Hope Man

如月 睦月

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中学校編

蚊の羽音

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3年生の受験が終わり、落ち着きを感じる日常となった。



『あんなに頑張ったのに定時かよ』

そんな思いがあった龍一ではあるが、その一方で行く学校が決まったと言う安堵感もあり、落ち着きのある日常の中でスッキリしない妙な感覚はあった。



学校では卒業式の練習が始まる。

小学校の卒業式でやった記憶があるイベントと同じものをこの中学校でもやるのだ、それは「呼びかけの言葉」と言うもの。



「呼びかけ」とは本来の意味は、遠くにいる人などに向かってオーイ等と声をかけることであるが、卒業式で言うところの呼びかけは「在校生から卒業生へ送る言葉」を意味する。その在校生から卒業生へ呼びかけられた言葉は、卒業生から在校生へ「返す言葉」として発せられる、この素敵な言葉のラリーは戦後の卒業式から始まった伝統的なものとされている。送る言葉は在校生代表や選ばれた人が一言ずつ呼びかけて行き、大事な部分を全在校生、または卒業生全員で放つ場合がある、メリハリがありちょっとした演劇を見るかのようでもある。その言葉も感動的であったり、思い出を語りかけたり、語ったり、両親への言葉や教師へのお礼等も盛り込まれたりその内容は様々で、学校によってオリジナリティーがある。市や町で決められたものではないが、故に卒業生も在校生も感極まる者が少なくない。



声をしっかり出せる生徒が選ばれるのは当然で、数々のトラブルを起こしてきた龍一が選ばれるはずもなく、その他大勢となった。龍一はわかってはいたものの、実際は殆ど巻き込まれただけで龍一自体は素行が悪いわけではない、それを見ようとしない人間があまりに多く、人との出会いに恵まれなかったとも言えるかもしれない。



呼びかけの後には感動的な卒業生の「歌」も用意されており、前奏、間奏を卒業生自ら鍵盤ハーモニカで演奏すると言う奇妙な演出も加えられた。当然当日鍵盤ハーモニカを抱えて入場は滑稽すぎるので、前日に会場の自分の座席にセッティングするのだが、それもまた龍一にしてみれば『なんだかなぁ』と言う気持ちだった。



歌う曲は「旅立つ翼をください」



卒業式の定番ソングとして超有名だが、泣ける曲としても有名。

大勢で合掌した時の破壊力は凄まじく、曲を知らない人でもグっと心を掴まれてしまう名曲だ。



毎日練習が行われたが、ブロックごとにそれは進行する。入場の練習、歌の練習、呼びかけの練習、賞状を貰う練習と言った具合に。体育館に全校生徒が詰め込まれ、間違うと怒声罵声を浴びせられ、私語が見つかるとビンタ、どこかの兵士の訓練のようだった、異様なまでの緊張感の中での練習が続く。



立っている時間も長く、体調を崩す生徒も現れ始めた。



歌の練習が始まり『もう一回!』『ダメ!もう一回!』『抑揚!声が出てない!』そんな激が飛ぶ。そうなって来るとより一層緊張で声が出なくなる者も出てくるわけで、声も出ない緊張となれば指が震え、呼吸が震え、鍵盤ハーモニカ演奏などミスが多発する。



『変な音出てる!もう一回!C組!1人づつやってみろ!』



恐れていた事がついに来た、できない個人を特定して叩くやり方、教師の常套手段であり、いわゆる「犯人探し」からの「公開処刑」である。数十年先には社会問題になるであろう教師のこの行為は、当時は当たり前に行われていたのだった。



順番に弾かされる、龍一も難なくこなした。龍一は音符なんかさっぱり読めないが、耳が良く、その音がどの音なのか?を探りながら1つづつ暗記していき、何度も何度も反復して覚えるスタイルだった。人一倍時間はかかるが、龍一はそれしかできなかったのだった。犯人探しが進行する、しかしこの犯人探し、ここで間違ったとしても犯人と言う事にはならないというのに。



『笠井(かさい)、弾いて見ろ』



笠井あき



真っ黒でつやつやの長い髪でガリガリに細い身体つき、前髪がいつも垂れているので、ろくに顔を見た生徒は居ない。根暗を絵に描いた様な少女だが、心はとても繊細らしく、防火訓練でスピーカーから『火災発生!火災発生!』とアナウンスされるだけでシクシクと泣いてしまうほどだった。



順調に演奏する笠井だったが、一つ鍵盤を弾き間違えた。



その瞬間音楽の教師である音山(おとやま)が猛烈なスピードで演奏中の笠井の左頬をビンタした。顔が捻じれてよろめき崩れる様に倒れる笠井。鍵盤ハーモニカの落ちる音が静かな体育館に鳴り響いた。



ガラン!



『立て!当日までに完璧にしろ!いいな!それと!何度言ったらわかるんだ!髪の毛を縛れ!』



『はい』蚊の羽音のような声で返事をする笠井。真後ろに位置する笠井のその声は、正面に位置する龍一にはハッキリ聞こえたのだが、音山には聞こえなかったらしい、いや、聞こえたのかもしれないが、『返事をしろ!』と言いながら左手で笠井の右頬をビンタした、一発目で倒れた事にマズいと感じたのか、二発目は少し弱めの力加減だったようだが、それでも笠井にとってはよろめく程の衝撃だった。



『よーし!じゃあ次!在校生の練習に入る!卒業生は立ったまま聞け!』



在校生の演奏の練習が始まり、ここでも音山の激が飛び、犯人探しからの公開処刑が行われて行った。そんな緊張感漂う中、朝から4時間も練習していている生徒たちには疲労の色が見え始めた、その時だった。



『ゲボッ!』と言う排水管が詰まった様な音と同時に液体が床に落ちる様なビチャビチャビチャ!と言う音がした。辺りが騒然とし始めたので、龍一が振り向くと笠井が嘔吐して倒れていた。その吐瀉物が龍一の椅子に吐きかけられ、鍵盤ハーモニカもドロドロになっていた。だが誰も笠井に声すらかけない事への不安が勝ち、椅子をどかして見えていた向日葵模様のパンツを、ずり上がったスカートを下ろして隠し『笠井!笠井!』と声をかけた。その光景に教師が集まり、担架ではなく両手を両足を掴んで、2人の教師がまるでブタの丸焼きの様に保健室へと連れ出した。



練習は中断となり、各自椅子を持って教室へ戻ることになったのだが、龍一への冷ややかな目は容赦なく注がれ、心無い言葉がぶつけられる。『きたねぇ~』『ゲロまみれの椅子に座るんだぜ、あははは』『ハーモニカ見ろよ、ゲロ納豆ついてるぜ』またかよ…そんな気持ちで龍一はトイレに寄って椅子と鍵盤ハーモニカを洗った。『笠井、よりによって朝食納豆かよ』こんな状況なのに龍一は笑えた。



『吐く事考えて朝食のメニューなんか選ばねぇよな、ふふふ』そんな事を考えながら洗っていると、2人居る保健の先生のうちの1人である漆原(うるしばら)が入って来た。『いたいた桜坂君、貸しなさい』必要以上の大人の色気を出しながら龍一の鍵盤ハーモニカを受け取ると、消毒液で拭いてくれた。



『一応感染予防ね』とウインクする。



熟女好きの龍一はちょっとだけキュンとした。



教室に戻ると早速『きたきた!ゲロ彼氏!』『ああいうの好きなんだぁ』無視して椅子に座ると『きったねぇ!ゲロかかった椅子に座ったぜ!』『ゲロ彼女のゲロだからゲロ彼氏は気にしねぇんだろ』『わははははは』



もう少しわかりやすい表現はないものかと龍一は脳内で苦笑いすると、髪の毛で見えないが笠井がこっちを見てるように感じた。保健室で少し休んで戻っていたのだった。『15分程度しか休んでないだろ、大丈夫なのか?』そんな心配もしつつ、見ているであろう笠井に小さく机の上に置いた右手でグーサインを送った。笠井は気づいてコクリと少し頭を下げるのだった。



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放課後、玄関で靴を履いていると笠井が蚊の羽音の様な声で声をかけた。



『さくらざかくん』



『あれ、笠井、大丈夫か?歩いて帰れるか?』



『私のせいで、あの…』



『気にすんなって、慣れてるから、もうすぐ卒業だしな、あと龍一でいいよ』



『ご、ごめんなさい』



『いいっていいって、消毒したからゼロだ、あ!ごめん!汚いとかそう言うんじゃなくって、せ、先生!保健の先生が勝手に消毒したんだよ、うん…勝手に』



『ふふ…うん、わかってる』



『笠井、お前笑うんだな、あ!またごめん』



『ううん、私バカで…お兄ちゃんが優秀だから、家でもよその子みたいに扱われてて、だから…その…暗くなっちゃって…』



『少し髪切って顔だしたらいいじゃん』



『そ、そう…かな…』



『うん、わかんねーけど、その…前向けるよ…きっと…多分だけど』



『曖昧だね、ふふ』



『あ、また笑った』



『そ、そうだね、おかしいね』



『おかしくなんかないよ、おかしかったらおかしいって気持ちに素直になって笑えばいいんだよ』



『龍一君、わけ…わかんないよ、ふふ、おかしい』



『そう、それでいいんだよ』



『ありがとう、龍一君』



『いいって…あ!卒業するまで朝食に納豆喰うなよ、吐いてもいいけど洗うの大変なんだよ、あれなかなかネバネバが取れなくってさ』



クスクスクス『うん、わかった、パンにするね』
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