Hope Man

如月 睦月

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中学校編

卒業式の朝

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『龍一、明日はその…仕事でな…』



夕食を共にした康平が気まずそうに口を開き、要点を伝える前に味噌汁をすすった。

父親がコトっと汁椀を置くタイミングで龍一がゆっくりと応えた。



『わかってるよ、ただの卒業式だから』



『すまないな、しっかりやってこい』



『うん』



世の中の中学三年生の男子と父親は、皆このような簡素な会話なのだろうか、しかも団らんの時間に…まぁこれでも良くなった、話すようになったのだ、桜坂家としては進歩はしている、よその家庭なんかどうでもよかったのだ、父親の康平が切れて茶碗を投げつけたり、テーブルをたたき割る勢いで殴りつけたりしなくなったのだから。



部屋に戻ってポータブルストーブに火を入れる、龍一の部屋は北側に位置するのでまだまだ夜はストーブの暖が必要だった。いつ乗せたかわからないストーブの上の干し芋が甘い臭いを出し始める。食事後とは言え、その甘い臭いで食べたくなった龍一はくっついた黄金色の干し芋をラジオペンチで引きはがして食べた。



『うめっ』



歯にくっつくのでインスタントコーヒーを飲み、手を頭の後ろに組んで天井を仰いだ。静かで長いため息を吐くと昔の事を思い起こす。だが、不思議な事に龍一の中からはいじめを受けた過去は出てくることはなく、むしろ寄り添ってくれた仲間との思い出が湧き上がる。それは龍一が強くて乗り越えたとか言うカッコいいものではない、思い出したくもない記憶を心に空いた穴の奥底に全て仕舞い込んだのだ、心の闇のずっと奥に隠して扉を閉め、鍵をかったのだ。それが出来ると言う部分では強いと言えるのかもしれないが、龍一にとってはそれもまた違う。けれどそれでいい、今はそれでいいのだ。



別に感慨深い中学校生活でもない、大人ぶった言葉を使うならば「波乱万丈」だが、それは長い人生を生きて来た人が振り返った時に使うことで味が出る言葉なわけで、龍一が振り返ったところでさほど長い道が後ろに続いているわけでもない。だがそれは人から見た感想であって、龍一本人にとっては波乱万丈、ガキのくせにと言う大人も居るだろう、しかし龍一にとっては何年生きたかと言う長さの問題ではないのだ、中学生でも凄まじい経験をした人間も居れば、中年になっても大した経験などせず怠惰な日々を生きている人間もいる、人生を語る上で必要なのは長さではなく、経験した時間、龍一はそう感じている、バカ兄貴を見てると特にそう感じるのだ。



『色々あったなぁ、覚えてねぇけど…そうだ、明日の準備』



明日は卒業式なので、準備するものなどないのだが、龍一は用意周到な性格なのでペンは必要か、消しゴムは必要か等、どうでもいい自問自答をするのだった。

ラジオを付けると、やはり卒業シーズンなので話しの内容は出会いや別れに関する話題が多く、耳を傾けては鼻で笑い、音楽が流れれば口ずさんだりもした。絵を止めてからというものの、夜にやる事が無く、ファミコンはあれどソフトもない、ラジオを聴いて、何度も読んだ漫画を開いて見たり、ただただ流れる時間を過ごすのだった、深夜になるまで、眠くなるまで。



---------------------------------------------------------



朝になった、卒業式の朝である。

しかしルーティンは変わる事はなく、いつもの朝が来ただけだ。

母親が用意してくれた目玉焼きにブラックペッパーと塩を振った。いつもなら醤油だが、今朝は塩味が欲しかった龍一、別段何が変わったわけでもなく、特別な朝を気取っているわけでもない、塩の気分だっただけだ。半熟の目玉焼きを少なめのご飯の上に乗せ、ご飯の上で黄身を割るのが好きだった、黄身がのった白身とご飯を適量掴み、口に運ぶと甘さと塩味、そして鼻から抜ける黒コショウの香りは聞き飽きた表現だが絶妙なハーモニー。大根の味噌汁をすすって口の中に残った食べ物を流し込むように飲み込む、リセットだ、次を口に運ぶ。よく噛まずにこう言う食べ方をしているから胃腸が弱いのかもしれない。



朝食を終え、準備を終えて玄関で靴を履いていると、後ろに自分の上に影が重なり落ちる。後ろを振り向くと、母親が立っていた。



『よくがんばったね、晩は寿司とるからね、あんたの好きなマグロの赤身たくさん』



その目には涙が浮かんでおり、あれだけ喧嘩ばかりで分かり合えず、決して相容れぬ水と油の様な2人が一瞬混じり合った気がした、それは勘違いで脂の粒子が微細になり、交じり合った様に感じただけかもしれないが。



『あ、うん』



面食らった龍一が絞り出した返事がこれだった。

母親は心を自分でへし折って絞り出した台詞なのかもしれないと言うのに自分はこの程度の事しか言えないのかと思うと少し考えた。



『今まで、ありがとう』



涙が溢れ出して崩れ落ちる母親。

その姿を見て、自分の今の言葉は本心だったのか?と自分で自分を疑った。

声をあげて泣いている母親。

何となくでた社交辞令の様な台詞だと言うのに。



『じゃぁいってきます』



静かに扉を閉めて考えた。

何故泣いていたのか、あんなに声をあげて。



『辛い思いをしたのは俺であって、母親ではないはずだ。心配か?何を?俺を?心配なんか受験のときぐらいだっただろ、俺は小学生の頃からずっとだぞ?お金の事言われたらどうしようもないけれど、それ以外の事は自分でやってきたはずだ、親が入って解決した事もない、なんなら学校に乗り込んだこともないだろ』



通常であれば抱き合って玄関で2人で号泣だったのかもしれないが、龍一の心に空く穴がそうはさせなかったのだ、素直じゃないと言えば素直じゃない、でも度重なる経験によって心の一部が捻じ曲がったのかもしれないし、心の扉を閉ざしたのかもしれない。素直に感情が出せくなっているのも事実だが、母親の言動を見て涙が込み上げる事は無かったのも事実だ。



これを、心が壊れていると言うのならそうなのだと思う龍一だった。



眼に入る景色は、親と一緒に歩く卒業生の姿。

自分は独り。

別に望んではいない、母親は父親の送迎が無いと買い物もままならない程足に病を患っている、姉も仕事がある。昂一以外の兄弟はこの街にはいない、その昂一も所在がわからない。ただ、ほとんどの時間を独りで過ごしてきた龍一にとって、卒業式に独りぼっちという事は今までの一人の時間を凌駕する程大きなイベントでも何でもないのだった。



『昨日になるだけの今日』



そう呟くと、ポケットに手を突っ込んでダラダラと歩き始めた。
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