足を踏み入れたのだが、何の事は無い、自分の所と同じ間取りの何も置いていない部屋だった。
 
 入居が決まってからクリーニング業者へ掃除を頼むことにして、星來は簡単に掃除する事にした。
 雨戸と窓を開けて空気を入れ替え、まずは掃除機をかける。
 この部屋、星來が管理人になってから一度も見に来ていなかった割には、どこも傷んでおらず、むしろ自分の部屋より綺麗だ。

 だが、星來は寝室の押し入れの下の段に、奇妙なものを見つけた。
「なんだろう、これ」
 
 そこには15センチ四方の丸い穴が開いており、それは床を突き抜けて下の方まで続いているように見える。
 穴の周りには何も落ちていなかったが、動物でも入り込んでいるのかもしれないので、業者に早く塞いでもらう事にした。
 
 掃除が終わると、確認の為に星來は『訪問者』を入居させる予定で押さえている、隣の202号室へ行ってみる。
 ここの東側の部屋の押し入れが、203号室の穴のある押し入れの反対側になっているのだ。
 半年ほど前に、前の住人が出て行ったが、その時に確認へ入った時は何もなかった。
 今も一応、全ての場所を見たが、業者のクリーニングを頼んだばかりなのでどこも綺麗で、特にこれと言ったものは見つからなかった。

 次に、203号室の下、103号室へ行く。
 そこは猫の姿の『訪問者』である虎之助と、佐々木と言う老人の部屋である。
 玄関のインターフォンを鳴らすと佐々木が出て来て、理由を言うと部屋へ上げてくれた。


「……そうですねぇ、わしもここに10年程住んでますが、特に変わった事はないですねぇ」
 二人で押し入れの天井を覗いてみるが、確かに変わったところはない。
「動物なんか出たら、まず虎之助が大騒ぎするでしょうし」
「ニャーン」
 いつの間にか側に虎之助が来ていて、佐々木の話に相槌を打っている。
 完璧な猫に擬態してる様子に、星來は半目になった。

「ああ、でも虎之助ももう年だから、気付かないのかもしれないね。管理人さん、わしのほうでも注意しますよ」
「漏電なんかにも気を付けて下さい。早いうちに業者へ頼んで穴を塞いでもらいますから、お願いします」
「ニャー」
 虎之助は佐々木に抱き上げられて「話が済んだら早く帰れ」と言わんばかりに、星來へニャーニャー言ってきた。
 そんな虎之助に半ば呆れながら、星來は部屋を後にする。
 
 どうやら佐々木は虎之助が『訪問者』だとは知らないらしい。
 流暢に言葉を話す虎之助の姿を知っている身としては違和感しかないが、佐々木が猫の虎之助をとても可愛がっているので、これはこれで良いのかなとも思う。
 虎之助だって佐々木に可愛がられたいからこそ、猫の真似をしているのだろうし。


 『訪問者』と夫婦として暮らす金田、飼い主とペットと言う、家族として暮らす佐々木、親子や兄弟みたいな関係の宮島家。
 もし、自分とリヒトだったらどんな関係になるのか、つい考えてしまう星來だった。


 *******
 
 
 夏休みも後半になると、宿題の終わっていない考紀がバタバタしだした。
 サッカーの練習もあるので大忙しだ。
 しかし、今年はとっくに宿題を終わらせた楓が見てくれて、考紀は夏休みが終わる前に何とか全ての宿題を終わらせる事ができた。
 
「楓くん、ありがとう! 去年は終わらなくて、遅れて提出したのがあったんだよ」
「考紀……」
 楓は考紀を見て呆れたような声を出した。
 
「だってさ、去年はサッカーの合宿があったじゃん」
「それ、7月に入って直ぐだったでしょ。その後に頑張れば良かったじゃない」
「そうだけど」
 因みにその合宿の後、具合の悪くなった子が続出して今年は無くなったのだ。

「でも、俺の頃と違いすぎて、未だに宿題の事がよく分かんないんだよね。今年は楓くんがいて本当に助かったよ」
 そう言いながら、星來はトマトゼリーを冷蔵庫から出して来た。
 テーブルの上に、型抜きされた赤いトマトゼリーを置くと、まるでスライムの時のリヒトみたいにプルプル震える。
 
「これね、考紀がうちのトマトで作ったんだ」
「あ、家庭科の宿題の……」
「そうそう、今朝食べたけど美味かったぞ。楓にも食べさせたくて取っておいたんだ」
「ありがとう、考紀。頂きます」
 楓が美味しいと食べているのを、考紀が嬉しそうに見ている。
 星來はそれを見て胸がほっこりした。


 星來は、あの流星群の夜以来、リヒトと碌に話す機会が持てなかった。
 お互い毎日忙しかった上に、一昨日リヒトは博士と海外へ行くと言って、出かけてしまったし。
 もう、しばらくすれ違う事もできないのだと思うと、星來は胸にぽっかり穴が開いた様な気持ちになった。
 


 
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